ぼやけていた視界が明瞭になり、見覚えのない天井が飛び込んできた。ぼんやりとそれを見つめていると、不意に気を失う以前のことを思い出して、がばり、と勢いよく身体を起こ――そうとしたけれど、体があまりにも重く、現実にはただ視線を彷徨わせることしかできなかった。
見慣れない天井だった。所々に染みのある木造りの天井は自宅のそれよりもいくらか高く、何か影のようなものが揺れている。日の光だろうか。室内はとても明るかった。ばら撒かれる光を辿るように視線を動かせば、障子が見えた。障子の向こうには木があるのか、ゆらゆらと枝ごと葉々が揺れるたびに木漏れ日が室内に影を描いていた。少し見惚れてから、視線を反対に向ける。すぐ近くには木桶と鉄瓶と湯呑みが置いてあった。その向こうには襖がある。その奥にあるのは押入れなのか他の部屋なのか判断はつかない。ここはどこだろう、と考えた後で、自分が布団に寝ていることに気づく。
自宅ではないのは確かだった。思考を巡らせて、そうして思い出す。花火。時代劇のような世界。どこにもないビル。月明り。浅黄色の羽織。
「夢じゃ、無かった……?」
呟いた声は擦れていた。久しぶりに声を出したかのように喉がひりついて少しだけ咳き込む。
「――ごめんね、入るね。大丈夫?良かったわぁ、起きたん?今お茶入れるから待ってて」
咳き込む音を聞いてだろうか、不意に聞こえた声とともに奥の襖が開いた。そこから見たことのない女性が入ってきたから、驚いて肩が跳ねる。狼狽して何も返事ができない私に怒るでもなく、にっこり笑った彼女は襖を閉めて私の布団の横に座った。美しい人だった。とっさに体をゆっくり起こすものの、体がふらついて思わず肘をつく。微笑みとともに「無理せんでええよ」と言われ、肘で体を支える体勢のまま頭を下げる。
「はい、お茶。ちょうどええ温度やと思うけど、ゆっくり飲んでね」
熱くもなく冷たくもないお茶は喉を刺激することなく体に染みわたるようだった。お礼を言うと、彼女は微笑んで、私から湯呑みを受け取ると、私の肩をそっと押した。重力に従って布団に戻ると、思わず溜息が漏れた。うすうす感じてはいたけれど、私はどうやら熱があるらしい。彼女は横の木桶に手ぬぐいを浸すと私の額にそっと乗せてくれた。ひんやりとした温度にゆっくり目を閉じれば、眠気がやってきた。それを察したように、「ゆっくり休みや」と彼女は笑った。
「すみません……」
「ええよ。まずは体を治しぃ。話はそれからや」
「はい」
「熱もそう高くないし、次に起きたらきっと良くなるよ。その頃にご飯作ってくるから、食べてな」
「ありがとう、ございます……」
「お礼なんかいらへんよ。あんた大変な目に遭ったんだから、ゆっくり休みぃ」
「あの……、ここは……?」
ぼんやりと滲む思考のなか。彼女のどこか苦しそうな微笑みが記憶に残った。彼女の訛りは上品で、きっと京弁だろうと考える。だからどうなのか、というところまでは思考が纏まらない。けれど、気がつけば口に出ていた。彼女はどこか遠くを見るような表情で、私に返事をしてくれた。一瞬だけ表情が凍ったような気がして目を見張るけれど、瞬きの後には微笑みが戻っていた。
「ここは……、新選組の屯所や。でも、今はそんなこと何も気にせんと休みぃ」
「そう、ですか……」
彼女の言葉に衝撃を受けつつも、深く考えられるほどの思考能力は今は無かった。ただ、どこか諦めにも似た気分になる。一方で、泣き叫びたいような笑いだしたいような感傷的な気持ちにもなった。気分の悪さに体から力が抜けていく。
「堪忍なぁ。あの人は悪い人じゃ無いけど、あんたには辛い思いさせるだろうから。せめて今はゆっくり休んでな」
小さく呟かれた言葉の意味を考えることもできず、私の意識は闇に沈んでいった。
次に目が覚めたときには、室内は橙色の光で満たされていた。障子に映る木の影が黒く室内に伸びる。夕暮れのどこか物悲しい雰囲気が心にせまって、なぜだかひどく寂しくなった。瞬きを何度かすると視界が明瞭になる。ゆっくり起き上がれば、先ほどの重だるさはずいぶんと軽くなっていた。額に手をやると熱くはなく、喉の痛みも消えていた。ゆっくり自身の体を見下ろすと、記憶にある自身の浴衣ではなく、薄い藍色の着物に橙色の帯がゆったりと巻かれていた。見覚えのない着物をじっと見つめて、そうして記憶を辿る。浴衣を切り裂かれた記憶と現在の状況からすると、先ほどの彼女が着替えさせてくれたのだろうか。
どちらにしても、あの記憶は夢ではないんだろう。納得はできないけれど、事実として理解する。どこか他人事のように感じてしまうのは、あまりにも現実味がないからだろうか。自身の手を数回握って開いて溜息を吐く。先ほどの女性は、ここを新選組の屯所だと言った。新選組。幕末に生きた人たち。現代日本に生きる私が会うことは絶対になかったはずの人たち。その存在はあまりにも遠くて、突然そこにいるのだと言われても、あまりにも現実味が無かった。
だって。新選組がいるのなら、ここは幕末の世だ。明治ですらなく江戸時代なのだ。文明開化の瀬戸際。徳川の世の最後。薩摩だの長州だの。あまり良くは知らないけれど、教科書に載っているような人たちがその辺を歩いている時代。しかも帯刀して。銃刀法違反なんて法律ができるずっと前だ。現代日本よりずっと血みどろの世界。死がもっと身近で。新選組なんて、激動の中心にあまりにも近い。
夢では無いのだとすれば、私は一体どうすれば良いのだろう。どうしてこんなことになったんだろう。怖い。あまりにも怖くて、体が震えた。
――帰りたい。
たとえば、不思議の国に迷い込んだアリスは本当はこんな気分だったんだろうか。わくわくなんてしない。ただひたすらに怖い。いつもの“自分の居場所”に帰りたかった。誰でも良い。家族でも友人でも、近所の人でも、学校の知人でも。たとえ会ったことのない人でも良い。平成の世を知る人に会って、顔を見て、安心したかった。
帰りたい。けれど。どこへ行けば良いというのだろう。前触れがあったわけじゃない。突然こっちに来た。強いて言うなら、
「……あの、花火?」
見たことが無いほど大きく美しかった。
あの、花火がきっかけなのかもしれない。この時代にも花火はあったはずだ。現代よりはずっと規模は小さいのかもしれないけれど。花火が上がれば、そのときそれを見れば帰れるのかもしれない。
その可能性に、心が跳ねる。もしかしたら。ここも“夏”なのだとすれば。
――帰りたい。
帰ることができるのかもしれない。
とん、とん。
不意に聞こえた音に、思考が途切れる。襖のほうから聞こえた音に少しの逡巡のあと、「はい」と答える。すっと開いた襖の向こうから灯りが漏れて、そのときになって室内がずいぶんと暗くなっていたことに気づいた。
「ごめんね、灯りもつけんと。ご飯食べれそう?」
「あ、えっと、はい……」
「雑炊なんやけど、食べれる?」
「あ……、はい。ありがとうございます」
彼女は灯り――行燈のようなものを私の布団の横に置くと、お盆の上の小さめの土鍋から茶碗に雑炊をよそってくれた。ふわりと香った良い匂いにお腹が小さく鳴る。聞こえてしまったのか少し笑った彼女は、「ゆっくりでええから食べて」と声をかけてくれた。茶碗とお箸を受け取って、その場で食べて良いのか逡巡すると、彼女はそれも察したのか、「気ぃつかわんと、そこで食べてええよ」と笑ってくれた。お礼を言って、その言葉に甘えて布団の中ではあるけれど、そのまま食べると優しい味が体に染みわたった。
「味つけ大丈夫?」
「はい、おいしいです」
「良かった。うちは山崎歩。名乗るん遅くなってごめんね。ここで賄い方やっとるんや」
「えっと、みょうじなまえです」
「なまえちゃんね。うちのことは好きに呼んでええから、よろしゅうね」
「はい……。ありがとうございます、歩さん」
「食べながらでええんやけど聞いてね。まず、なまえちゃんの着ていた浴衣なんやけど……、随分と切られててな。そのままではもう着られへん、と思うんよ」
「そう……ですか」
「……もし、大事な浴衣なら、無事な布地のところだけでも切り出して縫えば小物とかにはなるかもしれへんから、そうしてみる?」
「えっ、ほんとですか?」
「うん。ほな、できる限りやってみるね」
「ありがとうございます……!」
「あとな、体が大丈夫なら、でええんやけど、この後少し着いてきてほしいところあるんやけども、行けそう?」
「はい……、大丈夫です。だいぶ良くなったので動けそうです」
私の返事を聞いて微笑んだ歩さんは一瞬だけ表情を強張らせた。雑炊を食べつつその言葉と表情の意味を考えて、そうして予想がついた。ここは新選組の屯所なのだという。あの後の記憶が無いのだから、私はきっとあの場で倒れてしまったんだろう。私から事情が聞けなかった彼らは、他に方法がなくここに運んでくれたのだと思う。新選組は確か京都の治安維持的な活動をしていた、はずだ。だから助けてくれたんだろう。あの二人のうち、一人は多分あの有名な沖田総司なんだろう。もう一人はわからないけれど、あんなに強いんだからきっと歴史上に名の残った人なんだろう。あの場に置き去りにされなかったことから、きっと優しい人たちなんだと思う。けれど、きっとそう簡単に新選組の屯所――あんまり聞いたことのない響きだけれど、本拠地的な意味なんだろう――に人を連れてきて良いはずはないだろう。あまり詳しくはないけれど、新選組の規律は厳しかったはずだ。歓迎はされないだろう。こうして看病してもらえているということは、敵とは思われていないのだと信じたいけれど。
だとするなら、彼女の言う着いてきてほしいところというのは、たぶん責任者――この場でいえば新選組のトップ、またはその周辺がいるところ。つまりは、私が何者なのか探られる、といったところか。そうでなくても事情を聞かれるんだろう。それを心配してくれているのか、他の理由なのか、歩さんの表情の意味はやっぱりわからなかった。
「ごちそうさまでした。おいしかったです。ありがとうございました」
ほぼ一日何も食べていなかったからか、あまりにもおいしすぎたからか、あっという間に雑炊を食べ終わってしまった。そのままお茶もいただいて、改めてお礼を言う。少なくとも現代よりは、ここのほうが食糧事情は良くないだろう。そんな中見ず知らずの人間に食事を提供してくれたのだから、本当にありがたいことだと思った。
そうして後ろ暗い不安が首をもたげる。もしもすぐに帰れないのだとすれば――私はどうやって生きれば良いのだろう。
「ほな、行けそう?」
「あ、はい。大丈夫です」
声をかけられて慌てて思考を打ち切る。まずはここを乗り切らないとどうにもならないだろう。でも、どう乗り切れば良い?そして乗り切ったとしてどうなる?説明を求められても説明できることなんて何もない。私自身が、なぜここにいるのか理解できていないのだから。けれど、疑われたら?最悪の場合は殺されることも、あるのだろうか。痛いのは、嫌だ。けれど、もしも殺されることで戻れるのだとしたら?死ぬことで戻れるのならそれでも良いのかもしれない。どうせこの時代で生きていける気がしないのだし。現代日本のただの高校生がこんなところで誰の手も借りずに生きていけるはずがない。野垂れ死ぬよりは、一思いに殺されるほうがマシなんじゃないの?いや、そんなのはただの現実逃避だ。実際に襲われかけたときには、死にたくない、とあれほど思ったのだから。
だったら、どうにかして生きるしかないのだろう。
とりとめのない思考に終止符を打ったのは、「もうすぐ着くけど、ひとつ覚えておいて」という歩さんの言葉だった。廊下を先に歩いていた彼女は肩越しにちらりと微笑むと続けた。
「うちは、あんたんこと信じとる。悪い子やない。けど、“ここ”は狙われやすいところやから警戒せんとあかんのや。こっちの勝手であんたを連れて来たさかい、あんたには申し訳ないんやけども、堪忍な」
その言葉から自分の予測が当たっていたことを知る。なんて返事を返して良いのかはわからなくて、曖昧に笑うと、彼女は歩みを再開した。暗闇に包まれているから、現在の位置はよくわからなかった。左手の空間が庭だということはわかったけれど、いくつも通る障子に灯りはついていない。三つ目の角を曲がったときだった。行く手に橙色の灯りがついた部屋があった。その部屋の前で止まった彼女は、「堪忍な」とまた謝ると、「山崎です。連れて来ました」と中に声をかけた。灯りの揺らめく障子の向こう。いくつか黒い影が揺れて、「入れ」と声が聞こえた。
そのまま彼女に続いて入った私は驚愕する。
「単刀直入に聞く。お前は何モンだ」
きつい造作の美しい男が私に視線を向けた。凍てつくような、あまりにも冷たい温度。その両隣には穏やかそうな男のひとが二人。一人は眼鏡をかけていてどこか神経質そうな感じもした。もう一人は朗らかに笑っている。この部屋の中でたぶん一番好意的な表情だった。彼らの横には昨晩の二人――たぶん沖田総司だと思われる美丈夫と、茶色い髪をした年齢不詳の男の人。二人とも穏やかな表情だけど、その奥の目は笑っていなさそうだった。その向かいにとんでもなくイケメンの男の人。全員着物を着ているところを見るに、やっぱり現代ではなさそうだった。
彼らは皆物凄く見目麗しかった。のだけれど、驚いたのはそこじゃない。絶対零度の視線を向けてくる男の人の真ん前に置いてあるのは、間違いようもなくこの間機種変したばかりの私のスマホだった。でも、あっちの世界に置いてきてしまったと思っていた巾着に入れていたはずだ。だから、もう諦めていた。はずだったのに。
「え……、なんで」
あまりの衝撃に声が擦れた。
「これはお前が着ていた浴衣の帯から出てきたそうだ。これは何だ?お前は――どこから来た?」
江戸時代にあるはずもない現代の機器。あってはならない物。オーバーテクノロジー。一瞬で様々な言葉がよぎる。ただひとつ確かなのは、考えていた以上に、私の状況はとてもまずいということだった。
