ただ真っすぐに

 夢をみた。
 いや、夢というよりは記憶だ。三歳になったばかりの私が母と一緒に散歩に行くところだった。春の麗らかな陽気のなか。近所の公園に咲き誇るいろんな花の名を、母はたくさん教えてくれていた。小さな私をときには抱っこして、ときには手をつないで。見上げる母の顔はいつも優しい微笑みで。私の名を呼ぶ。私はそんな母を見上げるのがとても好きだった。私の人生のなかで、母がいない日はほとんど無かった。いつだって一緒だった。高校生になった今も変わらず。私は、幼いころから、今も、優しい母が大好きだった。公園で母と散歩するのは、私が思い出す一番幼いころの私の記憶だ。木漏れ日が母の顔に落ち、暖かい風が吹き抜ける。新緑の緑と薄桃色をした花のなかで、母が優しく笑っている。ぼんやりとしているけれど、本当に大切な記憶だ。


「お、かあさん……」

 自分の呟きを自覚して、目を覚ます。目を開ける前に願ったものの、開けてみればやはりそこは自分の部屋ではなかった。障子に移ろう木の影を見て顔をしかめる。天井にばら撒かれているのは朝の清冽な光だ。遠くに人のざわめきを感じる。ぼんやりと夢を辿るように揺蕩う。幸せな記憶だ。母の夢をみていたからだろうか。泣きそうになってしまった。会いたい。母に、父に、兄に、友人に、会いたい。大きく深呼吸をする。そうでなければ、きっと泣いていた。
 改めて自身を見下ろせば、昨夜と同じ着物を着ていた。記憶を辿って――首筋に手をやれば、そこには何か布、多分包帯が巻かれていた。左右に首を振るとわずかに痛みが走る。夢ではなかったのだと理解して、今更ながら鳥肌が立った。昨夜は何かが麻痺していたのかさほど怖くなかったけれど、改めて考えると恐怖が体を駆け巡った。あんなに正面から日本刀を見たのも初めてだったし、勿論向けられたのも、傷つけられたのも初めてだった。そこから先の記憶がない、ということは私はまた倒れてしまったのだろうか。近藤さんに、ここで働いてほしいと言われたのは覚えている。実質見張られることになるだろうことも理解している。けれど、それが不服かと言われればそうでも無かった。行動を見張られるくらいで済むのなら、かなり良心的な対応だ。とりあえずの生活もできる。その中で帰る手立てを考えることもできそうだった。
 とりあえず布団から出て、布団を畳んでみるけれど誰も訪れる気配が無かった。逡巡してから、そっと障子を開けてみる。昨日は反対側の襖から廊下に出たことは覚えているけれど、そっちに出ていく勇気は無かった。障子を開ければ、そこは縁側だった。つるりとした床板が庭に迫り出していて、大きな木が植わっている。縁側の向こうは両方とも壁で行き止まりになっているようだった。そのことに少しほっとした。木の向こうにはいくつかの低木が植わっていて、薄紅色の花が咲いている。その向こうには奥行きがあって、どこかに通じているのかもしれなかったけれど、勝手に出ていく気にはなれなかった。


「帰りたいなぁ……」

 時間を確認しようと室内に視線を移して、そのまま嘆息する。時計なんてあるはずもない。現代とは勝手が違いすぎて、ついぼやくように言葉が零れた。帰りたい。帰れるのだろうか。二度意識を失ったけれどその間に帰ることはなかった。帰りたい。もしも帰れなかったらどうしよう。不安が波のように寄せては引いてまた寄ってくる。考えないようにしても、不安は消えてくれない。
 ざあ、と木の枝が風に揺れる。その様子を見つめて、深呼吸をする。葉擦りの音をぼんやりと聞いていると、少しは気持ちが落ち着いてくるのがわかった。


「起きたのか?」

 だから。不意にかけられた声に思いっきり肩が跳ねてしまったのは仕方ないことだろう。
 声の出所を探るように後ろを振り向けば、いつの間にか襖が開けられ、黒衣の美丈夫――土方さんが立っていた。まさかの人物に驚きから目を見開く。なんとなくここへ訪れるのは歩さんだけだと思っていたからだ。彼の表情は昨日とは違ってどこかばつの悪そうなものだった。その目に敵意は感じられない。少し緊張しながらも頷けば、彼は「そうか」と言ったっきり口を噤んだ。中へ入ってもらおうかどうしようか迷って、そもそも自分の部屋でも無いことに改めて気づいて、結局何も言えずに口を閉ざす。少しの無言の時間が過ぎて、気まずさに視線が泳いだとき、「昨日は、」と言葉が落ちた。少し迷ったような口調。本当にあのときと同一人物なのかわからないほど、言葉から冷徹な色が消えていた。


「流石に遣り過ぎた。すまなかった」

 あまりにも私が驚いた顔をしていたんだろう、とたんに睨みつけるような表情になった土方さんは、「それだけだ」と言い置いて踵を返した。慌てて呼び止めれば、じろりとした視線が返ってきた。


「私、あのあとの記憶が無くて……」
「廊下に行こうと立ち上がったお前が意識を失って倒れた。俺のほうに倒れてきやがったから、しょうがなくこの部屋に運んで手当してやった。首のはかすり傷だ。じきに治る」
「土方さんが運んで手当をしてくださったんですか……?」
「何か不満か?」
「いっ、いえ。あの、ありがとうございました」
「ふん。俺はまだお前のことを信用したわけじゃない。取り入ろうとしたって無駄だ」
「違います。あの……、生意気なこと言ってすみませんでした」
「ちったァ喋る気にでもなったか?」
「いえ。昨日の質問には答えられません」
「……ふん。仕事は明日からで良い。後で山崎くんが来るから内容はそのときに聞け。何か怪しいことをしてみろ。今度こそ拷問してでも吐かせてやる。それと、一人で屯所の外に出るのは禁止だ。わかったか?」
「はい。ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。近藤さんが決めたことだ」

 しょうがなく、を強調されたものの部屋に運んで手当をしてくれたのが土方さんだと知って心底驚いた。完全に毛嫌いされている雰囲気だったし、首の傷なんて放置されるものだと思っていたのに。手当は歩さんがしてくれたのだとばかり思っていた。それに、言葉がだいぶ刺々しいのは変わらないけれど、昨夜とは違って拒絶されている雰囲気ではなさそうだった。それが嬉しくて、彼が部屋を出て行ってから、頬が緩んだ。信用はされていないんだろう。けれど、出会った瞬間に敵意を向けられることはもう無さそうで心底安心した。それだけでも抱えていた不安のいくらかが軽くなったのを感じた。もう一度縁側に立って外を見つめる。今度はきちんと青空を見上げて、気合いを入れる。うじうじ悩んでいてもしょうがない。とりあえず目の前のことをひとつひとつクリアしていけば、きっと帰ることができるはず。生きてさえいれば、いつか。


「ちゃんと帰るから、待ってて。お母さん、お父さん、お兄ちゃん」

 遠い空の向こうに、いつもの母の微笑みが見えたような気がした。

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