お姉ちゃんは一度死にました
お姉ちゃんはポケモンが大好きな人だった。
わたしを連れて家を出ては、通りすがる人が連れてるポケモンや街の外の道路を走るポケモン、空を飛んでいるポケモンを指差して、そのポケモンの名前とかタイプとか、覚える技とかをわたしに沢山教えてくれた。
まだ幼かったわたしは教えてもらったことのほとんどが理解できなかったし、覚えておくことも出来なかったけど、きらきらとした目で語るお姉ちゃんがとても素敵で、そんなお姉ちゃんが好きなポケモンをわたしも大好きだった。
「はやく大きくなって、ポケモンと旅をしたいな」
そう言うお姉ちゃんにわたしは、わたしもいっしょに連れてってとせがんでよく困った顔をさせた。困り顔のお姉ちゃんは、でもヒカリはまだおねしょするでしょ、おねしょが治らないと一緒には行けないよ、って言う。ほんとはお姉ちゃんが、わたしと旅をする気なんて全然無いこと知ってたけど、わたしはどうしてもお姉ちゃんと一緒が良くて何度も何度もせがんでた。
お姉ちゃんは六歳になるとトレーナーズスクールに通い始めた。六歳から通えるスクールにまだ四歳のわたしは通えなくて、毎朝お姉ちゃんが家を出る時お姉ちゃんが居なくなるのが嫌でいつもギャンギャン泣き喚いた。
「帰ったらスクールで習ったこと、ヒカリに教えてあげるから」
きっと毎朝お姉ちゃんを引き留めるわたしにうんざりしてただろうに、お姉ちゃんはちっとも怒らなかった。
たまに意地悪だけどお姉ちゃんはすごく優しい人だ。
スクールで習ったことは、家に帰ると一番にわたしに教えてくれる。復習にもなるからって、お姉ちゃんのノートを見ながら、お姉ちゃんが先生の話をわたしでも分かるように簡単にして話し聞かせてくれる。
「ヒカリはどんなポケモンと旅をするんだろうね」
そう言ってわたしを見ながらわたしといろんなポケモンを想像しているようで、どこか遠いところを見るような目で微笑むお姉ちゃんの表情が、わたしは一等好きでいつまでも見詰めていたかった。
そんなお姉ちゃんが変わったのは、スクールに通い始めてそう時間が経っていない頃だ。
きっかけは、わたし。
わたしのせいで、大好きなお姉ちゃんは人形のようになってしまった。
あの日のことは驚くぐらい鮮明に憶えている。ママが用事で家に居なくて、わたしは連れて行けないからってお姉ちゃんとトレーナーズスクールに行くことになったあの日。トレーナーズスクールに行けるのが嬉しくて、何よりお姉ちゃんと一日一緒に居ることが出来るのが嬉しくて前日からわくわくが止まらなくて仕方が無かった。当日の朝もはやくはやくとお姉ちゃんを急かしてスクールはまだ開いてないと窘められ、行きの道でも早く歩こうとして何度も転びかけた。それだけ楽しみでいてもたってもいられなかった。
けれどその感情が、恐怖に塗り替えられるのはほんの一瞬のことだった。
スクールに居ないはずのポケモン二匹。そのトレーナー二人の表情は対照的で、一人は悦に入ったようなどこか嫌な雰囲気の笑みを浮かべ、もう一人は困ったような怯えるような楽しいとはひとつも思っていない表情をしていた。
ゆっくりと後ろを歩いてくるお姉ちゃんを急かしながら小走りでスクール内を見て回っていたわたしは初めて見るポケモンバトルに思わず足を止めてポケモン達に見入ってしまって、ポケモンがわたしに向かって突進してくるのをただ呆然と見つめることしか出来なかった。その時はまだ恐怖は感じてなくて、ただただ何が起こっているのか分からず、あのポケモンは確かビッパだったはずとか呑気に考えていた。
自分の置かれた状況に気付いたのはお姉ちゃんの声が聞こえた時。避けて、と普段聞いたことの無い切羽詰まった声が聞こえて、そこでようやくビッパの技の対象がわたしであることに気付いた。だけどもうビッパはすぐ目の前まで迫っていてわたしはただ身を固くして目を強く瞑るしか出来なかった。
ドス、と音が聞こえたのはその直後。
何かが落ちる音に目を開けば斜め前にお姉ちゃんが居て、離れたところにビッパが落ちていた。それから大人の女の人の声が聞こえてそれを皮切りに一斉に周りが騒がしくなって、あまりの大合唱に何を言われているのかなんて全然分からないまま、わたしはお姉ちゃんを見た。
お姉ちゃんはいつも笑顔を浮かべている人。なのに、その時のお姉ちゃんの顔に表情は無かった。きらきらと光っていた眼は空っぽ。ずっと細められていて垂れ目だと思っていたのに、本当はそんなに垂れ目じゃないなんてその時初めて知った。
お姉ちゃんから笑顔が消えるなんて、笑顔じゃないお姉ちゃんなんて、想像したことも無かった。
溢れてきたのはとてつもない恐怖。
無表情のお姉ちゃんが怖かった。お姉ちゃんから笑顔を奪った周りの全てが怖かった。
「名前ちゃんが野生のポケモンを蹴った」
お姉ちゃんが。ポケモンを大好きなお姉ちゃんが、なんで。お姉ちゃんはそんなことしない。する訳が無い。じゃあなんでそんなことに。
わたしに向かってきていたビッパ。目を開いたら斜め前にいたお姉ちゃん。わたしを、助けるため?
わたしを助けるために、お姉ちゃんは大好きなポケモンを蹴った? こんなことが起こったら危ないからスクール内でポケモンをボールから出すことは禁止されていたのに、それを破った人のせいでわたしはポケモンの技に当たりそうになってお姉ちゃんは大好きなポケモンを蹴飛ばさないといけなくなった。原因はあちら。なのに今責められているのはお姉ちゃん。どうして。
わたしは何度も何度も違うと叫んだ。野生のポケモンだなんて嘘だ。わたしは確かに見たんだ。トレーナーが指示を出しているポケモンバトルを。野生のポケモンなんかじゃない。わたしに襲いかかったのはトレーナーのいるポケモン、お姉ちゃんが蹴らざるをえなかったのはトレーナーの指示で繰り出した技を混乱したせいで人間に向けてしまったポケモン。お姉ちゃんがわたしを助けてくれなかったら、わたしは。ちゃんと伝えなければいけないのに違うという言葉しか叫べなかった。言葉がちっとも喉から出てくれなかった。違う以外の言葉を言えていても結果は同じだったかもしれないけれど。
わたしの声は、誰にも届かなかった。何度違うと叫んで泣き喚いても、不自然な程誰もわたしを気に留めなかった。お姉ちゃんが悪いわけじゃないのに、周りが勝手にお姉ちゃんを悪者に仕立て上げていく。
わたしが何を言っても、誰の耳にも届かない。それが心底恐ろしかった。わたしはちゃんとそこに存在していたのかも分からない。その時だけわたしは幽霊にでもなっていたのかもしれないなんて、馬鹿なことを考えるぐらいに誰の目にもわたしは映ってなかった。全身で、全力で泣き喚いて存在を主張しても周りは同じ言葉を繰り返すばかり、わたしに反応を示してくれる人は誰一人居なかった。
怖くて怖くて仕方が無かった。悪いのはわたしでもお姉ちゃんでもない。ただきっかけはわたしで。わたしが、お姉ちゃんから離れてポケモンバトルに見入らなければ、自分でビッパの攻撃を避けれていれば、お姉ちゃんはこんな風にならずに済んだはずなのに。お姉ちゃんから笑顔が消えるなんてことにならなかったはずなのに。
泣いてお姉ちゃんに縋りながら違うと叫び続けて数時間。子供からは嘘ばかりぶつけられ、大人からは怒声が降り注いだ。怖くて逃げ出したくて、だけどお姉ちゃんの傍を離れるわけにはいかなかった。こんなお姉ちゃんを否定する人達の中にお姉ちゃんを残す訳にはいかなかった。
お姉ちゃんは、まるで時を止められたかのようにぴくりとも動かずその場に立ったまま。
ちゃんと息をしているのかもわからない、温かいマネキンみたいに思えて恐ろしかった。
いや、マネキンというより、まるで───。
ママが迎えに来て家に連れ帰られる。わたしはお姉ちゃんの傍に居たかったのにママは泣いているわたしを無理矢理お姉ちゃんから引き離して抱き上げて歩き始めた。お姉ちゃんはママに腕を掴まれて、引き摺られているみたいだった。
ママはいつもなら絶対言わないような言葉でお姉ちゃんを怒った。ううん、今なら分かる。あれは怒っているというより、罵っていた。
わたしはママの口から吐き出される言葉が嫌で聞きたくなくて、泣き過ぎて疲れ切っていたこともあってそのまま眠ってしまった。お姉ちゃんを一人にしちゃいけなかったのに。
そうしてしばらく経ってから目覚めて、気付けば家に帰ってきていた。お姉ちゃんはスクールに居た時と同じ表情が抜け落ちた顔で、ソファーに座ってぼんやりとどこかを見ていた。
「お姉ちゃん」
呼び掛けても返事は返ってこない。目の前に立っても視線は合わない。
いつものお姉ちゃんじゃ、ない。
そう、まるで、まるで。
思い出すのはほんの数ヶ月前、父方の祖母が亡くなった時のこと。遺体を見てみんな、眠っているみたいだなんて言っていたけど、わたしはそうは思えなかった。見た目は変わらなくても、気配が違う。生き物の気配がなくなった置物。見た目が変わらないからこそ、恐ろしい物。
おばあちゃんの遺体と、今のお姉ちゃんが同じに見えた。
まるで、そう────死体のよう。
身体は生きていても、お姉ちゃんは死んだのだとわたしは思った。
わたしの、せいで。
次の日から、親戚とか近所の人だとかが家によく来るようになった。言ってくるのはお姉ちゃんの悪口とか、お姉ちゃんを育てたママの悪口。毎日、毎日。そのうちパパが家に帰ってこなくなってわたしたちは引っ越すことになった。
スクールでのことがあってからどこにいても周りに居る人が恐ろしくて堪らなかったから、これでもう怖くなくなると思うとほっとした。
お姉ちゃんは、動く人形のようになっていた。家に帰ってきてしばらくは動くこともなかったから本当に死体のようだったけど、わたしも慣れたのかお姉ちゃんが動くようになってからは死体だとは思わなくなった。
それでもやっぱり、視線は合わないし喋らないし前のお姉ちゃんとは違い過ぎて別人のようにしか思えなかったけれど。
引っ越す前どんどん憔悴していっていたママは、フタバタウンに引っ越してきてから少しずつ元気を取り戻した。
前と同じように、いや前以上にわたしを可愛がるようになって、食事は毎日わたしの好物ばかり、わたしが遊ぶ時はいつもママも一緒に遊んでくれた。
異常だと気付いていた。だけどまだ幼いわたしは、可愛がってくれるママに依存するしかなかった
居なくなったパパ、別人のようになったお姉ちゃん。
わたしはまだ子供で、甘えたい盛りで、構ってくれるママが居ないと駄目だった。家族が歪なのは分かっていても、そうするしかなかった。
そんなわたしでも、ママを嫌悪する時があった。
ママがお姉ちゃんを見ている時。
わたしを極端に可愛がるようになったママはお姉ちゃんと視線を合わせなくなって存在を無視するようになったけど、お姉ちゃんが別の方向を見ている時、ママはお姉ちゃんを見ていることがあった。
その目は恨んでいるような憎んでいるような酷く禍々しい視線で、ママがそんな目をしている時わたしは物陰に隠れて身体を震わせていた。怖くて怖くて堪らない、とてつもなく嫌なもの。幼いわたしにはどうすることもできないもの。わたしは逃げた。どうにかしたくても近寄ることも出来なくて、心の中でお姉ちゃんにひたすらごめんなさいと謝りながら。
お姉ちゃんは部屋から出てこなくなった。ママの異常な構いたがりは収まった。だからといって良かったとは、思えない。
このままじゃいけないと分かっていたのに、わたし一人じゃどうすることも出来ないことも分かっていた。
この沈んでいくしかない泥舟のような家からはやく抜け出したいのに、その術は無かった。
「赤いギャラドスを探しに行こう!」
ある日突然そう言い出したのは、フタバタウンに引っ越してきてから知り合った幼馴染のジュンだった。テレビで見て近所の湖にも凄いポケモンが居るかもしれないと考えたらしい。
わたしは、いくら近くだといっても町の外には出たくなかった。
初めは人しか恨んでいなかった。ポケモンに襲われたといってもバトルの中でのアクシデントで、トレーナーズスクールというポケモンを繰り出すことを禁止されている場所でのことだったから、悪いのは人間でポケモンを恨むのは筋違いだと思っていた。だけど家に閉じ篭ってポケモンと関わらない生活をしているうちに、人だけを恨んでいたのにあの時のことを連想させる全てが嫌いになっていた。
いくら混乱状態だったとはいえなんでわたしに向かってきたのかとか、トレーナーの指示があったからってどうしてあんな場所でバトルをしてたのかとか、お姉ちゃんがポケモンを好きでなければわたしもポケモンを好きじゃなくてあの日スクールに行かなかったかもしれないとか、ポケモンがこの世界に存在していなければあんなことは絶対に起こらなかったのに、とか。
逆恨みもいいところだ。
けれど家にほぼ閉じ篭ったままだったわたしもママやお姉ちゃんと同じようにどこかおかしくなっていたようで、そんなことを考えて勝手にポケモンに恨みを募らせて嫌いだと思った。
だから、ポケモンの出る町の外には出たくなかったのに。
ジュンは悪い奴ではないのだけど、夢中になると人の話を聞かないところがあった。
その時も、わたしが何度外には出たくないと言っても「ポケモンが出て来てもオレが何とかしてやる!」と言って無理矢理わたしを外に連れ出し、何がなんでもシンジ湖に向かうことしか頭になかったみたいだ。
わたしは嫌々シンジ湖に向かった。本当に嫌々だった。ジュンを恨む程に嫌で、だけど、きっとそれはわたしの運命だったのじゃないかと、今では思っている。
ジュンに連れられて向かった湖で出逢ったのは、ずっと必死で求め続けていた、現状から脱却するための術だった。
目の前に並べられた三つのモンスターボール。
三匹のポケモン。
その中の一匹にわたしは目を奪われた。
その眼に惹かれた。
小さなサルの姿をしたポケモン。お尻の炎。大きなくりっとした目。
私が大好きだったお姉ちゃんのきらきらと輝く眼によく似た綺麗な瞳がわたしを映していて、鼓動が高鳴った。
あの眼が大好きだったけど、お姉ちゃんは真っ直ぐ私を見た事はない。それでも良いと思っていた。あの眼を見ていられるなら、その眼に映らなくても構わなかった。
だけど、目の前のポケモンの、ヒコザルの眼に自分が映っていることへの高揚感が誤魔化していた不満を塗り潰す。物足りないと感じていた部分が、ヒコザルの視線で埋められていく。
ポケモンは、まだ嫌いなまま。幼い頃から意識に刷り込まれたものは消えることはない。
それでも、その瞬間ヒコザルはわたしの特別になった。わたしの、わたしだけの、他のことなんてどうでも良くなる、唯一。
この子とならわたしは強くなれる。逃げたり隠れたりしなくてもよくなる。そしてきっと、今度こそお姉ちゃんを守ることが出来る。
根拠なんて無かったけど、確かにそう思った。希望が道となってわたしの目の前に広がったと感じた。
そうして気付けばわたしは、ヒコザルのモンスターボールを手放さないよう強く強く握り締めていた。
シンジ湖の畔で襲ってきたポケモンを撃退して、ナナカマド博士やコウキと知り合って。
そしてヒコザルが正式にわたしのパートナーとなったその時を、わたしは絶対死ぬ時まで忘れることは無いだろう。
「あなたの名前は今から、アリマサ。アリマサ、だよ。……よろしくね」
ヒコザルの名前は、まるでずっと昔から考えていたみたいに口から滑り出た。わたしの言葉を聞いて、ヒコザルは、アリマサは嬉しそうに高らかと鳴き声をあげた。
わたしは、旅に出る。薄暗くて穏やかな檻のようなあの家を出よう。
お姉ちゃんを連れて。
わたしが一度殺してしまったお姉ちゃんを生き返らせるんだ。それがたとえわたしのわがままだとしても。
これは多分わたしにしか出来ないことだから。
そしてお姉ちゃんが息を吹き返したらきっとわたしは、お姉ちゃんの後ろを着いていくだけじゃない、お姉ちゃんの真似をするんじゃない、わたしだけの未来を進むことが出来るようになると、信じている。
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