愛されないのが悲しい
※ポケモン×ポケモン、名前変換無し
どれだけ逃げても、周りはいつも敵ばかりだった。
ただ色が違うというだけで同じ種族の奴らからは虐められ、珍しいからと人間からは追いかけ回され、目立つ色故に草むらに隠れていても他のポケモンに見付けられ攻撃される。
どこに行ってもそんな感じで、私の体にはいつも傷が絶えなかった。
傷痕だらけの汚い体。それでも生きたくて死にたくなくて、私はがむしゃらにさ迷い続けた。何処かに私が静かに暮らせる場所がきっとある。そう信じて。
そうして辿り着いた大きな街の近くの道路。そこにあいつがいた。
「お前綺麗なやつだな!」
初めて出会った時、あいつは開口一番そう言葉を私に投げ付けてきた。
ずっとずっと昔、私が故郷に居た頃ならその言葉を信じられたかもしれない。けれど私はもう、自分以外の誰かを信じることなんて出来なかった。こんな傷痕だらけで色の違う私が綺麗だなんて思えるわけがなかった。自分以外のやつなんて、敵としか思えなかった。
「思ってもないこと言わないで!」
言い返して草むらに逃げ込む。走って走って、途中で力尽きて倒れ込む。そこから一歩も動けずに私は意識を失った。
酷く空腹だった。何日食べていないかなんて、もう覚えてもいなかった。
次に目覚めると辺りは暗く、私の周りには沢山のきのみが置いてあった。空腹のあまりに何も考えられず、喉を鳴らして私は無我夢中できのみを貪った。
食べ終わってから、誰かの視線に気付く。そこに居たのは綺麗だなどと言ってきたあいつ。
私はすぐさま逃げ出した。同じ種族だろうと仲間じゃない。今までと同じで酷い目に合わされる。あのきのみは罠だったのかもしれない。はやくはやく、あいつから離れないと。
草むらを走り抜けると唐突に拓けた場所に出て、咄嗟に身構えた。沢山の目がこちらを見る。同じ種族の、コリンクの群れ。異物を見る視線にしまったと思った瞬間、のしっと背にのしかかられた。
「なぁなぁ、お前どっから来たんだ? あんなとこで寝るとか家ねぇの?」
あいつに、追い付かれた。それを理解して身を縮こませる。ここはこいつの群れなのだ。こいつは私より一回り以上大きくてがっしりしている。この群れの長なのかもしれない。私は酷く弱い。力でも数でも勝ち目は、無い。
「なんか喋れよ」
「なんだそいつ?」
「拾ったのか?」
「色が違うやつだ」
「傷だらけ……」
「汚い」
「余所者か」
ぞろぞろと気配が近付いてくる。今度こそ私は殺されるのかもしれないと思えば恐ろしくて、体が震え始めた。今まではなんとか逃げ切れたがそれは運が良かっただけ。強いやつに地面に押し付けられ、周りにはその仲間達。涙だけは零すまいと歯を食いしばった。
「こいつ俺が拾ったから俺んの! お前ら虐めんなよ」
背にのしかかっているやつがそう言ったかと思えば離れて、今度は前脚に噛み付かれた。踏ん張っても為す術なく、私は何処かに引き摺られていく。
しばらく引き摺られて、転がされたのは木の洞の中。
入口を塞ぐように寝そべられて、逃げ道は無かった。
それが、私と大嫌いなあいつとの出会いだった。
それから私はその群れの中で過ごすことになった。
受け入れられた訳じゃない。コリンク達は色違いの私に冷たい視線を向けるし陰口を言われているのを聞いたこともある。けれど今までみたいに直接痛めつけられたりはしない。私に関わるのはいつもあいつだけ。
「お前本当に無愛想だな。少しは喋ったり笑ったりしろよ」
「なんで飯食うのに隠れるんだよここで食え」
「そんなんじゃつがいが出来ねぇぞ。可愛く振舞ってみろよ」
あいつはいつも嫌味を言う。毎日毎日、何かしら言ってくる。
他にも頭やら手足やら背中やら尻尾やらを噛んでくる。酷い嫌がらせだ。傷になるほどじゃないが覆いかぶさられて体を噛まれるのはとても怖かった。
食事となるきのみはどこからかあいつが採ってきて渡される。まるで施しのように感じていつも拒むけれど、あいつは無理矢理私の口の中にきのみを突っ込んで食べさせようとしてくるから最近では諦めて自分で食べている。屈辱でしかなくていつも泣かないようにするのが苦痛だった。
居心地の悪い場所。逃げたくてしょうがないのに、コリンクの群れは皆私より強くて、私があいつに放り込まれた木の洞から出れば直ぐに見張りのように誰かが着いてくるから逃げることも出来ない。隙をついて姿を隠しても、何処からかあいつが現れて直ぐに木の洞に連れ戻される。
同じコリンクだというのに、まるで私はあいつの玩具のようだと思った。
逃げられないまま数ヶ月経って、殺されはしないと理解してもあいつ以外のコリンク達からは邪険にされあいつには嫌がらせめいたことばかりされ、どうにかして逃げたいと思っていた頃だった。
あいつに上からのしかかられ体中に噛み付かれる。痛みは無いがいつその牙が肉に突き刺さるかと恐れ身を固くしていた時、息が首にかかって頭に血が上った。首筋を、噛まれる。そう思って私は咄嗟に全力で抵抗する。
背後から首筋を噛む行為は、どんなポケモンでも求愛行動にあたる。コリンクやその進化系のルクシオ、レントラーもそうで、ぐるるると特別な喉の鳴らし方をしながら噛み付くのが求愛行動だった。こいつは、喉を鳴らしもせず私の首筋に噛み付こうとした。
「なんだよ、俺の嫁にしてやろうってのに」
「っ、……やだ!!」
ちゃんとした求愛でもないくせに!
私の事なんて玩具みたいにしか思ってないくせに!
「嫌がらせで求愛するなんて、最低!」
のしかかっているやつを蹴り飛ばして私は全力で逃げ出す。
体が重い。ここに来てから満足に動くことも出来ずただ与えられる施しを食べて過ごすだけだったから当然だ。
それでも絶対に逃げ切らなければ。嫌がらせでつがいにさせられるなんて、そんな惨めなこと真っ平御免だ!
息が上がる。心臓が痛い。それでもひたすら脚を動かす。
草むらの丈が低くなってきた。もうすぐ道路だ。視界が拓ける。
「あ! 色違いだ!」
子供の、人間の声。しまったと思った時には子供の手から放たれたモンスターボールは私に向かって飛んできていた。驚いて咄嗟に止まってしまって直ぐには体勢を戻せない。
捕まってしまう。
呆然とモンスターボールを見上げていたら、ボールと私の間に影が割り込んできて、影はモンスターボールに吸い込まれた。ボールは影に当たったんだ。そう理解して慌ててガタガタと揺れるモンスターボールを覗き込むと、中にいたのはあいつだった。
「なんで……」
「あれー別の子が入っちゃった」
子供がまたボールを構える。今度こそ私が捕まえられる。早く逃げないとと思うのに、先にボールに入ってしまったあいつが気になって脚が躊躇う。
子供がボールを投げて、けれど私に当たったのは別の場所から飛んできたボールだった。
「ああ! 酷い、色違いの子私が狙ってたのに、なんで捕まえちゃうの!」
「お前には色違いポケモンとか手に負えねぇっての」
また別の子供。
少女とそれより少し年上の金髪の少年。二人は私とあいつが入ったボールをそれぞれ拾うと口論を始める。
少女は私を捕まえようとしていて、でも捕まったのはあいつで。
私は少年に捕まった。
「出てきてコリンク!」
「いけ、コリンク!」
あいつと同時にボールから出されて向かい合う。初めて、視線を合わせる。
「コリンク、体当たりよ! ……コリンク?」
少女があいつに指示を出すのを聞いてこれからポケモンバトルをするつもりなのだと気付く。トレーナーの指示がなければ逃げることは出来ない。力はあいつの方が上だ。一方的に甚振られるのだろうと思ってぎゅっと目を瞑って身構えた。
けれどいつまで経っても攻撃されることはない。
「…………?」
そっと目を開けるとあいつは戸惑うように私と少女を見比べるばかりで、攻撃してこようとはしなかった。
何故。トレーナーの指示は聞かなきゃならないのに、なんで逆らうんだろう。
「攻撃してこないならこっちから行くぞ! コリンク、体当たり!」
少年の声に反射的に体が動く。逃げたい逃げたいと思っていたあいつに向かって、私は体をぶつける。あいつは、避けない。
私の攻撃なんて大したダメージじゃない筈なのにあいつは容易くよろけて、ゴツンと硬い音が鳴った。転がるように離れて体を起こしてみるとあいつの体の向こうにはあいつと同じぐらいの大きさの石があって、それにぶつかったのかあいつは目を回していた。
「コリンクー!」
「お前のコリンクは戦闘不能だ。俺の勝ち」
「う、ううぅぅううう……!」
少女があいつを抱き抱えて泣きそうな顔をする。あいつが私の体当たりを避けていたら、私の負けだった。私はあの石に気付いていなかったから、本当ならそのまま突っ込んで目を回していたのは私だった筈なのに。あいつが避けなかったからあいつは負けて、少女は少年に負けて泣いている。
唇を噛み締め少年を睨んで、少女は叫ぶ。
「絶対、絶対勝ってやるんだから! コリンクを鍛えて、絶対勝ってやるんだから!!!」
少女はあいつをボールに入れて、街の方へ走っていく。あいつは少女のポケモンになった。もう群れへは戻れない。
…………私は。
近付く足音に体が強ばって身を縮こませる。
「お前傷だらけだな。でも最近出来た傷は無い。……さっきのコリンクに守ってもらってたのか?」
優しく頭を撫でられて恐る恐る少年を見上げた。
あいつに守られてた?
分からない。分かりたくもない。だって今まで色違いの私を守ろうとしてくれたポケモンなんていなかった。確かにあいつの群れに連れていかれてから傷が増えることは無かったけれど。
あいつは、いつも意地悪してきたし。
さっきのバトルだって、あいつが避けなかったのも私に攻撃してこなかったのも、きっといきなり捕まって驚いてたからだろうし。
あんな嫌がらせめいたことばかりしてきたあいつが私を守ってただなんて、嘘だ。
「お前は今日から俺のポケモンだ。お前がこんな怪我もうしないように鍛えてやるからな」
腕に抱えられて街に連れていかれる。人間にはいつも追いかけ回されたけれど、この少年はどうだろうか。他の人間はボールなんて使わなかった。網や籠で捕まえられそうになって嫌な感じがして、ずっと逃げてきた。でもこの少年やあの少女からはあんな嫌な感じはしない。私には戻る群れなんて無いし、このまま彼の手持ちになっても大丈夫だろうか。
「あのコリンクとも、またバトルすることになる。絶対勝とうな」
あいつのことを思い出すと、何だか泣きたくなった。
いつも嫌がらせばかりの、けれど私を追い出そうとせず傷付けることも無かったあいつ。
誰も信じられない。皆敵。
だけど本当は少し、私を綺麗だと言ってくれたあいつを信じたいと思う気持ちも、本当に少しだけあった。
「……ごめんなさい」
きゅうと鳴き声をあげる。
あいつのことは、嫌いだ。でもあいつが捕まったのは私を追い掛けて草むらを出たせいだから。
「ごめんなさい」
面と向かっては絶対に言えない謝罪を、私は少年の腕の中できゅうきゅうと鳴き続けた。
「ルクシオ、かみつく!」
「ルクシオ、斜め後ろに避けろ。岩を足場に飛んで回り込め!」
「あ! ルクシオ後ろ……!」
「スピードスター!」
私が放ったスピードスターがあいつを捉える。絶対に避けられやしない、沢山の星。
少女があいつに出す指示は昔より的確になったが、それでも、私のマスターにはまだ及ばない。
「また負けたー」
「前よりはマシになったぞ」
「……その言い方ほんとムカつく!」
マスターが少女の頭をぽんぽんと叩く。このやり取りを何度見てきただろう。マスターと少女は頻繁にポケモンバトルをするが、彼らの目的はバトルの勝ち負けではないと私はとっくに気付いていた。バトルは、ただの口実。
「バトルで負けた方がなんでも言うことを聞く、さぁ! 今日の命令はなに!」
「そうだな……」
マスターと少女は互いに思い合っている。二人とも片思いだと思っているみたいだが、私含め二人の手持ちのポケモンは皆気付いていた。二人とも素直じゃないせいで、ポケモンバトルを口実にしなければ会えないとは微笑ましい。
いつものやり取りを尻目に、私はマスターと少女の手持ちのポケモンが集まっている場所に行く。昔の事があるせいで、私は仲間をまだ完全には信頼しきれていないけれど、皆は私を仲間と認めてくれているらしい。近付くとマスターのパートナーであるレントラーが隣に座るようにと手招いてくる。
「おつかれ」
「おつかれルクシオー。久し振りのバトルだったけど危なげなく勝てたねー」
「マスターの指示が良いもの」
レントラーの横に座っていたライチュウが労ってくれる。他にも少女の手持ち達が次々と良いバトルだったよ、とか、素早さが上がったねとか話し掛けてくれる。無愛想な私を気遣ってのことだ。話し掛けられなければ私は無言で隅に座って勝手に気まずくなってしまうから。
こんな面倒臭い私でも、彼らは相手にしてくれる。
「まーた皆に気ィ遣わせてんのかよ」
のしっと背に体重が掛けられた。
こんなことをするのはこいつ一匹しかいない。
初対面でものしかかってきた奴。
「ルクシオそろそろ自分の体重のこと気にしたら? あんたの方が体格いいんだからルクシオ潰れちゃうよ」
「加減ぐらいしてるっつの」
私とこいつがマスター達に捕まってから早数年。マスターと少女がバトルをすると、私の相手はいつもこいつだ。そしてバトルが終わって回復してもらうとこいつは毎回私にのしかかる。何が楽しいのか知らないが、こいつはこれを習慣にしているらしい。そして群れにいた頃のように私に噛み付く。
私は、抵抗しない。こいつは少女のポケモンだ。抵抗して怪我でもさせれば少女の負担になる。レベルが上がり進化もしてあの頃よりこいつは強くなったが、噛み付かれても怪我をすることは無いし、私が我慢すればいいだけ。
バトルではマスターの指示が良いから私は勝てるけど、純粋に力だけだと今でも私はこいつに敵わない。
丸くなって寝たフリの体勢に入る。マスターと少女はこれからデートで、私達ポケモンはここで留守番だ。ひたすら噛んでくる奴のことなんて気にしていたら疲労するばかりだから、私はいつも心を無にして寝たフリで過ごす。
きっとこの先も、こんな風にして過ごすんだろう。
マスターに開放されるまで、ずっと。
少女が、マスターにバトルを仕掛けに来なくなった。
最初は喧嘩でもしたのだろうかと思っていたけど、それにしては長い。
気になってレントラーに尋ねてみると、少女は旅に出たらしいと言われた。パートナーとしてあいつも一緒に。
「あいつに会えなくて寂しいか?」
レントラーの問い掛けに首を横に振る。寂しい訳がない。むしろせいせいしている。
あいつの嫌がらせに煩わされることが無いから。
ポケモンは人の姿にもなることが出来る。
それを知ったのは仲間のライチュウが初めて人の姿になった時だった。皆は知っていたようだけど、私は色違いだからと生まれてすぐに群れを追い出されていたから誰からも聞いたことが無かった。
色々と便利だよと言われて私はすぐ人の姿になる練習を始めた。
人の姿なら、色違いだとか気にならない。
そして人の姿に完璧になれるようになると、私は普段から人の姿でいるようになった。
もともと私は、マスターのバトル用パーティには入っていない。色違いだからとマスターに譲ってくれと言ってくる輩が多かったからだ。私がバトルに出るのは人が少ない場所で野生のポケモンと戦う時か、少女と、あいつと戦う時ぐらい。
だから人の姿でいる方がマスターの役に立てた。家事をしたり買い物に行ったり。流石に傷痕まではそのままで、薄着だと少し注目を浴びたりしたけれど。
今日も、人の姿でマスターの買い物を手伝っている。
「あ」
ライチュウが好むポケモン用のおやつを見つけ手を伸ばした時だった。
少し高い位置にあった為背伸びをして手を伸ばしたら手元が狂い、棚の上の缶が降ってきた。一つ、二つ、そこまではなんとかキャッチ出来たがまだ降ってくる。商品を落としてはならない。けれど手は塞がっている。どうするべきか、と思ったところで背後から伸びた手が缶を掴んだ。筋張った、男の人の手。深爪に目を引かれる。
「あり、がとう」
振り返るとスカーフで口から胸元までを隠した男が立っていた。紺色の髪に金の眼。
男は掴んだ缶を棚に戻すと私の持っていた缶も戻してくれて、代わりに私が取ろうとしていたライチュウのおやつの缶を取ってくれた。二つ。私が取ろうと思っていたのと同じ数。
缶を私の手に置くと、男はそのまま去っていく。取ってくれたお礼を言う間もなかった。
私はただ呆然と棚の向こうに消えていく背を見詰める。
あいつは、ポケモンだ。
だからどうしたという話だが、何故だかとても気になる。深爪。自分の手を見れば伸びた爪が目に入る。ルクシオは爪が長い。人の姿の時はそう尖ってはいないが、長さはそれなりだ。
自分以外の誰かの事など気にする必要は無いのにどうしてこんなに気になるのか。あの男の色が、あいつと同じだからだろうか。
缶を持ち直してマスターの元へ向かう。あの男とはもう会うことは無いだろう。考えるだけ、無駄だ。
旅に出ていた少女が戻ってきていると聞いたのは数日後の事だった。
しばらく前に帰ってきていたらしいが家に閉じこもっているのだとか。旅を終えたら真っ先にマスターの元へバトルをしに来ると思っていたのに。
近い内にマスターが会いに行くだろう。少女の話を聞いてから、マスターはずっと上の空だ。家に閉じこもるなど何かあったのかと心配で仕方が無いらしい。本当は今すぐにでも会いに行きたいだろうに、仕事ある身では都合をつけなければ自由に動くことは出来ない。
「ルクシオは、会いに行かないのか」
レントラーの言葉に何故と首を傾げる。私が少女に会いに行く理由なんて無い。確かにマスターの想い人が心配ではあるが、だからといって会いに行くほどでも無いし。
「あいつに会いたいとは思わないか」
ぎゅうと眉間に皺が寄る。あいつになんて、一番会いたくない。自分から近寄ろうものなら変に絡まれるだけだ。折角、せいせいしていたというのに。
「あいつも報われないなぁ。……嫌だったなら、ちゃんと拒絶しないと駄目だろう」
そんなの今更だ。昔上手く拒絶出来なかった時点で、私は諦めてしまった。私より強くて勝てない相手。我慢していればいつかは終わる。そう思ってもう数年経ってしまった。少女が旅に出るまで、よく分からない嫌がらせは続いていた。今更、拒絶なんて。
「あいつは、不器用で馬鹿な奴だ。お前から動かないとずっと同じままだぞ」
レントラーが何を言いたいのかさっぱり分からない。
私とあいつは、ずっとこのまま。
あいつが、飽きるまで。
モヤモヤする。モヤモヤする。
レントラーがあいつのことを言うから。あいつを思い出したせいで。
モヤモヤ、する。
マスターがバトルをすると私に言った。普段バトル用パーティに入っていない私にわざわざ言ってくるということは少女との対戦なのだろう。だというのに、マスターは浮かない顔だ。いつもなら無口無表情ながらそわそわと落ち着かない雰囲気で楽しみにしていることが分かるのに。
訝しく思いながら私は自主的に特訓を始めることにした。最後に戦ったのはいつだっただろう。あいつとしか戦った記憶が無い。
そわそわ。なんだか首の後ろが擽ったい気がした。
少女との対戦の日。私の出番は一番最後だ。私はマスターのパートナーでは無いけれど、最初のポケモンだから。相手は同じく少女の最初のポケモンであるあいつ。
仲間達のバトルを見て、なんだか雰囲気が違うことに気付く。マスターや仲間達はいつも通り、けれど少女とその仲間達の表情が固い。前にバトルをした時は楽しそうにバトルをしていた筈なのに、今日は暗いようなどこか切羽詰まったような、余裕の無さを感じる。
妙な気迫。旅に出る前より確実に強くなっているが、まるで背水の陣で戦っているような危うさだった。
今だけこんな戦い方なのか、それとも旅の間にこんな戦い方をしなければならないような事があったのか。
ライチュウとピチューのバトルが終わって、次が最後。
マスターにボールを投げられて私はバトルフィールドに立つ。あいつは、まだ出てこない。
少女はあいつのボールを握り締めて泣きそうな顔をしていた。
「……お願い、レントラー」
フィールドに降り立った影はとても大きかった。コリンクの頃から大きいと思っていたけど、最終進化を終えたあいつはルクシオの私より二回り以上大きい。同じ種族であるうちのレントラーと比べてもその差は歴然だった。
だからこそ、あいつは群れの長だったのだ。生まれついての強者。虐げられてきた私とは真逆の。
「レントラー、どろかけ!」
少女の声とともにあいつが動き出す。速い、否、一歩の歩幅が広い。攻撃に備えて身構えていたのに一瞬で距離が詰められ頭から泥を被った。視界が悪い。
「ルクシオ、かいりき」
あいつの気配は近い。視界が悪くともこの距離ならば外さない。渾身の力を込めてあいつと組み合う。地面に押さえつけた体は体格の割に軽く感じた。
「ばかぢからで対抗して」
ググッと押し戻される。やっぱり力勝負だと敵わないのか。気合いでしばらく組み合っていたものの、息継ぎの隙をついて弾き飛ばされた。背中から地面に打ち付けられて咳き込む。
「かいでんぱ!」
体勢を立て直す前にあいつからよく分からない波動が発せられる。知らない技。脳が揺さぶられるような感覚に吐き気を覚える。攻撃技では無いようだが……。
「いけるか、ルクシオ」
マスターの声に四肢に力を込めて立ち上がる。頭はクラクラするが体は普通に動く。なんともない、大丈夫だ。
「スピードスター」
私の得意技。どうしても接近戦の苦手な私の為にマスターが人から教えて貰った技。けれど。
「威力が弱い……さっきの技か!」
繰り出した星は全てあいつに命中している。なのにあいつはまだ立っていた。前のバトルの時ならこれで決着がついたはずなのに。
「レントラー、スピードスター」
飛んでくる星は避けられない。なら、マスターはこう指示するだろう。突っ込め、と。
「突っ込め、ルクシオ!」
マスターが指示を出す前から私の体は動いていた。昔は抵抗なんて出来なかった相手、今でも歯向かおうとは思えないけれど、これはトレーナーを持つポケモン同士のバトルだから躊躇わない。星が体を切り裂くのに構わず真っ直ぐにあいつに向かう。
あいつは、動かない。
「ずつき!」
私より大きな体が、やっぱり軽かった。
あいつの体が転がってそこでバトル終了。
私の、勝ち。
「……………………」
いつも勝負は私の勝ちだった。力はあいつの方が上だけど、トレーナーの指示はマスターの方が少女より上だったから。でも、今日のバトルはいつもと違う。あいつの動きが、使う技が、前とまるっきり違う。
正直前より弱くなったと感じた。旅に出て経験値を得て、進化もしているのに。
バトルが終わったら皆の元に帰るけど、今日は何となくあいつを待ってみる。なんで、どうして。そう聞いてみようかと思って。
いつもなら回復してもらうと私に嫌がらせをしにくるあいつは、そのままモンスターボールに入った。
「……なんで?」
あいつが来ない。いつもと違う。
バトルもおかしかったし、皆の様子もおかしい。空気が、酷く居心地悪い。
モヤモヤがイライラに変わる。
走り出したのは無意識だった。その場に居たくなくて、あいつとは正反対に駆けてバトルフィールドを飛び出す。誰かが止めようと声を掛けてきた気がしたけど、全部無視した。
走って走って、気付けば町外れまで来ていた。波が打ち寄せる砂浜。
何も考えたくない。全部ぐちゃぐちゃで、自分の感情さえ分からない。どうすればいいかも分からない。
私はどうしたかったの。
砂浜にへたりこんで波の音だけを聞き続ける。私はあいつが嫌い。嫌いなのだ。あいつが、汚い私を綺麗だなどと言ったあの瞬間から。あいつがあんなことを言うから心がざわついて平静でいられない。あいつが私に近寄る度に、触れる度に、得体の知れない感覚が全身を駆け巡って自分が自分じゃなくなる。それがどうしようもなく嫌で怖くて、全部、あいつのせいで。だから。
私は、あいつが嫌い。
マスターと少女がようやく交際を始めた。
幼い頃から思い合っていた二人がやっと纏まった、きっとこのまま結婚まで一直線だろうと皆で喜び合う。
少女が旅に出るまで頻繁に行われていた二人のポケモンバトルはなくなった。会うための口実だったのだから、もうそんな理由を作らなくても良くなった今バトルをしなくなるのも当然だ。
マスターの推薦で少女はこの街のジムトレーナーになることが決まりマスターと特訓することはあるが、バトル用パーティには入っていない私はその特訓に付き合うことはない。
やることも無くマスターの家で惰眠を貪る日々。たまに少女があいつをマスターの家に置いていった時に顔を合わせるが、今までなら嫌味を言われたり噛み付かれていたはずなのにそれもなく、酷くゆっくりとした時間の中で微睡むだけ。
これが昔望んだ静かな暮らし。虐げられることも追いかけ回されることも無い、穏やかな平和。これを求めて逃げ続けてきた。
薄目を開けるとあいつの姿が目に入る。私と同じように部屋の隅で丸まって目を閉じていた。何故かあいつは少女のバトル用パーティから外されたらしい。理由は、知らない。聞こうとも思わない。煩わされることが無いならそれでいい。
もう一度目を閉じる。眠れなくても眠っているつもりで時を過ごす。
暴れだしたいような衝動を、苦痛にも思える退屈で押し潰した。
気付けばあいつがすぐ傍にいる。背を合わせて微睡む。
嫌ではないから拒絶しない。退屈の中自分以外の鼓動が聞こえるのはそう悪くないと思えることを知った。
嫌味を言われたことや噛み付かれたこと、忘れることは無くても、今はもう遠い記憶だ。
少女とマスターがとうとう結婚する。
私とあいつが彼らのポケモンになってからもうそんなに経つのかと感慨深い。あの幼かった子供が大人になって、つがいになる。それだけの時間が経った。
私が恐れ逃げ惑った年月より長く彼らの元で平和に暮らせている。周りは皆敵だと思っていたのに、仲間達には気を許せるようになった。私はもう、傷付けられることに耐えて享受しなくてもいいだけの力を身に付けられた。
あいつに何を言われても今の私は口答え出来るし、あいつに何をされても反撃出来る。そう、思うのに。
あいつはもう、私に嫌がらせなんてしてこない。つまらない日々をただ二匹寄り添って過ぎ行くのを待つだけ。
持て余している。そう、私は持て余しているのだ。昔感じた恐怖や憤りが行き場を失って宙ぶらりんのまま、私の中で凝っている。
私の芯がずっと怯えたままで変われないから、自分の今の想いが埋もれて隠れてどうやっても見つからない。
たまに、が毎日になる。
マスターと少女は同じ家で暮らすようになり、当然少女のポケモン達も一緒に暮らすようになった。マスターも少女もトレーナーだから、日中はポケモンを連れていってこの家には私とあいつだけになる。
広い家の大きなソファーで、人型の私と原型のあいつはずっと眠っている。
噛み付かれない、嫌味も言われない。ただそれだけで嫌いなはずのあいつと寄り添って眠るのが当たり前になる。この状況で私は我慢しているのか、我慢していないのか、自分のことなのにこれっぽっちも分からなかった。
モヤモヤする。
有り余る時間は退屈過ぎて、答えの出ない思考について延々と考えてしまう。
何か変化でもあれば答えは出るだろうか。そう思いつつも、自分から変化を起こすことは出来ない。変化は恐ろしいものだ。もし全てがまるっきり変わってしまったら、ひっくり返ってしまったら。それが恐ろしくて私は身動きが取れずにいる。
もそり。傍らのぬくもりが動く気配。
あいつの顔が、私の顔に近付く。……噛まれる?
あいつの鼻先が頬に擦り寄った。まるで親愛を示すような行為。無意識に身を固くする。何故、なんで、どうしてそんなことをするの。
それだけするとあいつは離れて、また丸まって寝始める。身構えてしまったことに気付かれただろうか。いや別に気付かれてもいいはずだ。私はあいつが嫌いなんだから、気付かれたって何も問題は無い。
暴れだした心臓が五月蝿くて、耳を塞ぐ。常より早い鼓動が余計に強く響いて聞こえた。
マスターに与えられた寝室で寝入っていた深夜。唐突に意識が覚醒した。
コリンクも、ルクシオも、レントラーも、夜の闇に視界を遮られることは無い。それは人の姿でも同じで、原型の時より劣るものの光が無い場所でも問題無く行動出来る程度には視力が良かった。
だから今、私の上に覆い被さっている男の顔もはっきり見える。
「あんた……」
前に買い物をしている時助けてくれた、口から下を隠しているあの男だった。前は気付かなかったが今ではわかる。この男は、あいつだ。
腕は一纏めにされ動かすことが出来ない。視力は良くても、人の姿では技を使うことも出来ないし筋力も人並みでしかない。強者であるこいつに、私は勝てない。
「ひゃ……」
体をまさぐられて思わず声が出る。何をするつもりなのか。それは目の前の瞳を見ればすぐに分かった。熱に浮かされた目。隠すことなく欲を見せ付けてくるその目が私を対象としていることを本能が察する。
つがいではない雌雄が本来なら子作りである行為を戯れに行うことは稀によくあることだ。つがいではなくとも結束を強めるためだったり、暇潰しだったり、雄が雌に力を示すためだったり、欲を刺激されて収まりがつかない時だったり。おおっぴらに行われるものではないがそういうものもあると聞いたことがある。
では、今私に行われようとしているこれはどれか。
そんなの決まっている。力を示すためだ。力だけならこいつは私より強い。けれどバトルでは一度も私に勝てたことが無かった。主の手腕の差で、こいつはいつも弱者である私に負け続けてきた。そろそろ自分の力を見せつけようとしてきたのだとしてもおかしくない。
衣服を脱がされて素肌同士が触れ合う。
今度の嫌がらせはこれか。昔噛まれていたのはいつもバトルの後。あれも自分の力を示すためだったのだろう。お互いマスターのいるポケモンバトルでは勝てないから、そうじゃない時にこいつの方が優位なのだと私に分からせようとしていた。
わざわざ人の姿になってこんなことをするのはつがいになったマスター達に触発されたからかもしれないが、行為の理由は上下関係をはっきりさせるため。
なら、私が拒絶することは、無い。
前と同じようにその行為が終わるのを諦めて耐えていればいい。こいつが飽きれば終わること。弱者が強者に逆らうことはしない。
求愛行動によるものなら雌に選択権があるらしいが、結局私が選択することは無いのだ。
色も違って傷だらけの汚い体で弱い私が求愛されるわけが無い。
ギリッと奥歯を噛み締める音を聞きながら、私はこいつに身を許す。
何も言えないのが悔しい。
何も言われないのが腹立たしい。
のが悲しい。
唯一の救いに思えるのは、こいつに触れられることは嫌ではないと思えることだった。
日中の眠りが深くなった。毎夜あいつが眠りを妨げてくるのだから当然のことだった。あいつも昼間は私と寄り添うように眠っている。マスターも仲間達も私達を起こそうとせず、食事も別に摂るようになった。たまに起床時間が被ると仲間のエテボースとオクタンにねぼすけとからかわれる。
「たまには部屋の中じゃなくて外で寝ようぜ」
「パラスみたいにキノコ生えちゃうよー」
「生えたら収穫するからな!」
変わらない彼らに軽くビンタを食らわせる。キノコなんて、生えない。生えないはずだ。彼らは笑って会話を続ける。
マスターのポケモンも、少女のポケモンも、ずっと変わらない。
変わったのは、あいつだけ。
今日もあいつが私に覆い被さる。慣れることは無いが最初より楽にあいつを受け入れられるようになってきた。力を抜いて人形のように布団に沈む。
今日は、これで終わりだろうか。そう思うけれど、なんだかあいつの雰囲気がおかしい。警戒のような緊張のような。少し固さを感じる。
どうかしたのかと思ってずっと閉じていた瞼を開く。あいつの顔を見ようとして、けれどその前にあいつが私の首元に顔を埋めた。首にかかる息。
思い出したのは、私がただ一度だけ抵抗したあの日。
『なんだよ、俺の嫁にしてやろうってのに』
『っ、……やだ!!』
ちゃんとした求愛でもないくせに!
私の事なんて玩具みたいにしか思ってないくせに!
『嫌がらせで求愛するなんて、最低!』
あいつを突き飛ばしたのは無意識だった。血が沸騰するような激情。
私にこんな感情がまだあったなんて。
「私の事好きでもない癖に……! 嫌がらせで求愛なんてしないで!」
衝動のままに部屋を飛び出す。原型になって普段誰も使わない物置に駆け込んで隅に蹲った。
私にだって理想があった。つがいになるのは好きあったもの同士だって。ずっと傍に居たいと思うから家族になるんだって。だから、誰にも好かれない醜い私は一生誰ともつがいにはならないと決めていた。好き合う相手とじゃないとつがいになんてなりたくないから。
あいつは元々群れの長だった雄だ。周りは色違いなんかじゃない毛艶も良くて強い雌に囲まれていた。私なんかを好きになることは無い。毛色の違う私を物珍しがって構うことはあってもつがいに選ぶはずがない。どんな雌でもよりどりみどりだったやつが、身近に同種族の雌が私だけだったからってつがいに選んだりしない!
『お前綺麗なやつだな!』
あいつはあの時どんな顔をしていただろう。自分があの時あいつの顔を見ていたかさえ分からない。
つい今しがた見た、まるで望みを全て絶たれたかのような悲痛なあいつの顔が脳裏に焼き付いて消えてくれない。
昼間寝る場所を変えた。あいつと一緒に居たくない。どうせ同じ家なのだから気配は感じ取れるし大して意味の無いことだけれど。
あいつの顔がどこに行っても頭の中にチラついて酷く息苦しい。
「泣きそうな顔してはるねぇ」
穏やかな声に顔を上げるとサンダースがこちらを覗き込んでいた。ほてほてと近寄ってきたサンダースは私の隣に寄り添うように寝そべる。体温が、違う。当たり前のことに何故だかショックを受けて、ショックを受けたことに苛立つ。あいつが来ることを期待でもしてたのか。
「酷いことしたん? それともされたん?」
「……別に、なにも」
「あちらさん、ずっと酷い顔で落ち込んではるよ」
ぎゅうと胸が締め付けられるように痛む。どうでもいいはずなのに、あいつの顔がチラつく度に泣きそうになる。あんな顔をさせたのは、私だから。
「罪悪感、やね、その顔は」
「……違う」
「違わんよ。あんたはええ子やから、あちらさんを落ち込ませたこと気にしてまうんやろ」
「悪いのは、あいつだもの」
「そうだとしても、あんたの心はやり返したことに傷付いとるよ。喧嘩なんて、あんたがしとるとこ見たことないもん」
喧嘩。サンダースから見てこれは喧嘩に見えるのか。喧嘩なんてものじゃないのに。
モヤモヤする。何かが溢れそう。駄目だ。我慢しなければ。
「あんた溜め込みすぎやね。発散させんと苦しいばっかしやのに」
「発散、て、どうすればいいのよ」
「嫌やと思った時にすぐ言い返せばいいだけ。今からでも、ずっと思ってきたことぶちまけたらええんよ」
「っ、出来るわけないじゃない!」
ずっと我慢してきた。耐え続けてきた。だって私は弱い。やり返して、更に反撃にあったらと思えば、怖い。
「ずっと嫌味ばっか言ってきたやつなのに、言い返してもっと酷いこと言われたら、私」
「もうそんなこと言われへんよ」
「そんなこと分からないじゃない!」
「……あんた、もしかして知らんの?」
「え……」
知らないって、何を。サンダースを真っ直ぐ見た拍子に目尻から一つ涙が落ちた。ああ、ずっと、涙だけは零すまいと我慢し続けてきたのに。
サンダースは痛ましいものでも思い出したような顔をして目を伏せる。
「あの子はもう、声を出せれんのよ。人の姿しとる時、スカーフで顔隠しとるやろ。旅に出とる間に酷い怪我して、声出せれんだけやなく、口もあんま動かせれんしご飯もあんま食べれんくなっとるんよ」
「……嘘……」
「嘘やない。もしかして隠しとったんかな……あの子カッコつけやから、あんたには知られとうなかったんかもしれへん」
知らされなかった。私だけ何も教えられなかった。……私は、気付いてなかった?
いや、私は気付いていた筈だ。あんなにおかしいおかしいと思っていたんだから少し考えれば分かった筈。それを知らないフリで目を背け続けたのは私だ。物理攻撃がメインだった戦い方は特殊攻撃メインになり、一番の得意技だった噛み砕くを使わずあまり動かないのをおかしいと思った。嫌味を言わないのをおかしいと思った。暇があればずっと私を噛んでいたのに噛まなくなり、近付いてきても寄り添うだけなのをおかしいと思った。
そして、あいつは私と同じぐらい寝るようになった。
全部、私は知らないふりをした。
目の前が暗くなるというのはこういう感じなのかもしれない。血の気が下がる。手足が冷えて感覚が無くなる。
「時間は、もうそない多くないよ。あんたが後悔せんようにしぃ。嫌なことはもうされへんから、我慢するのはやめにしよ?」
嫌なことは、されない。あいつは今までやってきたようなことを、出来ない。
涙が止まらない。耐えるのはつらかったのに、耐えるのをやめるのはこんなにも容易い。
「溜めてたもん全部吐き出したら、最後に残るのがきっとあんたのほんとの気持ちやと思うよ。もう、自分まで誤魔化さんでええ」
体が勝手に動く。私が本当に居たいと思う場所に。
サンダースが手を振るのがちらりと見えて、私は走り出す。
苛立ち、悲しみ、焦燥感。それらが胸に詰まって苦しさを覚える。最後にバトルをしたあの日から行き場を失っていた感情が、溢れる時を今か今かと待ち望んでいる。
あいつがいる場所はすぐに分かった。この前私が逃げ込んだ物置。壁と扉が邪魔に思えてもどかしい。はやく、はやく。涙で視界がぼやけている。ドアノブを掴む手が滑る。はやく。
がたがたと乱暴な音を立てて扉を開けると、原型のままのあいつと目が合った。扉を閉めて足を縺れさせながら近付き、両手をそっとあいつの顔の横に添える。
頬、顎、首。毛の中にゆっくりと指先を滑らせ感触を確かめる。
「……もう、声を出せないって、聞いた」
視線は合わない。触れた指先には変形した骨と異様な細さの首、無数の傷痕の感触。下を向けば根本付近から爪が折られた前脚が目に入って痛々しい。コリンクの種族は爪から電気を発して言葉を伝えることも出来るが、こんなに無残に折られていてはそれも不可能だろう。
こいつにはもう意思疎通の術がない。
「私、あんたに噛まれるの嫌だった」
目の前の体がびくりと震える。
「いつも動けないようにのしかかられてから色んなとこ噛まれるから、昔を思い出して、怖かった」
うんと昔、まだ私が生まれた群れにいた頃、弱過ぎて逃げることも出来なかった私は幼いコリンク達の玩具だった。狩りの練習の獲物役。私の体にある傷痕はだいたいこの頃のものだ。ずっと耐えていればたまにきのみが与えられたが、どうしても栄養は足りなくて、一番栄養が必要な頃に満足に食べられなかったせいか私は体は小さいし体力もなく、とても弱い個体になった。
「嫌味を言われるのも嫌」
今でも思い出せば気分が悪くなる。俯いてしまった顔を持ち上げてしっかりと目を合わせる。
「蔑みの言葉に比べればはるかにマシだけれど、軽い嫌味だって傷付くし腹が立つのよ」
嫌味を言われる度に腹が立った。私の事なんて何も知らないくせに、と。私から自分のことを話すなんてしていなかったのだからこいつが知らないのは当然なのに、理不尽に腹を立てていた。
バツが悪そうに顔を歪ませたこいつに胸につっかえていた何かが一つ取れたように感じる。
そうだ、私はただこいつに悪いと思わせたかっただけ。傷付くなんて言ってもそう大したものじゃなくて、苛立ちを押さえ付けていた鬱憤を晴らしたかっただけだった。あの頃私が言い返せていて、こいつがただ一言ごめんと言ってくれて二度と嫌味を言わないと誓ってくれていたならそれで終わっていた話。
「食べ物を、ただ与えられるだけなのも嫌だった。私は自分の力で生きていきたかった」
たとえ、餓死寸前で動くのも億劫になっていても、私は自分で何とかしたかった。あの頃の私にとって自分以外の全ては敵だったから。
嫌だと思ったことを一つ一つ挙げ連ねる。胸のつかえが話す毎に軽くなっていく。私は、こいつを。
「私、あんたを嫌いだと、思ってた」
ハッと息を呑む音。ああ、この前の、あの顔だ。まるで世界の終わりを目にしたような、と例えたら大袈裟だろうか。痛みを堪えるような、今にも泣きだしそうな、そんな表情。
「嫌いなら、何がなんでもあんたを避ければ良かったのに、私それが出来なかった」
話している間に止まりかけていた涙がまた溢れ出す。嫌いだと、ずっとずっと思って、隠して、誤魔化してきた気持ち。
「あんたが、初めて会った時に綺麗だなんて言ったせいで」
信じられなかった。自分が綺麗だなんて到底思えなかった。綺麗だと言われて、私はそれを嘘だと決めつけた。
本当は、嬉しいと、思ったのに。
「あんたが綺麗だなんて言わなければ、私はあんたを好きになんてならなかったのに」
誰もが私を醜いと言う。居なくなれと言う。それが当然だったから、あの時からかわれたのだと思った。信じてはいけないと思った。だから、嫌いだと思い込んだ。
自分が傷付きたくなかったから。
目の前の体が人の姿に変わる。両手が背に回されて強く抱き締められる。涙が止まらなくてしゃくりあげるのを宥めるように背を撫でられた。
嫌いじゃない。嫌いなフリをしていただけ。本当は。
「……すき」
返事はない。返事はなくとも、抱きしめる腕に込められた力が答えだと思った。本当はずっと、あんたが私に向ける気持ちなんて気付いてた。
もう、胸の奥で凝っていたものは、無い。
原型のまま丸まって眠ろうとすると、あいつが周りを囲むように丸まる。埋まらない体格差。すっぽりとあいつの体に埋まって、温かさに微睡む。
眠っていない時、私とあいつは一緒に散歩をしたり買い物に出掛けたりするようになった。家の中で寝てばかりというのはつまらない。今まではあいつを避けるために寝たフリをしていてそのまま寝ているようなものだったので、寝たフリをする必要がなくなった今、暇潰しがなければ退屈で退屈で仕方がない。
「ねぇ」
話し掛ければあいつはすぐにこちらを見る。その目がとても感情豊かだと知ったのはつい最近のことだ。言葉はなくとも、表情が動かなくとも、その目はいつも感情を雄弁に語る。
好意を伝えれば、甘く蕩けるように熱がこもった目が細められた。
ゆっくりと近寄る彼の唇が触れたのは私の首。少しずつ少しずつ、軋むように開かれた唇は私の首を食む。力なんて全く篭っていないそれに怯えることは無い。
求愛行動。もうまともに動くことのない口を、さぞかし痛むだろうに彼はわざわざ動かして求愛行動をとる。噛んで、それでとても満足気に、嬉しそうに笑うのだ。
そしてとある日、私は一つタマゴを産んだ。
あいつと、私の子供。
私につがいが出来るだなんて、私が子供を産めるだなんて、夢にも思わなかった。
生きたくて死にたくなくて逃げ続けていたけれど、正直諦めていたのに。あいつと出会って、マスターと出会って、昔求めていたけれど諦めていた夢が叶う。
あいつにタマゴを見せれば飛び上がらんばかりに喜んで何度も何度も頬と頬を擦り寄せられた。
幸せだ。
タマゴを包むように丸まって、そんな私を更に包むようにあいつが寄り添う。
マスターや仲間達が帰ってきたら、すぐにタマゴを見せよう。きっと皆喜んでくれる。
すり、とあいつの体を鼻先で撫でて、私は幸せの中、目を閉じた。
二匹が庭で死んでいるのを見つけたのは俺だった。
一つのタマゴを二匹で抱えるようにして冷たくなっていたのを見つけた俺は、しばらくその場から動けず呆然と亡骸を見つめ続けていた。
分かっていたことだった。二匹が長く生きられないことは。それなのに俺は、覚悟なんて全く出来ていなかったんだ。
出会った頃から体が弱かったルクシオ。旅に出ている間に負った大怪我のせいで長くは生きられないと診断されたレントラー。
よく眠るようにはなっていたが、二匹とも起きている間は元気そうに見えていたからまさかこんなにはやく居なくなってしまうとは思っていなかった。
───もっと早く、二匹のすれ違いを何とかしてやれていれば。
レントラーは昔からよくルクシオに噛み付いていた。あれは毛繕いのつもりなのだと、俺は知っていた。
嫌味ばかりなのは、つがいになろうと擦り寄る雌達を追い払う言葉しか知らないからだ。
レントラーと同じ群れに生まれた俺はあいつの事をよく知っていた。あいつがルクシオに心底惚れていることも、生まれた時から群れの長として歪んで育ったせいでつがいにと望む雌への接し方を間違えていることも、全部知っていた。
知っていて、俺は何もしなかった。
群れの長のつがいになる雌は、強い個体が良い。それは群れの総意で、俺も当然のようにそう思っていた。あいつが色違いのコリンクをつがいにしたいと言うのに、いつ死ぬかもわからない弱ったコリンクをつがいにするなと反対した。
それは、居なくなった二匹を探して俺がマスターに捕まった後も変わらなかった。人間の手持ちになればよっぽどのことがなければもう群れには戻れない。群れの総意など関係ない。けれど俺は、群れで一番強かったあいつの隣に収まるのが弱いやつなのが許せなかった。
ルクシオと仲間になって、あの子のことを知って色違いだから、弱いからと蔑む気持ちは無くなったが、それでもあいつとつがいになることだけは駄目だと思った。
ルクシオは長くは生きられない。人間の手持ちとなって昔に比べれば健康になったが、一度弱ってしまった体は元には戻らない。定期的にマスターに健康診断に連れて行かれていたが、虚弱体質故にその度に新しい薬を貰っていたようだ。ルクシオはずっと、よく眠るやつだった。余命短い老いたポケモンのように。
ルクシオはあいつを嫌っていたし、もしつがいになれたとしても別れが来るのは早い。仲間になって情が湧いたからか口に出して反対することは無かったが、二匹の仲を取り持とうとは思えなかった。
あいつが毛繕いだと思ってあの子に噛み付くのを見る度に、俺はそのまま修復不可能な程に嫌われて憎まれてしまえばいいと思っていた。
一度だけ、ルクシオを焚き付けたことがある。レントラーが大怪我を負って街に帰ってきたと聞いた時だ。いつ死んでもおかしくないと聞いて、俺は、ルクシオの方が早く居なくなるからと二匹がつがいになることを反対していたことを悔やんだ。世の中何が起こるか分からない。俺が二匹のすれ違いを何とか出来ていれば、あいつらはもっと早く幸せになっていたかもしれない。
けれど結局、俺が焚き付けれたのはその一度だけだった。だって今更だ。ずっとずっと反対してきて、今更どの口で二匹につがいになれと言えるのか。
そして結局、二匹はこんなに早く逝ってしまった。
寄り添ったまま冷たくなっている二匹は酷く穏やかな顔をしている。大事そうに抱えられたタマゴ。
短い間だけでも、こいつらは幸せだっただろうか。おそらく二匹同時に逝って、悲しむことはなかっただろうか。
二匹は、俺を責めることは無いだろう。だが俺自身が、俺を許せない。俺がもっと早く考えを変えることが出来ていたら。
「お前らには、もっと沢山、幸せになって欲しかった」
嘘偽りのない本音。随分と薄っぺらい言葉だ。俺が何を言ったところで、俺がやってきたのは二匹の幸せの邪魔でしかない。
罪悪感に胸が軋む。
せめて、せめて二匹の間に生まれたタマゴから孵る子供だけはうんと幸せにしてやろう。
それがたとえ、後悔と罪悪感を軽くするための押し付けだとしても。
20181021
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