「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ……って、聞いた事ないか?」

ガイは地面に突き立てた剣の柄の先端に掌を置いて、眼下のナマエを見下ろしながら語り掛ける様に呟く。今、少しでも剣をずらせば丁寧に研がれた鈍く銀色に光る刃がナマエの細首に傷を付けるだろう。
ガイの足の間で、地面を背に倒れている少女──ナマエは、いつ命を奪われてもおかしくない状況でも気丈な面持ちで首を小さく横に振った。そんな様子に何を思ったか、ガイはふっと瞳を細める。そのまま剣の柄からゆっくりと手を離し、手袋に覆われた指先でナマエの首筋を辿る様になぞった。

「浅学だな。まあこの言葉に関しては解釈は人それぞれだ。知らないなら良いさ」
「……どうして私を……私達を裏切ったの。ルークが気に病んで、すごく弱ってるのよ」
「はは、何も分かっちゃ居ないんだな」

口角を持ち上げて口元に綺麗な笑みを浮かべたガイの双眸は笑っていなかった。過去とは決別したと言い、前を見据えていた生命力溢れる強い瞳からは光が失われ、何も映していない。黒に飲まれた彼の双眸からは、感情の何も感じ取れない。その計り知れない闇の深さに、ナマエは小さく息を飲んだ。喉の動きを直に感じ取る事の出来たガイの指先がぴくりと動いたかと思うと、もう片方の手をゆっくりと喉へ伸ばし両手でナマエの喉元を覆った。

「……っ、かは……」
「俺がお前達を裏切った理由が…まさかルークにあると?はははッ、本当に何も分かっちゃいない。お前達から離れた理由なんて、たったひとつだ」

ゆっくりと、ナマエへ染み渡らせる様な口調で耳元に言葉を吹き込む。直に掛かるガイの吐息にナマエはびくりと身体を小さく竦ませた。じわりと額には玉の様な汗が滲む。分かりやすい彼女の反応に、漸くガイは満足そうに笑顔を浮かべた。先程の貼り付けた様な笑顔とは違う、仲間であった頃に何度も見た他人を安心させる柔らかな笑顔。しかしナマエは、その笑顔が酷く恐ろしく思えた。昔と同じ笑顔の筈なのに、何処か違う。そんな一瞬の隙を付いて、首筋を覆ったガイの両手に容赦の無い力が籠った。指先が頸動脈を的確に押さえ付け、ナマエの呼吸を奪う。弱々しくガイの手首を掴んで力の無い抵抗を見せるも、ガイの手の力はぎりぎりと強まる一方だった。酸素を得られず、苦悶に歪む彼女の表情を見下ろすガイの瞳からは、今まで見た事の無い恍惚とした感情が、見て取れた。

「好きな人の特別が欲しいと思うのは、当然の事だろう?お前が俺に向ける笑顔は何も特別じゃない。誰にだって平等に与えられる。それなら、お前が俺に見せてくれる特別な表情はなんだ?そう思い悩んだ結果が、これだ。なあ、苦しいか?苦しいだろうな。大丈夫さ。殺しはしない、するはずがない。俺は、お前のその苦しそうな表情が見たくてこんな事をしているんだからな。俺だけに向けられる、その苦悶の表情が」

意識が飛ぶか、飛ばないか。そんな絶妙な力加減で首を絞め続けられ、ナマエの口からは掠れた息が漏れ出す。反射的に、慣れている、と思った。こんな、相手を殺そうとはせずにただ苦しめる為だけに絞める首の絞め方なんて、普通は出来ない。

私の頭を優しく撫でてくれた手が。美味しい料理を作ってくれた手が。音機関を器用に弄る手が。ガイの、優しくて温かい大きな手が。今は、何よりも恐ろしく見えた。

「ふ、はは、……たまらないな、その表情。もっと色々な顔を見せてくれよ。俺だけに、俺だけの為に。その為なら俺は…長年仕えた主人を裏切り、世界を共に救おうと立ち上がった仲間を裏切る事さえ厭わないぜ」