リナリアとナイレンは、騎士団の軍用犬でありナイレンの相棒でもあるランバートを連れてシゾンタニア周囲に広がる巨大な森へと足を運んでいた。
──ここ最近、この森に棲息する魔物の凶暴化が、シゾンタニアに住む住人達に恐怖を与えている。街自体は結界に守られているが、森を狩りに使う住人がいる他にも、街を出る為にこの森を抜けなければならない以上、被害は甚大であった。ゆえに、シゾンタニアから多くの住民達が避難してしまい、賑やかだった街も一ヶ月近くで随分と寂れてしまったのだ。
おまけに、異常はそれだけではない。まだ時期ではない筈なのに、突然森の木々の紅葉が進み始め、川を沿って徐々にではあるが緑が赤へと染まり始めている。
これらの原因を突き止める為に二人と一匹は森へ訪れていた。
「……ランバート、どうしたの?」
周囲への警戒を怠らず、森の奥へ足を踏み入れる事やや数十分。ランバートが突然その姿勢を低くし、警戒心を剥き出しにして唸り声を上げ始めた。見たところ周囲に魔物の気配はないが、一体どうしたのだろうかとリナリアはその場にしゃがみ込み、ランバートの背中を撫でる。すると、自然と低くなった彼女の目線の先で地面からぽわりと翡翠色の泡が生み出された。それを皮切りに周囲からも同じ様に翡翠色の泡が次々に生み出されて、宙を漂う。
「……エアルの可視化が起きてる……」
エアルとは、大気にも存在するテルカ・リュミレースのエネルギー源であり、現在、人の営みに欠かせない存在にもなっている
魔導器を稼動させる為の糧ともなりえる物質である。
通常であればエアルは空気に混じり、目に見えないものであるが、エアルの濃度が高い場所に限り、エアルが可視出来る様になってしまう場合があった。それを今、ナイレンとリナリアが体験している。
しかも、森の奥へ行くにつれ、本来は翡翠色のエアルが禍々しい赤へと変色し、空気中を漂っていた。見るからに、これ以上森の奥へ足を踏み入れてはいけない重苦しい雰囲気を感じ取る。リナリアは赤く染まったエアルを、自らの眼帯に覆われた左目に無意識のうちに触れながら、じっと見つめた。
「エアルの可視化に、赤いエアルだなんて……よっぽどエアルの濃い場所じゃないと起こり得ない事だよ。これだけの濃い量……植物や魔物、下手すればエアルを糧にしてる
魔導器に影響が出たっておかしくない。それに、人体にだって──」
「……みてぇだな。さっきからどうにも息苦しい」
エアルは
魔導器を介して人々の生活を豊かにして来た薬の様なものであるが、一定の許容量を越えればそれは一転して毒にも変わる。
ぱっと見た感じではナイレンの身体に異常が起きている様には見えないが、それは彼がそう言う風に振舞っているだけで濃いエアルは確実にナイレンの体内を蝕んでいた。現に、息苦しさを訴えだしたナイレンの表情は非常に芳しいものではなく、呼吸をする事すら億劫と言った様なそれだ。
「……リナリアは大丈夫なのか?」
「うん、こう言うのは個人差があるから……私はまだ平気」
「……まあ、無理をしてねえなら良いんだが。取り敢えず、これ以上は二人じゃ危険だ。撤退するぞ」
「了解。魔物が出て来られても困るしね……」
「魔物、な。……戻ったらガリスタの知恵でも借りて一掃する作戦でも立てるとするかね」
「それが良いかも。街の人も安心するだろうし」
そう言いながらリナリアは立ち上がり、スカートの土埃を払うとランバートの頭を一度撫でてからその場で踵を返した。ナイレンの身には言い様の無い怠さが降り掛かり身体が鉛の様に重くなっており、呼吸を繰り返すのもやっとなほど、濃いエアルの影響が出ている。しかし、リナリアにその影響は一切出ていない様に見えた。強がっている様子も特に見当たらない。
「……個人差どうこうっつー様な問題のエアル量じゃあねえ気がするんだがなあ……」
ナイレンはリナリアの小さな背中を、眉を顰めた怪訝な表情で見つめていた。
*
「お帰りなさい、隊長。どうでした」
「ありゃ駄目だ。どうにかしねえと完全に不味い」
「そうですか……お疲れ様です。リナリアも、お疲れさん」
「ただいま。ユルギスも見張りお疲れ様」
昼間、森へ視察に行っていたナイレンとリナリアがシゾンタニアに戻って来る頃には、辺りはもうとっぷりと暗くなり、すっかり夜が訪れていた。街の入り口で見張りを任されていたフェドロック隊副隊長のユルギスが二人を労いの言葉と共に出迎える。
リナリアは乗っていた馬から降りると、その頭を撫でながら馬小屋へ返しながら未だユルギスと会話を続けるナイレンに声を掛けた。
「ナイレン、私は先に宿舎に戻るから……」
「ん?ああ、気ィ付けてな。……リナ嬢!」
「なに?」
「顔色が悪いぞ。寝る前にガリスタんとこ寄って帰れよ」
「……ナイレンには何でもお見通しなんだね」
「ンな青白い顔してたら誰にだって分からぁ」
「元々ガリスタのとこには行くつもりだったから大丈夫。心配してくれてありがと」
リナリアはそう言って小さく微笑むと、そのままふらりとシゾンタニアの夜の街に紛れて、姿が見えなくなった。それを確認したナイレンとユルギスはお互い目を見合わせて、僅かばかり声のトーンを落として再び会話を続けた。
「……エアルの影響ですかね」
「いや、森の中にいた時は平然としてた。……そろそろ発作が起きる時期だ、それじゃねえかな」
「……まだ15だってのに色々振り回されて、可哀想ですね。リナリアも……」
「ああ……あいつは道具じゃねえっつーのに」
*
「はあ……随分遅くなってしまった」
フレンは自分自身が使う道具や消耗品が多く詰められた紙袋を腕に抱えて小さく溜息を吐いた。
今日も今日とて同郷の出であり、幼馴染のユーリ・ローウェルと言い争い、及びそこから発展した殴り合いが勃発し、先程まで先輩隊員達にこってりと絞られていたのだ。お陰様で今日予定していた分の剣の稽古や買出しの時間が取れなくなり、こんな時間にわざわざ買出しに来る羽目になっていた。
──どれもこれも、全部ユーリのせいだ。
多分、ユーリも同じ様に思っている事だろう。二人はシゾンタニアの宿舎では同室でもあるのだからもっと互いを認め、受け入れ、少し冷静になれば良いとフレン自身──きっとユーリ自身も分かってはいるのだが、顔を合わせればつい余計な事を言ってしまうし、つつかれれば反論せずには居られない。
自業自得だと、怪我した箇所には治癒術を掛けてはもらえず、大きな絆創膏だけを貼られ、簡単な応急処置しかしてもらえなかった頬を軽く掻きながらフレンは何度目か分からない溜息を吐いた。明日も朝早いのに、これでは宿舎に戻る頃には何時になるか分からない。
自然と帰路に着く足取りが早まるなか──静まり返ったシゾンタニアの街の中で、フレンはふと、鼓膜を掠めた小さな物音にその足取りを止めた。
「……なんだ?」
意識していなければ聞き逃していた様な小さな音は、単なる自分の聞き間違いか、風で木々の葉っぱ同士が擦れ合っただけの音か。そう判断したフレンが無視して再び止めた足取りを再開させようとするも、その音は先程よりも音量を増して、再びフレンの鼓膜を揺らした。
流石に気のせいではない、とフレンは何かあってもいつでも対応出来る様に警戒心を解かぬ儘、音のした方へと歩み寄って行く。音との距離が縮まる度に、その音の正体が人の咳き込んでいるものなのだと理解した。結界の中ではあるが、取り敢えず魔物ではない事に安堵したフレンであったが、咳き込んでいる主は余程苦しそうだ。騎士としても、一人の人間としてもそのまま放っておく事が出来なかったフレンは咳き込んでいる人間の方へどんどん歩み寄って行く。
すると──そこにいたのは。
「……リナリア……!?」
「え……あ、ふ、フレン……!?どうしてこんな時間に……けほっ、ごほっ」
「僕の事はいい、大丈夫か!?」
「だい、じょうぶ。周期的にある慢性的な発作、なの。じっとしてれば治まるから……」
壁に凭れ、その場に座り込み、肩で苦しそうに呼吸を繰り返すリナリア。月の光に照らされて映し出されるその顔は月光との相乗効果もあってか非常に青白く、どう見ても大丈夫そうには見えない。
フレンはそんな彼女を目の前にして、眉間に深く皺を刻むと、両腕に抱えていた紙袋を片腕に抱え直し、空いたもう片方の手をリナリアに差し出した。
「……フレン?」
「こんな冷えるところに居たら良くなるものも良くならないだろ。肩ぐらいなら貸せるし、ゆっくりでも良いから宿舎に戻った方が僕は良いと思う」
リナリアは差し出された手とフレンの顔を交互に見比べる。やや語調は冷たいが、それでも。彼女の身体を労わっての言動である事は伝わって来た。
「……じゃあ、肩、借りても良いかな」
「──身長差的に肩だと大変か。なら、適当に捕まってくれ」
「……ありがとう、フレン。ごめんなさい、迷惑掛けて……」
「別に、気にしないでくれ。普段、ユーリに掛けられている迷惑と比べたら可愛いものだから」
「あ、あはは……」
フレンと接した部分から、リナリアの身体へと彼の体温が分け与えられる様に、少しずつ冷えた身体がじわじわ温まっていくのを感じる。
星に彩られた夜空で一際強く輝く月の輝きに照らされ、伸びた二つの影が寄り添い、静まり返ったシゾンタニアの街中をゆっくりと歩いて行くのだった。