「……っ、酷い雨……」
ハルルの街を出て、海が見える丘──エフミドの丘を越えたフレン達が辿り着いたのはイリキア大陸とトルビキア大陸を繋ぐ港町、カプワ・ノール。一つの街が海によって分断されたカプワの港街は二つの大陸の交易の拠点として大きく発展を遂げ、沢山の船が海を渡る。
大勢の人や荷物が集まり、活気盛んな街であるはずなのだ──が。
激しく地を打つ大雨に曝され、街中には薄い霧が立ち込める。街の外に広がる広大な海には船の影一つ見当たらない。停泊している船すら一隻も無く、この街が港町だと言うにはあまりにも寂れた空気を醸し出し、暗雲に包まれたノール港の雰囲気はもったりとして、酷く重苦しいものだった。もはや重苦しいをも通り越し、いっそ不穏な空気すら感じさせる。
「天気の荒れやすい時期ですからね」
「ノール港って前からこんな……なんか、重たい感じだったっけ……?」
「前から帝国から強い圧力が掛かっていると言うのは聞いているが……そう言えば最近、ノール港の執政官は変わったんじゃなかったか?」
「評議会のラゴウですね。……あまり良い話を聞かない人物です」
「──どちらにせよこの天気じゃ船は出せない。天候が回復するまでこの街に滞在する事になるのなら……ラゴウ、調べてみる価値はある、か」
リナリアはラゴウ──その名前にぴくりと肩を揺らした。その男の名前に聞き覚えがあるどころか、リナリア自身に面識があった。尤も、リナリアの中に残っているラゴウの記憶なんて、思い出したくもない悪夢の様なものばかりなのだが。
それを振り払う様に数回首を振ったリナリアは気を取り直してカプワ・ノールの空を見上げた。分厚い雲に覆われた鈍色の空から降り注ぐ雨は強さを増すばかりで、止む気配はない──それに、この不安定な天候のせいか否なのか、先ほどからどことなく刺さる様な、妙に嫌な気配も感じる。
「取り敢えず、宿に入って考えませんか?このままだと僕達風邪を引いてしまいますよ」
「そう……だな、雨が少し弱まるまで部屋を借りよう」
ノール港の宿屋へ場所を移そうとするフレン、ソディア、ウィチルに続いてリナリアも後に続こうとした──ところで、ふと、リナリアの視界の端に傘を差した二人の男が映り込んだ。何を話しているかまでは聞こえないが、何やら憤慨している様子であることは見て取れた。普段であれば単なる住人同士の諍いかと特に気にする部分でもないのだが、ノール港の現在の状況と先程のフレン達との会話も相俟ってか──その様子がやたらと引っ掛かる。
三人が宿屋へ姿を消したのを確認したリナリアはその場を少しだけ離れ、何やら話し込んでいる二人組の男達へと歩み寄って行った。
「お兄さん達、こんな雨の日なのに何してるんですか?」
「おっと……びっくりした。ねーちゃん、お役人さんかい?……って!」
「びしょ濡れじゃねえか、風邪引くぜ?」
「いえ、私は役人とかじゃなくて──あれ、お二人とも……怪我、してますね」
「ああ、これか。さっき執政官様のお屋敷に行ったらにべもなく追い返されちまってな」
「そんでちょっと抵抗したら付き人のお役人に……ってわけよ」
男達が負った怪我はさほど酷くはないが、それでも素人の目にも付いてしまうぐらいには傷を付けられている。腕の擦り傷、頬の腫れ、僅かばかりだが額からも出血が伺えた。
──最近新しく就いたばかりの執政官と、お供のお役人。この街に入った瞬間に感じた重苦しい雰囲気と、帝国から掛けられている強い圧力。そして、二人が負った怪我。全てが一つの線で繋がっていく様な感覚にリナリアの嫌な予感は更に膨れ上がっていく。しかし、未だに予感は予感のままで、確たる証拠がなければ確信には至らない。
とにかく、怪我をしている二人をそのままにしておけるはずもなく、リナリアは両手を軽く二人に掲げ「──聖なる活力、集え」とファーストエイドを唱える。応急処置程度の基礎的な治癒術ではあるが、この程度の怪我であれば治るだろう。暖かな優しい光がリナリアの手元に集約し、癒しの光が男達の身体を包み込んだ。
「……これでもう痛くないはずです」
「おお……すげえなねーちゃん!
武醒魔導器がなくても治癒術が使えるのか!」
「えっ……ち、違いますよ!ちゃんと足に付けてます。スカートに隠れてて見えないだけ」
「なんだ、そうなのか。いやでもありがとなねーちゃん」
リナリアはほっと息を吐いた──突然核心を突かれたせいで、心臓は未だにばくばくと激しく鼓動を打っている。別に、
武醒魔導器を使わずに治癒術を使えることが知られたからなんだ、と言う話ではあるが、異端と言うのは得てしてろくな目に遭わないということをリナリアは知っていた。
「……にしても、どうするかなあ。案の定執政官様への直談判は失敗しちまったし……このままじゃ本当にずっと船が出せねーぞ」
「ずっと……?」
「ああ、新しい執政官様が来てからここのところずっと船が出せてないんだよ。天気の良い日を狙って船を出そうとしても突然天気が荒れたりして」
「……船を出そうとすると天気が……」
「こうも船が出せないといよいよ税金がきつくなるもんでなあ……」
二人が言うには船を出そうとするたびに決まって天気が悪くなるのだと言う。
──いよいよこれは、黒なのではないか。
更に話を聞き出そうとリナリアが口を開きかけた刹那、ものすごい勢いで身体が後方へと引っ張られた。そのままバランスを崩したリナリアは思わずたたらを踏んで、身体を引っ張った正体へと背中から倒れ込む──ぶつかってもびくともしないまま、リナリアの身体を支えたのは、傘を差したフレンだった。
「ふ、フレン……!?あ、危ないじゃない!」
「すまない、来るのがあまりに遅いから様子を見に来たら……」
「ち、違うよ!?私が勝手に話を聞きに行っただけでこの人達は怪しい人じゃないから……。」
「へえ」
「う……勝手にいなくなってごめんなさい……」
「すぐ近くにいてくれたから良いけれど、何かに巻き込まれてたらって思ったら気が気じゃなかったよ。しかもこんなに身体も冷やしてるし……」
「なんだにーちゃん、アンタ騎士様か。痴話喧嘩なんかしてないで俺達のことを助けてくれよ」
「そ、そうだフレン!このお兄さん達から色々な話を聞けたんだけど……この街、もしかしたら真っ黒かもしれない」
「──真っ黒……?」
*
二人の男と別れ、宿へと戻ったフレンとリナリア。借りたタオルで濡れた髪を拭きながら窓の外に目を向けると、豪雨だけに飽き足らず雷まで鳴り始めていた。天候は良くなるどころか酷さを増す一方だ。
「──執政官が天候を操っている?」
「ああ……先程、リナリアを探しに外へ行った時に出会ったこの街の住民達に話を聞いた」
「その人達が言うには、船を出そうとする度に天候が荒れるらしいの。それって偶然じゃありえないことでしょ。もしかしたら
魔導器とかで操ったり……とか」
「まさか!そんな
魔導器があるなんて聞いたことがありませんよ。……いや、でも……」
「それだけではなく、税金を払えなくなった住人にはリブガロ、と言う魔物──正確にはリブガロの角を持ってくれば税金を免除すると言って、一般の住民を魔物と戦わせているらしい」
「な……!」
「これが全て事実なら由々しき事態だ。放ってはおけない。ソディア、ウィチル。休憩を取ったらすぐに調査に当たってくれ」
「了解致しました」
フレンの指示に頷いた二人は休憩も取らずにこの天気の中、外へと飛び出して行った。彼らなりの正義感、隊長への忠誠心、ウィチルに至っては研究者としてほんの少しの興味もあるのだろう。あっと言う間に静かになった室内に沈黙が下りる。どことなく気まずいままの雰囲気の二人の間に会話はなく、タオルで髪を拭く布の擦れる音だけが響いていたが、やがて、先に沈黙を切り裂いたのはリナリアの方だった。
「フレンってさ。本当にいつも、他人のことばかりだよね」
「……急にどうしたんだい?」
「いや、この街の人が困ってたのは事実だし、それが騎士の務めって言うのも分かるんだけど。……迷いなく、そうやって自分の信じる道を行けるのは凄いことだな、って……なんとなく、思ったの。私は……迷ってばかりだから」
「リナリア……」
「──なんか辛気臭い話しちゃった、ごめん!私も街に出て来るね。リブガロ退治に行って怪我してる人とかもっと居るかも知れないし」
眉尻を下げてどこか困った様に、無理をする様に瞳を細めて笑ったリナリアは腰掛けていたベッドから立ち上がり、殆ど逃げ出すかの勢いで部屋を出て行った。引き止めるつもりで持ち上げかけた腰と伸ばした腕は行き場を失い、そのままぼすんとフレンは再びベッドに座り込む。
──彼女に関して、知っていることは少ないが、昔から特殊な環境に立たされていたことは、自分がフェドロック隊にいた頃から、知っている。
自分だけではない、騎士団にいた者なら、きっと誰もが。
先程フレンに見せたあの作り物の笑顔も、そんな環境に身を投じていた頃、自分の身を守る為に自然と覚えてしまったものだろう。
彼女がいた場所には仄かな温もりだけが残されている。
それを確かめる様にそっと。一度だけリナリアが座っていた場所に触れてから、何かを振り切る様にフレンも部屋を出た。
*
「はー……やっちゃったなあ……なんであんなこと言い出しちゃったんだか……そんなつもりなかったのに……」
フレンを置いて部屋を出たリナリアはと言うと、早速後悔の念に駆られていた。ぶつぶつと独り言を言いながら傘を片手に雨が降り続く街中を彷徨き、様子を見て回っている。やはりカプワ・ノールの住民はリブガロ退治に出向いているらしく、怪我を負っている人が少なくない。リナリアはそれを見掛ける度に治癒術を可能な限り施していた。大体それもキリが良くなって来た頃、リナリアは別の存在がやけに目に付く様になっていた。
「……赤目の人、なんかやたらチラチラしてるな……。もしかして、こいつらがフレンが気に掛けてた暗殺者ってやつ……?」
今まではっきりと目にしたことはなかったが、フレンは帝都を発つ時から自身を付け狙う暗殺者の存在を確認していたと言う。この街の雰囲気にはあまりにもそぐわない赤い目の人間達が先程から視界の端に映り込む。カプワ・ノールに到着したことを知った暗殺者達が何人か街に潜伏しているのかも知れない。
──フレンを狙うのであれば、仲間である私のことも狙ってくるかもしれない。
リナリアは赤目の何人かをわざと誘い込むべく、腰に携えた双剣の鞘に手を掛けたまま路地裏へと駆け込んだ。
「……さて、と……何人かでも釣れると良いんだけど……」
路地に入るとその先は行き止まり。鞘から二本の剣を慣れた手付きですらりと抜き去り、逆手に構えたところで、リナリアの思惑通り何人かの赤目が路地裏に入って来た。
──やっぱり。予感が的中したことに思わず不敵な笑みが口元に零れた瞬間、行き止まりだったはずの背後からも数人の赤目が現れる。頭上は空いていた為、連中は上を通ってやって来たのだろう。待ち伏せていたはずが、逆に向こうに待ち伏せされ、敵に挟まれる陣形になってしまった。
「うわー……これ結構やばいんじゃ……」
「──蒼破ぁ!」
策士策に溺れると言ったところか、自ら陥った危機的状況をどう打破するべきか短い時間で思索を巡らせたリナリアの耳に、突然どこか聞き覚えのある男の声が入り込んできた。振り向いた先で、飛ばされた疾風の如き衝撃波が赤目の一人に直撃し、吹っ飛ばされたのが見える。
敵の陣形が崩れたのを見計って、先程衝撃波を飛ばして来た男が此方に駆け寄ってくるのを見て──その見事な長い黒髪を持った青年の姿に、リナリアは声を上げた。
「──ユーリ!?」
「っ、おま……誰がドンパチやってんのかと思ったら、リナリア!?」
「ここにいる……って事は、ハルルからフレンを追い掛けて来たんだ?」
「正確にはフレンを追い掛けて来たわけじゃないんだけどな、俺は」
「ふーん、っ!」
黒髪の青年──ユーリとの会話の途中にも関わらず襲い掛かってくる赤目の攻撃を躱しながら双剣で斬り上げる。ユーリも同じように、彼女とは反対側の敵を斬り捨てた。
「ユーリ!」
「何?」
「背中、任せていい!?」
「へいへい、……っと!」
路地裏での赤目との攻防戦が、今幕を開けた。