そこに光が差さずとも
強い雨の降る、とある日、アズマさんが森から帰ってくると腕に丸めたボロきれを抱えていた。よく見るとそれはボロきれではなくずぶ濡れの小さな子供だった。
黒い髪と暗い瞳、血色の悪い肌の色。
とても気味の悪い子供だった。
アズマさんは、その子供を洗って乾かし温め食事を与え眠らせると、この子を育てると俺に言った。まるで子猫を拾ってきたかのような優しい微笑みで。
そうして俺とチマは義理の兄弟となった。
アズマさんは俺にとっての親みたいなものだった。
本当の親はどこにいるのか生きてるのかわからない。優秀だけど少しばかり可笑しな人でね、と昔アズマさんが言っていた。
物心ついたときから、もう俺はアズマさんと暮らしていたから、本当の親だとか義理の親だとかそんなものは気にならなかった。
アズマさんと暮らすことが俺にとっては当たり前のことだった。
だけどチマは違った。
俺にとって違和感そのものの存在。
それはチマも同じだったのだろう。一ヶ月、二ヶ月と一緒に暮らしててもチマは俺には慣れなかった。
いつもアズマさんの後ろに隠れてそっと伺うような目で俺を見るのだ。
「俺、やだぜ。あいつ。好きになれねえな」
「……え?」
食器を拭いていたアズマさんが不意をつかれたように遅れて顔をこちらへ向ける。
「得体、しれねえ、だろう? 森で拾われてくるなんて変だ」
「可哀想な事情があるのかもしれないな」
「そういうんじゃないって…」
アズマさんの呑気な返答に俺は眉を下げた。
濯ぎ終わった食器を渡す。アズマさんが拭いて、重なったものを今度は俺が棚にしまう。
毎日、夕食後はこうしてアズマさんと後片付けをする。
いつもチマは扉の近くに立ってそれを眺めていたのだが、今日は早くに寝てしまったのか、そこにはいなかった。
「顔見てるとゾッとすんだ。人間じゃないみてえ」
「病弱なのかもしれない」
「風邪すらひかないのに病弱っていうか? それに、さ……」
俺は声のトーンを抑える。
床の木目をなぞるように視線を下げたまま奇妙な緊迫を味わった。
「あいつの手、体温がなかった。生き物ですらないのかも」
接触した機会などほんの僅かだが、あの冷たさは忘れられない。死体に触れてしまった時のような本能的な恐怖心が呼び起こされたのだ。
大抵のことには動揺しない自信のある俺も、思わず目を見開いてチマの手を振りほどいてしまっていた。
俺は至って真面目に打ち明けたつもりだった。
冗談のつもりはなかった。
──だが。
空気を切り裂いたのはアズマさんの軽快な笑い声だった。
「おいおい! 未来の天才ビオロギアが随分弱腰じゃないか」
俺の肩を少し強めに叩く。
「もし仮にあれがまともでないのなら、俺たちで正してやればいいだけのことだろう。俺とお前ならどうってことはない。違うか?」
ダイニングセットの椅子に腰掛け、灰皿に置かれた葉巻を咥える。少し湿気った葉巻はなかなか火が落ち着かず苦労するものの、ようやく一筋の煙を立ち上らせる。
アズマさんの葉巻を吸う姿はとても格好よくて、俺は密かに憧れていた。
「そこまでする必要あんの?」
「それを考えちまったら俺が俺でなくなっちまうな、──っと!」
棘だらけの俺の言葉をアズマさんがケタケタ笑い飛ばしていると、突然、甲高い泣き声が響き渡った。
──チマだ。
時折、チマはこうして激しく夜泣きをした。
悪夢にうなされたのか、恐ろしい過去を思い出したのか、不意に目が覚めて淋しくなってしまったのか。
俺にはわからなかった。
アズマさんは慌てて葉巻を灰皿に押し付け、ダイニングを飛び出す。
消しきれずに燻ってる灰を見つめて俺はどこか苦々しい気持ちになっていた。
部屋に駆け込んだアズマさんが必死に宥めているのだろう。
泣き声が次第にぐずついていく。
ダイニングに残る甘い葉巻の匂い。
俺はアズマさんが座っていた椅子に腰をかける。立てた膝を抱えるようにして小さく蹲った。
チマの泣き声が聞こえる。
あんなにも普段は無表情で大人しくて感情のカケラも見当たらない子供なのに。
一度泣き出すと火がついたように止まらない。
そうして明日の朝になればまた無表情に戻っているのだ。
あの暗い、暗い、吸い込まれそうな闇をたたえる瞳の中に隠していた涙を、一晩で流し切ったかのように。
膝に置いた手のひらで拳を作る。
途轍もない違和感だった。
頭のどこかでは可哀想な子供なのだからと大人の考えを述べる自分がいたが、言葉にはできないざらつきが心にこびりつく。
遠くからかすかにアズマさんの声が聞こえる。
子守唄だった。
懐かしい。
優しい声で。
俺はそっと瞳を閉じた。
ある日、アズマさんが家を空けた。
チマが来てから初めてのことだった。
俺とチマ、二人だけで明日まで過ごすこととなる。二人きりということに強い不安感を抱いたのはなにも俺だけではなかったようだ。
家を出ていくアズマさんの背中をチマは無表情のまま、しかし見えなくなってからもずっと見つめていた。
「部屋……入れ、よ」
そのまま玄関に立ちつくしてアズマさんが帰ってくるのを待っていそうな様子に、俺は小さな声でそう促した。
暗い瞳が俺を見上げる。
視線がかち合って先に負けるのは必ず俺だ。
真っ直ぐにチマの目が見られない。
扉を開けて中に入るのを待っていると案外素直にいうことを聞いた。
それから、夕方になるまで。
アズマさんがいなくて酷く心細かったのだろうか。
何をするにもチマは俺のあとを追いかけた。俺が二階に上がれば小さな体で必死に階段をよじ登り、トイレに行けば扉の前で待ち、本を読む俺の横で伺うような眼差しをじっと俺に向けていた。
鬱陶しさがピークに達したのは日が少し傾いてきた頃。
そろそろ一階に降りるかと部屋を出ようとするとまたもやチマがついてくる。
ずっと無視を決め込んでいたがいい加減うんざりしていた。
ほんの少しの意地悪な気持ち。
チマが扉まで辿り着く前に俺は勢いよく扉を閉めてやった。
だいぶガタのきてるこの扉は強く閉めると勝手に錠が降りてしまう。
幼いチマに錠を外すことができないことを知っていて、俺は閉じ込めたのだ。
自己嫌悪と罪悪感、それと僅かな高揚を感じた。
ずっと、閉じ込めておくつもりではなかった。
しばらくしたら開けに行こう。
そう思って階段を降りる。
──と……。
ダイニングにチマが佇んでいた。
ゾクッ、と、冷たいものを背中を走り抜ける。
部屋は確かに施錠されたはずだった。カチンと錠が降りる音を俺は確かに聞いていた。
いや、何より、この家で二階から一階に降りられる階段はたった一つしかなくて、その階段は今しがた俺が降りてきたばかりなのだ。
先回りして立っていられるはずがない。
暗い暗い瞳が俺を見上げる。
当たり前のようにそこに佇んで俺が来るのを待っている。
「なんで」
思わず零れた。
そして俺は勢いよくダイニングの扉を閉めて足早に二階に駆け上がる。
逃げようと思った。
自分の部屋のノブに手をかける。
──ガチャン!
理屈でない恐怖が俺の中で暴れた。
鈍い音。
施錠、されている。
俺が勢いよく扉を閉めたせいで錠が降りてしまった時のまま。
それは当たり前のことなのに今は何より恐ろしい現実だった。
もしかしたら、音はしたもののちゃんと錠は降りなくて、扉が開いてしまったのではないのか。
そんな淡い期待が見事に打ち崩される。
「……グラソ」
後ろから声をかけられる。
思い切り内心を顔に貼り付けた状態で振り返る。
「……開かないの? グラソ、困ってる?」
訥々とした声がチマの小さな口から吐き出される。
彼に名を呼ばれたことなどどれ程あっただろうか。こんな状況にありながら俺は『ああ、ちゃんと名前を認識されてる』なんて呑気なことを片隅で思った。
返事をしない俺のことなど別に気にしてないのか無表情で扉と俺を同時に視界に入れたまま、チマはやけに細い指を器用に鳴らした。
──カタン。
ささやかな金属音。
それが耳を滑り込む時にはもう俺の頭の中は随分と冷えていた。
しっかりとノブを握りしめて回すと案の定、扉は難なく開いてしまった。
見慣れた自分の部屋が西陽に赤く照らされている。
「助かった?」
相変わらず見上げてくる小さな小さなチマ。
助かっただと?
錠を降ろしたのは俺だ。
チマに苛ついて少し困らせてやろだなんて思った。
閉じ込めるために、意地悪な気持ちで……。
『助かった?』
チマの問いかけが俺の罪悪感を育てた。
「ああ……、
…………
………──ありがとう」
言葉を探すのにどれだけの時間がかかっただろう。
くしゃりと髪を撫でてやる。
手のひらに触れた時と同じでチマの髪もまた刺すように冷たくて。
見上げてくる瞳は暗くて暗くて果てしない闇のようで。
カケラも救いがないようで。
どうして光がないのだろうと思考を掻き毟られるほどの闇で。
チマは、死、そのものを突きつけるかのような存在で。
彼の存在すべてが、見つめていると真っ直ぐに死にたくなる底なしの闇で。
──だけど。
……ああ。
俺は感嘆した。
涙がこみ上げて下瞼の縁をなぞる。
「へへっ」
照れ臭そうにチマが笑う。
笑う。
──なんて、言えばいいんだろう。
暗い暗い瞳。
光なんて一筋もそこには入り込めないくらいの闇をたたえる瞳。
それでも。
それでも……。
お前が笑えるのなら。
お前が涙を流せるのなら……。
帰ってきたアズマさんは扉を開けてしばし固まっていた。
「うわ、すごいもの見た」
アズマさんの第一声。
「しー!」
俺は口の前に人差し指を立てて声のボリュームに文句を付ける。
膝にはぐっすり眠る、チマの姿。
アズマさんがこの上なく嬉しそうに微笑む。
「そうしてるとまるでほんとの兄弟みたいだ。そっくり」
「またいい加減なことを言う。似てないから」
近寄ってそっとチマを覗き込むアズマさんに、苦々しく返すと、アズマさんは何を言ってるんだとばかりに肩を揺らして笑う。
「お前もこんなんだったよ。うちに来た時は」
大きな手のひらを頭に乗せられ、俺は顔が熱くなるのを感じた。
小さな頃の自分の話を聞くのは初めてだった。
「同族嫌悪だったのか」
「ふはは! そんな似てねえよ!」
自分で言ったことを自分で全否定するアズマさんにやれやれと溜め息をつく。
ゆらりと煙がただよう。
ソファーに座り葉巻を咥えたアズマさんがゆったりと寛ぐ。
暖炉の火が弾ける。
膝に微かな温もり。
ひやりと冷たくてとても暖かな温もり。
そうして俺とチマは義理の兄弟となったのだ。