本棚にきらめく金
その時、チマは呼吸を止めていた。
そう感じたのは俺の中にあるチマのイメージによるものなのかも知れない。
カチカチと無機質な時計の音だけが確かに時間が動いている事実を教えていた。
薄暗い書庫。
軍の中でそんな場所に訪れる人種はあまりいない。
俺がそこに足を踏み入れたのは偶然でもなんでもなく、クレスからチマがここにいると聞いたからだ。
クレスの強引な誘いで軍の精鋭基地に入ってこちら、チマと顔を合わせる機会がめっきり減ってしまっていた。
もともと、俺は軍本部の生物科学部に所属していたが、それはあくまで表向きのことで、実際はチマの傍にいられるとある施設の養護担当に就いていた。
どれだけブラコンと嘲笑われようとも、もう、お互いが唯一の家族なのだ。
『傍にいなくては』
アズマさんが刷り込んだ精神はきっちりと俺の中に根付いていた。
だというのに、だ。
ほとんど会えないのだ。この基地では。
無闇と広い敷地に、幾重にも張り巡らされた階級の壁。
職務が違えば兄弟といえど容易く顔を合わせることは困難だった。
それでも俺は、そんな規律などどこ吹く風で、クレスに会いたいと思えば指令室に潜り込むし、チマに会いたいと思えば鍛錬室に顔を出す。
なのに、会えないのだ。
恐らく、チマは俺を避けている。
チマの兄離れが始まったのはいつの頃だっただろうか。
気がついた時にはもうチマは俺に対してさえ白々しい敬語を使い、まるであまり親しくしたくない他人を相手にしてるように接するのだ。
それが俺の性格云々に対する嫌悪からきているのならまだ多少納得がいく。
過剰な保護への疎ましさなら分かる。
彼も年頃の男なのだ。何かと多感なのだろうと理解することができる。
しかしそれにしては妙に避けるのだ。
俺がここに来る条件としてチマを連れてきたというのに、だ。
だから、納得のいかない俺は行く先々を追ってチマを探していた。
そうして辿り着いたのがひと気の無い書庫だった。
ひっそりと静まり返った空間。
古い紙独特の埃とカビの匂いがふわりと漂う。
明かりをつけてないその空間は窓からのささやかな光でどうにか物の形が見える程度だった。
一面敷き詰められた絨毯がサンダルとの摩擦音を吸い込んで、俺がそこに踏み込んだことすら先客に知らせることはなかった。
棚と棚の間を覗き込む。
一列ずつ、見落とさないように。
明かりをつけてしまえばきっと逃げてしまうだろう。
俺がチマを見つける前に、まるでそこに最初からいなかったかのように。
それを避けたい俺は出来る限り己の気配を消して通路を歩く。
一番奥の、一番闇の濃い空間にチマは佇んでいた。
どうしてこれほどまでに……彼は闇が似合うのだろう。
薄く見える頬の輪郭を見つめ俺は思った。
一人でいる時のチマを見るたびに俺は奇妙な焦燥を味わう。それはきっと夕暮れを眺めている時と似た感情だ。
物悲しい、寂しい、奇妙な孤独感に似ていた。
硬い表紙の分厚い本を両手に持っていた。
そして。
俺は感じていたのだ。
その時、チマは呼吸を止めていた。
世界から置き去りにされた存在かのように。
チマを取り巻くこの空間に時があるように思えなかった。
「──チマ」
俺は時間を動かしたかった。
咄嗟に呼びかける。
チマは顔を跳ねあげたが俺にはその表情が見えなかった。どれだけ俺の視力が優れていようが、棚が光を遮って影を濃く落としてしまえば役に立たない。
ただ、空気が張り詰めた気配で彼が驚いたであろうことがわかった。
ぱさっと音を立てて本が落ちる。
さっと光がさす。
雲が晴れたのだろう。
俺の目に微かに本のタイトルが見えた。
「…………」
その本は、魔族の生態について専門的に書かれたものだった。
生物科学部に就いている俺には見覚えのある表紙。
恐らく、その中身はあまりにも専門的すぎて、チマには何が書かれているのかほとんどを理解することが出来なかっただろう。
それでも熱心にそれを見つめていたのだ。
意味するところはひとつしかなかった。
「……自分の正体が、──知りてえのか」
ここのところ俺を避けていた理由を一瞬にして飲み込んでしまった。
チマが目を逸らす。
飄々とあらゆることを受け流す柔軟さをもつ彼にしては珍しい反応。
あまりに虚を衝かれたのだろう。
チマの暗い瞳が揺れていた。
俺は屈んで、チマが落とした本を拾い上げる。
ずっしりとその重さを感じるが、俺は片手でそれを拾えてしまう。
戦慄の走る事実だがこの本の著者は俺の父親らしき男だった。
知ってか知らずかチマはこれを選んだ。
唇の端に形容しがたい笑みが張り付く。
「なんのために俺がいんだよ」
こんな本に頼らずとも、本部随一の権威を誇る俺がいるのだ。
俺は、チマのために生物科学の道に進み、チマのために研究し続け、チマのためにこの基地に訪れた。
いつか、己の存在に不安を抱くようなことがあった時のために、彼が傷つき治療を必要とした時のために……。
──だが。
「……グラソにだけは頼りたくありませんね」
冷たく、言い放ってチマは体を翻した。
ざわっ──、と心に風が吹く。
空間転移でもしようとしたのだろう。
胸元まで持ち上げたチマの手首を、俺は力任せに引き寄せた。
そうすることで彼の力を封じた。
大きな渦が生まれる。
強い風が棚の隙間を吹き抜けてチマの髪を真横に靡く。
目元をちらついていた髪が払われて、光を返さないオニキスのような漆黒の闇が俺を見つめた。
吸い込まれる感覚に襲われるが俺は目を逸らさなかった。
真っ直ぐに闇と相対する。
もう十年、見慣れた眼だ。
もう、恐れなど俺には微塵もない。
彼は死ではない。
魂のある生命体だ。
感情のある生き物だ。
チマの眼に浮かんだのは。
……恐れだった。
「──僕は……」
薄い唇がわななく。
「──人間ではない……?」
次の言葉を紡いだのは俺だった。
知っていた。
そうであろう可能性はもう何年も前から分かっていた。
いや……。
予感めいたものは、きっと、出会った時すでに感じていたのだと思う。
あの恐れは……あの嫌悪感は……今でも説明がつかない形をしていた。
チマは、始めて自分の姿を見たのだろうか。
この基地にきて、幾度か魔族と闘いを交える機会を得て、その存在を間近に見て、感じて、自分と同じものを視てしまったのだろうか。
チマの眼が揺れる。
恐れを隠すことが出来ぬまま俺の瞳に闇を映した。
「怖いか?」
問いかける。
「自分が怖いか?」
「……怖い、何より怖い」
気を抜けば聞き逃してしまいそうなほど微かな音で応える。
「グラソと隔たりが出来るのが怖い」
今にも泣き出しそうだった。
チマの瞳の奥にある闇にはたくさんの溢れんばかりの感情が閉じ込められているのを俺は知っていた。
泣き出せない年齢に達してしまって吐き出せないものを飲み込むのにどれほど労力を費やしたのだろうか。
一人、心を掻きむしっていたのだろう。
俺を過保護だと嘲笑うのなら、器用に不器用なこの少年をどうにかしてやってくれ……。
掴んだままだった手首を引っ張り、俺はチマを別の棚へと強引に連れて行く。
勢いについていけず、つんのめるのも無視して無理矢理連れて行く。
先ほどの棚と対極に位置する歴史書の棚。
割合新しい年代の本を一冊手にとり、パラパラとめくり、とあるページをチマに突きつけてやる。
『偉大なる魔術師』
そういう項目だった。
貼り付けられている写真は俺もチマもよく知る顔だった。
「──っ」
息を呑むのが分かる。
「…………
…………
……おとうさん」
チマが零した言葉は特別な響きを含んだ。
アズマさんが本の中で精悍に微笑んでいる。
俺はあまり見ないようにしていた。懐かしすぎて切なすぎて視界に入れれば穏やかでいられないから。けれど、それでも俺には大切な一冊だった。
手元にずっと持ってる一冊だった。
「ほら、よく見ろ……。ここにあるだろ」
アズマさんの功績や経歴、能力について書き連ねてある。
その一辺を指差して読み上げる。
「空間を操る能力に長け、それはまるで人間離れしており魔術師としては他に追随を許さない──……」
チマの瞳がじわじわと大きく見開かれていく。
「見ろ。お前はアズマさんにすげえそっくりだよ。顔も、力も、全部。
──お前はちゃんとアズマさんの息子だよ」
震える手が本を受け取って何度も何度も視線で文字をなぞる。
ついと、光が瞳にさす。
俺の、大きな手のひらでチマの髪を掻き乱すように撫でる。冷たく刺す冷たさが手のひらに広がる。
ボタっ──と、雫が本に落ちる。
文字を少し滲ませる。
幾度も雫が落ちていく。
押し込めた感情が箍が外れて溢れ出す。
数年ぶりに見たその雫に心が少し軋む。
俺のこの甘さが、いつか凄まじい棘となって彼を襲うに違いないことは分かっている。それでも甘やかすのを辞めることが出来ない。
きっと残酷なのだ。
これは。
ぎしっと心が軋む。
それ以上に愛おしさが湧き立つのだからタチが悪い。
太陽が雲に隠れる。
再び、書庫が薄闇に包まれる。
子供の泣き声がひとつ。
どこか遠くから、子守唄が聞こえる。
優しい。
懐かしい声。
俺はそっと息を吐き出した。
END
──
タイトルの解釈
本棚:くつろぎの象徴、ゆったりとした時間。
金:全てのものを上回り無効化する。いかなる束縛からも解放する能力、あらゆる錠前をこじ開ける力。