月は二度僕を裏切る

 蒼を思わせる闇の深い空に浮かぶ赤々とした月が今宵、月齢十五日目を迎える。
 この世界は時間というものが曖昧で惰性的でひどく緩慢だ。
 あの世界と同じ時を刻むのは月と、時計塔だけだった。

 高い、高い時計塔から空を仰ぐ。

 暗闇にそびえ立つ時計塔は闇に飲み込まれるのを拒むように、正確な針の音を響かせる。
 背中を叩いて子守唄を囁く闇が僕を包んでいた。

 時を、暦を、詠まない魔界で唯一存在する大時計の塔。

 その音に抱かれて空を見上げれば赤い月が闇に輪郭をぼかして仄かな紫を放つ。

 滲んだのは月なのか。
 空なのか。

 一筋、風が吹き抜ける。

 頬をすり抜けて背後で渦を巻く。
 何者かの存在がそこに現れる気配を感じたが、僕は顔を月に向けたまま振り返らない。

「──好きだねぇ、月」

 見知った男の声がやけに近くで聞こえる。
 それはあくまで声だけで、彼との距離はいささか空いていた。
 声だけが僕の隣にあるように感じるのは彼と話す時にいつも感じる、彼独特の性質だ。

「そろそろ飽きないかい?」

 揶揄う気配が声に混じる。
 しっとりと濡れた鴉の羽のような重たげな癖毛を仄かに靡かせ、大きな蝙蝠傘を片手に宙に立っている。
 振り返らぬ僕の視界に彼が浮かび上がる。
 彼を見ていないのに彼が見えるのも彼独特の性質だった。

 存在を無視することは出来ない。

「……昔は嫌いだった」

 端的に言葉を発した。
 彼へ答えたのかは僕自身あやふやだった。

 ずっと、月は嫌いだった。
 特に満ちた月は。
 必ず嫌なことが起きる。
 それも、最悪な形で。

 だというのに、いま、こうして正面から見つめて目を逸らせないのはどうしてだろう……。

「好きになった?」

 彼が尋ねる。

「いや」

 僕が応える。

 好きにはなれない。
 どうしたって心がざわついてしまう。
 血が滾る。
 意志を強く保っていられない衝動が沸き起こる。

 月なんて嫌いだ。

 愛せるわけがない。

「まるで、そうだなあ。恋い焦がれてるようだよ、君」

「…………」

 耳元で声が響く。
 吐息を感じる。

 彼が隣に立ったのだろう。

 僕は相変わらず月に視線を奪われていた。

「焦がれてしまえたらいいのに」

 ぽつり。
 零れ落ちた。

 心がざわつくのは何故?
 月が大切なものを奪ったから?

 いや、違う。
 それならば僕は月を見ない。
 目を逸らして逸らして逃げて逃げて、そうしてここに辿り着いたのだから。
 それが僕の性質なのだから。

 漆黒の闇に浮かぶ赤。

 ──そう、赤。

 あの場所に置き去りにしてきたもうひとつの僕がおいでと手招きしそうになる。
 ──まさか。

 あの場所へ帰りたくなる。
 ──まさか。

 そんなこと出来るはずもない。
 もう帰る場所などどこにもないのだ。
 自分で棄ててきたのだから。
 許されるはずがない。
 許されるべきではない。

 僕は罰を受けなければいけない。
 罪を洗い流せるだけの罰を。

 きっとあの場所は僕を許してしまう。
 僕の罪を洗い流してしまう。
 あんな風に甘やかされたら……僕は、幸せを、願ってしまう──。

 ──まさか。

「もう会えないんだよ」

 希望などあってはいけない。

 それでも。
 それでも僕は月を見上げる。

「……、誰を想ってるのやら。しかし君は闇と月がよく似合う」

 一房の髪を取られる。

「私はね、月よりもその輝く瞳を見るほうが幾分愉しめる」

 彼の言葉に月から目を逸らした。
 幻覚ではなく本物の彼の姿が目に入る。

 あの世界では光のささぬ暗黒だと言われた瞳が、この闇の底に落ちた途端輝いたのだとしたら、恐らく僕の選択は間違っていなかったのだろう。

 彼が手を伸ばす。

 好意のカケラもない冷たい手。

 僕は、それを受け取り、闇に溶け込んだ。




 カチコチ。
 チクタク。
 時計の音。
 まるで子守唄。
 優しい、懐かしい声。

 僕を責める。




 暗い空に赤い月。

 あの場所にいる僕が僕を呼ぶ。


END

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