灯る色は鮮やか
はじめはそう、本当に他愛ない出来事がきっかけだった。
とある日、廊下を歩いてると目の前に大きな段ボールを二つほど重ねて抱えた用務員が歩いていた。前方がほとんど見えない状態でフラフラと重そうに抱えていたものだから、
「重そうですね、手伝いましょうか」
僕はつい声をかけてしまった。
振り返る用務員の男は僕の笑顔を見て、何故か少し申し訳なさそうな表情を浮かべ会釈を返す。
「あ、ご親切にありがとうございます。大丈夫ですよ」
それが社交辞令で断りの言葉だとはっきり分かった。
その理由や意味などわからなかったが断られた以上は仕方ないと、方向転換して元々の目的の場所へ向かおうとした、その時だった。
「あれ! 重そうだね! いっこ持とうか?」
聞き覚えのある声が背後から聞こえた。
「いえいえ、大丈夫ですから」
ついで、用務員の声。
それはさっき僕が聞いたのとさほど変わりない内容だったが、響きは随分と違って聞こえた。
「いいから、いいから! どうせ暇なんだよねー俺。どっこいしょーっと、重い!」
「あはは! いやー助かりますよ」
少し騒がしい声と用務員の笑い声が混じって、廊下の奥へと消えて行った。
──僕は、しばらくそこを動けなかった。
そんなようなことを何度か重ねて、今日。
僕はみんなの寛ぐ大広間にいた。
「ねーねー、みんな!」
燃える炎のような赤髪の少年が騒がしく扉を開け、全員が何事かと振り返る。
少年は大きなトレイを両手に持って入ってくる。
どうやら騒がしさの要因の一つは扉を蹴り上げたことにあるらしい。開いたそれの外側に靴のあとがくっきり残っていたが本人どころか誰も気に留めない。
トレイにはカラフルな液体の注がれたグラスが人数分。
「ジュース買ってきたんだ、飲まない?」
「おー、マジか。飲む飲む!」
「けどまたなんかすごくカラフルなんだけど」
彼の声にわらわらと人が集まる。
いっそうに楽しげな声をあげるユハルに、眉をしかめつつも普段より幾分楽しげな様子のサリアル。
「これ、罰ゲーム的なのが混じってるんじゃないの?」
「ひとつだけグラソドリンクだよ!」
「まさに罰ゲームだな」
「エリオット、誰か殺したい奴でもいるのか?」
「おいおい、あたりの間違いだろうが」
あまりの色合いに茶々を入れるマイファに、彼の返答を聞くや何とも言えない複雑さを滲ませる司令官と隊長。
そしてグラソまで引き寄せられるように彼の元へ向かう。
僕の目の前にはそれぞれが置いていったカップが乱雑に並ぶテーブル。
ふ、と。小さく息を吐いて指を鳴らす。
テーブルが跡形もなく消え、僕の吐息だけがポツンと残る。
「チマー! ティン! 長官!」
彼、──エリオットがこちらに大きく手を振る。
彼が名前を読んだことで、長官がまだ近くに佇んでいたことを僕は知る。
「三人ともおいでよ」
エリオットは実ににこやかだった。
ぐるりと腹の奥に不快なものが旋回する。
「……悪いが」
絨毯に靴音が吸い込まれる気配がする。空気が動いて長官の温度が僕に近づき、その骨ばった手のひらが肩に置かれた。
「これから我々は少し任務があってな、またの機会に誘ってくれ」
言うなり長官は顎をしゃくった。
促されるまま僕は長官のあとに続く。それをティンが少しの間追いかけてきていたが長官は任務だからと言って扉で遮った。
このあと、任務があるなんて僕は聞いていなかった。
もしそんなものが本当にあったのだとしたら僕らはあそこで寛いでなどいなかっただろう。
きっと嘘なのだ。
断る口実としての。
だが正直、有り難かった。
あの空間は奇妙に居心地が悪かった。
薄着で寒空を歩くような、明かりを持たず夜の森に出て行ったかのような、心許ない気分に晒される。
彼の声を聞くと、彼の笑顔をみると、僕は喉を縛り上げられてしまう。
剣山で肺を串刺しにされてしまう。
僕がどの程度笑みを浮かべようとも彼の笑みには勝てない。
ひどく居心地が悪い。
嫌なものが喉から逆流してしまいそうになる。あのまま留まっていたなら、自己嫌悪しか向けられない醜い塊が転がり落ちそうで、それを無理に押し込めるからとんでもなく苦しくて仕方ない。
今にも僕の笑みなど凍りついてしまうだろう。
どうしてこの世界にはああした人間が存在するのだろう。
汚さも醜さも微塵もなく、人を寄せ付けて笑顔にしてしまう魅力を持つ人間が。
何をしていてもけして人から悪く言われることのない……まるで御伽噺の主人公のような。
あの光に晒されると僕の影はいっそうに濃くなる。
少し薄暗い廊下を歩くさなか、僕の思考は闇の中を低迷していた。
一定のリズムを保って響く二人分の靴音が何か催眠術でもかけるかのように僕をとつとつとした世界に誘ってくれる。
は、と。息を吐き出す。
それは僕のものではなかった。
長官の歩みが僅かばかり緩くなる。
「私は……あれが少し苦手だ」
額に手を当て、足元より少し先の床を見つめる。
それがいっそう長官の持つ雰囲気を陰鬱なものにしていた。
「貴様のようなタイプも苦手なんだがな。あれは特に無理だ」
長官の言いように僕は片目を眇める。
「知らなかったか?」
「ええ」
「私は貴様が苦手だ」
「……それはそれは」
面と向かって負の感情をぶつけられるのは始めての経験だった。
とつとつとしていたものが僅かに長官の方へ気が逸れる。
「貴様とあれは似て非なるものだな」
ふ、と。息を吐き出す。
僕の眼が睫毛の下に隠れる。
昔、とある思想家が言った。
口先のうまい人を憎むのは、その言葉が義に似ていて紛らわしいからです。
言葉を上手に扱う人を憎むのは、間違っていてもまるで真実のように聞こえて紛らわしいからです。
そして、偽善者を憎むのは、ほんとうに徳のある人に似ていて紛らわしいからです。
──と。
似て非なるもの。
あれはそう、義であり真実であり徳のあるものなのだろう。
僕とは真逆の。
似て非なるもの。
僕が口先がうまくて言葉が巧みなただの偽善者なのは誰よりも僕がよく知っている。
「それでも」
長官の少し掠れた声。
それは意外と僕の耳には心地がいい。
「貴様の淹れる紅茶は逸品だ。役者をとられて残念だったな」
骨ばった手のひらが肩に置かれる。
喉を縛られたのかと思った。
息苦しさに戸惑って思考が僅かに止まる。
──ああ。
そうか、これは羨望か。
僕は、ああなりたかった。
ああいった人間になりたかった。
なりたい。
誰かを笑わせたい。
そんなこと、これまで気付きもしなかった。
僕はいつでも僕にとらわれているから……誰かなど意識したことなんてなかった。
光に晒されたから……。
見えてしまったんだ。
いろんなものが。
ちらり、と。火が燻る。
心に灯る。
──ああ、なんて……。
END