一匙のにがい雫
どうしたと問われれば逡巡した。
白いソファーの上。グラソは天井を見上げ、そのスポンジのような柔らかな生地に体を沈ませていた。
内装や家具のほとんどを白で統一した飾り気のない部屋は、我らが司令官・クレスの自室である。グラソはクレスと共に過ごすこの部屋を気に入っていて、余暇のほとんどの時間には訪れ過ごしている。
趣味を仕事にしているというこの男。
余暇を過ごすときよりも、勤務中の方が生き生きとしてこの上なく生命力に溢れているのが常だが。
それにつけても、今日のグラソは幾ばかりか様子がおかしかった。
クレスが自室に戻るや先にグラソがソファーに居座っていた。勝手に出入りするのはいつものことだが、しかしグラソはしばらくの間、グラソの存在に気付かなかったのか、いつものように『おかえり』とも『お疲れさん』とも言わず天井を見つめるだけなのだ。
そして、まず、なにより顔色が悪い。
軍医として務めるのだから当然だが、この男が体調不良を訴えることなど稀である。にも関わらず青白い顔に冷や汗を浮かべているのだ。
だから、
「どうした」
クレスはそう問いかけたのだろう。
『いやぁ、×××が×××で×××してさ』
こういった軽やかな言葉を返すのが普段のやり取り。
しかし、グラソは逡巡した。
どう答えたものかと考え巡らせている間に秒針が二回りを終えた。
「風邪ひきました」
やっとで答えた内容がそれで、クレスはらしくもなく口をポカリと開ける。
彼が風邪程度のことで冷や汗をかくことがないのを知っていたからだ。なにより、風邪ごときで返答に窮するのはおかしいに決まってる。
人間、言いたくないことの一つや二つあるものかもしれない。しかし相手はグラソである。
何に対しても大っぴらに公言しては恥らうことさえ見せず飄々としてる男なのだ。
どうやら今日のグラソは様子がおかしい。
「お前の薬はお前に効かなかったのか」
クレスがソファーの端っこに腰を下ろすと、グラソはモゾモゾと体を丸めてスペースを空ける。
膝を抱えるようにして体を丸めるのはグラソがいじけたときに良く見せる癖だった。
「クレスくん、お医者さんにも治せないものはあるんですよ」
その返答を聞いて、いよいよグラソが普通でないことを悟ったクレスは、小型通信機のスイッチに手をかけたのだった。
「グラソの様子がおかしいって?」
呼び出され、怪訝な顔で部屋に入ってきたのはルヴィンだった。
片手に細身の缶を三つ持ってやってきた。
「ああ、どうやらさらに何本かネジが抜けたらしい」
「……もう今更な気がするが」
執務用のデスクの椅子を引っ張ってきてソファーと向き合う形に置く。それにルヴィンが腰掛けるさなかもグラソはどこを見るでもなくぼんやりしていた。
『おいおい、お前ら。この天才のネジ一本がどれだけの価値か分かって言ってんのか?』
このくらいの反応はあってしかるべき二人のやり取りさえ見事にスルーされる。
ルヴィンは両目を眇めて正面からマジマジとグラソを観察する。
どうにも視線はかち合わない。
持ってきたコーヒー缶の一つを目の前に掲げてひらひら振る。
「ほら、お見舞い。飲めよ」
差し出すとグラソはあっさり受け取った。
隣のクレスに奇妙な沈黙が纏う。
カシュ、とプルタブを空ける音がやけに部屋に広がる。
いつも通りにでもしてないと空気が深刻に染まってしまいそうで、ルヴィンとクレスもそれぞれ缶を開けて口をつける。
こくりと嚥下する。
「あ、うまい」
「──!!??」
グラソが吐き出した一言が強烈な爆発物のようにルヴィンとクレスに衝撃を与えた。
「おい、お前、本当に大丈夫なのか?」
「しっかりしろ」
グラソの味覚が破滅的なことを知る二人は事の深刻さに打ちのめされていた。
肩を掴んで揺さぶると缶の口から黒い雫が飛んで、白衣に小さなシミを点々とつけた。
よくみれば缶を持つグラソの手は小刻みに震えてる。
「わりぃ、少し寝る」
一口分しか減っていない缶をルヴィンに押し返し、再び柔らかなソファーに身を丸める。
熱のこもる息をひとつついて垂れた双眸を伏せると、睫毛の影がいっそうに顔色の悪さを感じさせた。
ルヴィンとクレスは互いに目を合わせる。
二対の困惑に晒されながらグラソは意識を沈ませていく。
ゆらり、微睡むと、医務室の情景が脳裏に浮かび上がっていた。
* * *
夕刻。
緊急の招集命令の警報が基地内に響き渡った。
魔界と人間界の狭間。
異世界とつながる歪み。
そこから多数の魔物が現れた事を知らせる警報だった。
にわかに基地が騒がしくなったが、一刻も経てばそれは難なく収まった。
優秀な特殊部隊さえいれば平穏は保たれる。
つまり、それは日常茶飯事。
グラソはいつものようにいそいそと基地を飛び出し、ハツラツと敵と闘い、ウキウキと実験対象の獲物を獲得して帰ってくる。
──はずだった。
その日はどうにも調子がよろしくなかったのか。
医務室の壁に肩を押し付けて全身で呼吸をしていた。
手には獲物などなく、その代わりにボタボタと大量に血が流れ落ちる片腕を押さえる。
ゼェゼェと苦しげな呼吸を繰り返す。
両目は不安定に瞬いて意識を飛ばす寸前。
何度か崩れそうになる膝を無理やり歩かせて棚に辿り着くと、大半を薙ぎ倒して目的のアンプルを手にとる。
利き腕でもない血まみれの片手と口を使って、苦労しながら肩口にそれを注射する。
薬のすべてを押し込むと、力が抜け切ったかのように棚の前で尻をつく。
「──はあ……っ」
棚に寄りかかって安堵の息を吐いた。
出血はひどいが傷はたいした事ない。
問題は傷から侵入した毒物。
少々人間離れした体力と破壊力を持つグラソは、魔物とは体ひとつで相対する。魔法の類を使われてしまうと些か厄介だが、これまでそれで瀕死にまで陥った事はないし、大概のことは切り抜けれるだけの戦闘力をもつ驚異の軍医だった。
しかし、そうであるがゆえに少々油断していた。
噛み付いてきた魔物の牙から毒が注ぎ込まれるとは思わなかったのだ。
肉片を持っていかれるのを覚悟で引き剥がした時には、応急処置では間に合わないほどの濃度の高い毒が体内を巡っていた。
所詮ただの人間であるグラソにとって魔界の毒物は強烈なダメージを与えてくれる。
間一髪、あと少し解毒剤を打つのが遅ければ命に関わっただろう。
なにせ、この基地で魔族の生態を専門的に扱ってるのはグラソが唯一なのだ。自身が魔界の毒に晒されて瀕死の状態で倒れでもすれば、治療する手立てなどないに等しい。
我ながら情けない失態にへラリと笑みが零れる。
そうしてる間も腕からの出血で床が汚れていく。
「……貴様は馬鹿か」
呆れた声が降る。
めんどくさげに目線だけで見上げれば、長身痩躯の陰鬱とした空気を纏う男が立っている。
モノクルと前髪で片目を隠し、だが、露わになったもう片目がハッキリと侮蔑を込めてグラソを見下ろしている。
「軍医の癖に戦闘に加わるなど笑止。挙句、毒でも食らったのか」
転がってる使用済みのアンプルを見て吐き捨てる。
眈々とした物言いは毒に侵されダメージの抜けないグラソに対して、チクチクとした痛みを与えるに十分だった。
「んなもん大したことねえよ。心配ご無用」
それでも軽口を叩く。
いまできる精一杯の強がり。
「誰が貴様の心配なぞするか。私は迷惑だと言ってるのだがな」
降ってくる声はあくまで冷淡。
グラソは目を細めることで意味を問う。
「貴様が掻き回してくれるおかげでデータがとれん。迷惑だ」
軍師としての意見なのだろう。
やれやれとばかりにグラソは肩を竦める。
通り一遍で頭が固く融通の効かない軍師・ヴィルと、自由気ままで自分の思う通りにしか動かない軍医・グラソ。
基地でそれぞれの職務についてからこちら、二人は水と油のように気が合わなかった。
性格的にもそう。
立場的にもそう。
グラソはヴィルが口うるさいだけで無く大事な義弟を危険に晒そうとするのを快く思っていなかったし、ヴィルはグラソの好い加減な勤務態度と公私混同する姿勢を嫌悪していた。
床に転がった包帯のひとつを拾い上げ、グラソは片手で不器用にグルグル腕に巻きつけていく。
傷口を保護するというより止血のために、思い切り縛り上げて圧迫した。
解毒剤が聞いてきたのか。心拍が落ち着いてくる。
まだいくらか血色の悪い唇をゆるく持ち上げ、鼻で笑う。
「あーそうかい。そりゃ悪かったね。次は邪魔しねえようにすっからもう出ていけ」
正面からぶつかればただ面倒なだけ。
さっさと逃げを打つに限る。
微塵も反省をみせぬ物言いで謝罪を口にし、追いやる形で手を降る。
一度、床に手をついてから立ち上がり、薙ぎ倒してめちゃくちゃになった棚の中身を直しはじめる。
もう、完全にヴィルに背を向けていた。
「……」
「……」
もはや意地の張り合い。
沈黙が漂う。
止血が甘かったのか、肘から赤い水滴が床に模様を描く。
「……血が止まってないんじゃないか?」
グラソ自身、自覚していることを指摘される。
少し苛立ちを呼び起こされる。
「そのうち止まるだろうよ」
グラソの返答が今度はヴィルを苛立たせる。
「片付けなど後にしてちゃんと手当てしたらどうだ」
「後に回すと面倒なんだよ」
「そこまで出血してるときに片付けなどしてる場合ではないだろう」
「──うっせえな! 心配なんてしねえんだろうが」
眈々と、訥々と、正論を述べられるとたまらなかった。
グラソにしては珍しく、声を荒げていた。
それでも、
「……貴様が有能な軍医なのは事実だからな。倒れて職務を果たせなくなれば困る。迷惑だ」
返ってくるのは正論。
背を向け、強く眉を寄せ、拒絶を貼り付けて、グラソは笑う。
「あーあー、そうかい。迷惑はかけねえから安心しろよ」
「そのざまでなにを」
クッと喉が鳴る。
笑われたのを瞬時に悟る。
怒りで目の前が赤く染まりそうだった。
今日はどうにも調子が悪いらしい。
感情に流される。
「毒喰らおうが血がでてようがオメーには関係ねえだろうが。ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ、暇人」
普段なら、なにを言われようがお構いなしでいれるのに。
自己をコントロールする必要もないほど穏やかでいれる人間のはずなのに。
どうして癇に障るのだろうか。
余裕はどこに消えたのか。
見事にヴィルの琴線に触れたらしい。
──ガシャン!
派手にいくつもアンプルがぶちまかれる。今しがた直した棚の中身が散らばる。
棚のガラスが小さくヒビ割れて軋む。
──ぎし、と。グラソの肩が悲鳴をあげた。
細い筋張った指が押さえつける。
「ほう? 大したことないと?」
冷たい視線が突き刺さる。
線の細いヴィルの顔がグラソの目の前にある。
毒によって体力を小削ぎ落とされてるとはいえ、肉体派ではないヴィルに押さえ込まれてる事実に苛立ちが増長する。が、棚に縫い付けられた身体はびくとも動かない。
それだけ強い力で押さえられているのか。はたまた自分で思うよりダメージが酷かったのか。
「どうやら貴様は身を以て反省する方がいいようだ」
体格差では劣ってるはずのヴィルは涼しげな表情でグラソの肩を拘束し、綺麗なラインを作り出してる喉元に唇を寄せる。
なにをと問う前に鋭い痛みが走った。
ヴィルのもつ鋭い上下の牙が喉に食い込む。
痛みとも熱さともとれるものが瞬く間に首から上に広がる。
ヴィルの舌が皮膚をなぞると、牙が食い込んだはずのそこはみるみるうちに傷を塞ぐ。
何事もなかったかのように。
熱は全身を巡る。
これほど高い熱に支配されていながら、グラソの顔は血色を失いはじめて青白くなっていく。
「そのざまでよく言えたものだな。反省できたなら解毒剤をやろう」
ヴィルは崩れ落ちる姿に侮蔑の眼差しを投げ捨てて、踵を返し立ち去る。
──注ぎ込まれたのは先ほどのものとは比べ物にならぬくらい濃度の高い毒。
「……ふざけんな」
震える手で転がるアンプルを拾う。
「誰が反省なんか……っ」
覚束ない手で注射器を扱い身体に差し込む。
手当たり次第解毒剤を打つ。
これまで研究してきたもののなかにはない毒素を身を以て味わう。
致死性ではないのか。
ただ徒らにグラソの身体にダメージだけを与える毒に戸惑う。
大量の解毒剤がそれなりに毒素を打ち消してくれる頃には、グラソの気力などとうに小削ぎ落とされてしまっていた。
To Be Continued……