同じ匂いをさせるなまえが好きだ。
風呂上がり、しっかりと乾かされた髪からほのかに香るシャンプーの匂いだとか。肌に鼻を寄せた時に感じる同じボディソープの匂いだとか。同じ匂い。けれど間違いなくなまえの匂いがする。
そんな彼女を両腕に抱えて眠るといつもより深く眠れるのだ。
「ただいまぁ…ごめんね、遅くなって」
逆に飲み会帰りのなまえの匂いはどうにも受け入れ難い物があった。
酒臭いとかタバコ臭いとかそんな話しではない。微量に男の匂いが混ざっているからだ。付き合いだとは分かっている。分かっているが知らない男の匂いが彼女からするのは嫌だった。そんな俺の気持ちを察してか、なまえは飲み会帰りは風呂へと直行する。
今日もジャケットに消臭スプレーを吹き掛けると「お風呂行ってくるね」と立ち上がったなまえ。その瞬間、彼女から香った匂いに反射的に身体が動いた。
「杏寿郎さん?どうかした?」
「あ、いや」
首を傾げる彼女にスンと鼻を鳴らす。
間違いない。いつもより男の匂いが強い。不快感が胸を覆う。
「今日はどんな飲み会だったんだ?」
「あ、今日はね中途採用で入った人の歓迎会。新卒と一緒にするのも可哀想だよね、って」
「そうか…男性が入ったのか?」
「そうなの、よく分かったね」
「ただの勘だ」
「ふふっ杏寿郎さんはすごいね」
笑う彼女に微笑みを返す。
この匂いは香水だろうか。それにしてもこんなにベッタリと匂いが移るほど香水を使っているのだろうか。
あるいはなまえがその人物の近くにいたという事か。
「すぐにお風呂入ってくるからね」
そう言って風呂場へと消えていく彼女をにこやかに見送った。
この日からだった。彼女の飲み会の回数が増えたのも。帰ってきた彼女から必ずあの香水の匂いがするようになったのも。
「またか?」
「うん…もう勘弁してほしい…」
「断れないのだろうか」
「断りたいけど、実はこの前一度断ってて…」
ぐったりと溜息を吐いたなまえにホットココアを差し出す。
あの日から飲み会が増えた。彼女の話しによると中途採用の人間がどうにもノリのいい人間で、それを気に入った上司達が頻繁に飲み会を開催しているらしい。
差し詰め、なまえは飲み会の酌係といったところか。女が居れば盛り上がるとでもいうのか。
いずれにせよ、腹が立つ。
「…杏寿郎さん怒ってる?」
「いいや。社会人の飲み会は仕事の内だと認識してる。俺にもあるからな」
「でも…」
「君との時間が無くなるのは寂しくもあるが、その分の埋め合わせをしてくれるだろう?」
微笑んでそう言えば、なまえはパッと表情を綻ばせ「もちろん!」と笑顔を見せてくれる。ああ、やはりその顔がとても好きだ。
そして彼女は何も悪くない。悪いのは別にいる。
「正直行きたくないなぁ…杏寿郎さんとご飯食べてる方がずっと美味しいもの」
いつも同じ安い居酒屋だし会話も楽しくないの、と愚痴る彼女の頭を撫でてやるとマグカップを置き俺の肩に頭を乗せペタリとくっ付いてくる。「おいで」と言ってなまえに両手を伸ばし、向き合うような体勢で膝の上に乗せた。
いつもなら羞恥で頬を染める彼女が今日は項垂れたようにしがみ付いてくる。
「…君を誘うのはその中途採用の人間か?」
「うん…いつものメンバーってやつに私も入れられてるみたい…」
「ごめんね、杏寿郎さん」と呟く声に元気がない。ぽんぽんと背中をさすりながら、なるほど、と目を細めた。
・・・
退屈な飲み会だ。
そんな事を言ったら失礼かもしれないがなまえは大きく溜息をついた。何度聞いたか分からない上司の武勇伝に驚き、何度聞いたか分からない冗談に笑ってみせる。
中途採用の人も毎度誘ってくれるのは有り難いとは思うが、流石にもう疲れてきていた。何より杏寿郎だ。なまえにとっては彼との時間は仕事よりも何よりも大切にしたい時間だ。
会計を済ませ、酒に酔う上席や他の者達に挨拶をし、そそくさと店の外へと進む。早く杏寿郎のいる家へ、彼の元へ、と逸る気持ちで店の扉を開いた時「みょうじさん」と声を掛けられた。
「、何ですか?」
「よかったら飲み直しません?」
中途採用の男だった。
立場的にはなまえの方が先輩にあたるが、相手は年上だ。丁重に断らなくてはと思ったが、正直な気持ち流石に付き合いきれない。
「すみませんが帰ります」と簡潔に言って店を出ようとしたなまえに驚き「えっ、ちょっと!」と男が手を伸ばす。その手が肩に触れるか、触れないかの、その瞬間。
「なまえ」
呼びかける声になまえはピタリと足を止めた。驚いて見つめるその先には私服の杏寿郎が立っていた。パッと目を輝かせると男を無視して駆け寄る。
「杏寿郎さんっ、どうしてここに」
「お帰り。君を迎えに行こうと思ってな」
「お店の場所知ってたの?」
「いつも同じ店だと言っていただろう。トーク履歴を見てどの店だったか調べた」
「もしかしてずっと待っててくれた?」
「いや、大した時間じゃない」
「ご、ごめんなさい杏寿郎さん」
「俺が勝手にした事だ」
「だけど…」
申し訳なさそうにするなまえを見て杏寿郎は目を細める。
今日はまた随分と匂いを付けられている。
相手は間違いなくあの男だろうと、ジロリと目を向ける。杏寿郎の瞳はただでさえ強い力を持っているというのに、先程例え未遂だとしてもなまえに触れようとした男を見る目は一際強いものだった。
まるで睨むような杏寿郎の視線に男がたじろいだ。
「杏寿郎さん、どうかした?」
「ああ、いや帰ろうか。もう良いのだろう?」
「うん、解散はしてるから」
そう言ってなまえはチラリと男の方を振り返る。飲み直そうと誘われたなんて杏寿郎さんには言えないな、と言葉を飲み込んだがそんな彼女の僅かな機微に気付くのが杏寿郎という男だ。
プライベートで誘われたな、と察っする。全く腹立たしい。なまえに触れるのは勿論、この匂いも、近付かれることも何もかもが不快だ。
帰ったらまずは洗い流して、と考えた時。杏寿郎はふと思い付くと口元に笑みを浮かべた。
そしてなまえに顔を寄せると男に聞こえる声で呟いた。
「なまえ、今夜は一緒に風呂に入ろう」
「え、………えぇ!?」
ぼっ、と頬を染めたなまえに、にっこりと笑みを浮かべる。
「飲み会の後すぐに風呂に入るだろう」
「そ、それはそうだけど…!」
「俺もまだ風呂には入っていないからな、丁度良い。無論、君が逆上せないように気をつけ、」
「わかった、わ、分かったから、帰ろう…!」
「顔が赤いな。そんなに飲んだのか?」
「きょ、今日はソフトドリンク!」
赤い顔で手を引いて、いささか早足で歩き出す彼女にされるがまま杏寿郎も歩き出す。
一瞬、男の方に振り返りふっと笑みを浮かべた杏寿郎のその顔が優越感に溢れていたのはなまえには内緒だ。
移り香を潰す愛
「もう、外であんな事言うなんて…!」
最寄り駅から家に着くまで未だに赤い顔のなまえはぶつぶつと言っている。
文句を言いつつも杏寿郎の手を離さないところを見ると怒っているわけではなく、単純に照れ隠しか何かだろう。
相変わらずなまえからは香水の匂いが僅かにするが、今日はそこまで不快に感じない。
「なまえ」
「な、にっ、…」
振り返った瞬間顎を掴み、そのまま唇を押し付ける。後頭部に手を回して固定しても良かったが、流石にそこまでしたらなまえが羞恥で潰れそうだと思い手を離した。
「…な、ん、なに、なっ、!」
「早く帰ろう、君を甘やかしたい」
今度は杏寿郎が手を引き歩き出す。きっと不快に感じないのは彼女の匂いを塗り潰す事が出来るのは自分だけだと知っているからだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この一件以降、飲み会に誘われなくなったそうな。
セコム超えてモンペのような。
彼女に対してはにこやかでドロドロに甘い
2021.04.12