「引いてみるってのも手じゃねえか?」
「ふむ」
宇髄天元の言葉に杏寿郎は眉を寄せた。
きっかけは天元になまえの事で声を掛けられたことだ。最近鬼殺隊の隊士達の間で一つ噂が流れていた。内容としてはあの炎柱、煉獄杏寿郎が蝶屋敷にいる、とある女性に求婚をしているというもの。それもとても熱烈な求婚であると。
一体どこからそんな噂が回ったのか。「あの噂は本当なのか」と声を掛けてきた天元に「事実だ!!」と声高らかに言い切ったのは先程の事だった。
「そんだけ押しても返事がねえんだろ?なら一回引いてみろよ」
揶揄いにきたはずが、杏寿郎の気持ちが本気であると知った途端、茶化すことも出来ず、放置も出来ず。結局、相談に乗ってしまっていた天元。大の男が顔を突き合わせ二人して恋の話題に熱を入れるなど。地味なのかそれとも一周回って派手なのかと天元は隠れて苦笑いをした。
「なるほど…引いてみる、か」
「おう。少し距離が出来て気付く事ってのもあるだろ」
「そういうものだろうか?」
「そりゃそうだろ。恋なんてものは駆け引きが上手いもんが勝つって相場は決まってんだよ」
嫁に欲しいと何度言ってもなまえは恥ずかしそうに逃げてしまう。目が合うと戸惑ったように視線を彷徨わせ、頬は茜色に染まる。それを見るだけでも愛らしく感じるし彼女との関係性自体は悪いものでは無い。けれど進展は無い。
天元の言う駆け引きというもので彼女との関係が進展するならそれはそれで良いものなのかもしれないと考えた。
「宇髄の言う引いてみるというのは彼女に会わないという事か?」
「まあそれでも良いっちゃ良いけどよ、少し素っ気なくするのも手だな」
「素っ気なくか!なるほど!それは無理だな!!」
「即答かよ」
素っ気なくなど出来るはずもない。なまえを見かけたら声を掛けてしまうのが杏寿郎だ。そしてそれを胡蝶しのぶに咎められるのも杏寿郎だ。
「顔を見てしまうとどうにも駄目でな」と困ったように笑った杏寿郎に天元は「へえ」と口元を緩める。これは思っていた以上に本気のようだ、と。
「恋なんてモンは溺れちまったほうが負けなんだがなあ。まあそこまで惚れ込んでるなら派手に押し通してみろよ」
「やれるだけはやってみるつもりだ!」
「そんで、これからお前は何処に行くんだ?」
「無論!蝶屋敷だ!」
どこまでも真っ直ぐに。彼女へと向かっていくその様は清々しさも感じてしまう。
こりゃあ、また胡蝶のやつ苛々するんだろうなぁ。などと思いながら天元は溜息をついて杏寿郎とは反対の道へと歩き出した。
・・・
「あー!炎柱様ですー!」
「こんにちはー!」
「少女達か!久しぶりだな!」
「久しぶりじゃないです!炎柱様、先週もいらっしゃいましたよ!」
クスクス笑う、きよすみなほの三人に杏寿郎も返すように笑みをこぼした。なまえに会いに来るようになってから必然的に会う回数が増え、同時に会話をするのも多くなった蝶屋敷の少女達だ。
「なまえはいるだろうか!」
「はいっ!なまえさんなら今は、……あっ」
「しーっ!」
「言ったら駄目だよ!」
言いかけた一人が口元を両手で隠し、もう二人が人差し指を口元に添える。
杏寿郎は彼女達と視線を合わせるためにその場にしゃがみ込む。「何かあったのか?」と聞いてくる杏寿郎の言葉に、きよすみなほの三人は戸惑ったように顔を合わせた。
「どうしよう、言ってもいいのかなあ」
「でもしのぶ様達には内緒にしておいて欲しいってなまえさんが」
「うーん、炎柱様だったらいいのかなあ?」
「…なまえさん最近困ってたよね」
「すごく困ってた」
「助けてあげたいよね」
三人で顔を見合わせ意見が一致したのか、今度は三人揃って杏寿郎を見る。
「炎柱様、あのなまえさんいま同じ男の人に何度もお誘いされてるんです」
「…何?」
「お屋敷に薬を買いに来る町のお兄さんなんですけど、この頃毎日来ててその度になまえさんを呼び出してるんです」
「なまえさん困った顔してたよね」
「ね。今日も裏口に呼ばれてるし」
「大丈夫かなあ」と彼女達が話してくれた内容に杏寿郎は目を見開く。すぐに立ち上がると三人の少女達に「ありがとう!」とお礼を言い屋敷の裏口へと早歩きで歩きだした。
天元には引いてみるのも手じゃないかと提案されたが。
「引く余裕もない」
少しでも引き下がれば、他の者が彼女に近付く。目を離したら誰かに取られてしまうのではないかという焦燥感がある。
自分の求婚も大概ではあるがそれはさておき。少女達から聞いた男の行動は許し難い。彼女はどうしているのだろうか。困っているとは聞いたが。頬を赤らめているのだろうか。赤々とした頬で恥ずかしそうに顔を俯けているのだろうか。
なまえのそういう姿を見るのは自分だけだと勝手に思っていたのだが。
他の者にも同じ対応をするのは、少し、いや大いに嫌だと感じた。
「お断り致します」
瞬間、凛とした彼女の声が耳に届いた。
反射的に杏寿郎は足を止める。視線の先には男と向き合った状態で話しをするなまえがいた。男は困惑した顔を浮かべている。
「何でですか。良いじゃないですか、一日出掛けるくらい」
「申し訳ございませんが、そういったお誘いに応える事は出来ません」
「何で、だって昨日までは普通に話しをして!」
「それは薬の話しだったからです。個人的なお話しはお受け出来ないと言っているのです」
「そんなっ」
「どうかお引き取りを。薬のことならいつでもお伺いしますから」
そう言って深く頭を下げたなまえに男はギュッと拳を握ると何か言いたげに一度口を開いたが、クルリと背を向けすぐに走り去って行った。
しばらくしてフウと溜息をつく彼女の姿を杏寿郎はぼんやりと見つめた。物憂げに、視線を伏せたその横顔は安堵してるようにも見えた。
「なまえ」
「っ!……れ、煉獄さま…いらっしゃっておりましたか…」
「大丈夫か」
その問いになまえは困ったように顔を俯かせた。
「お、おかしな所を見られてしまいましたね…」
「いいや、そんな事はない。少女達から聞いて心配して来たのだが俺は不要だったようだな」
「三人から…」
あの子達にも心配させてしまった、と言って屋敷に戻ろうとするなまえは「煉獄様は今日はしのぶ様に御用ですか?今は出掛けておられますが」と聞いてくる。いつもの杏寿郎なら「君に会いに来た」と言っていただろう。
けれど今はどうしても言いたい事があった。
「君も相手の好意を断るのだな」
「え?」
なまえが、ふと振り返る。どこか不思議そうに小首を傾げて杏寿郎を見やる。
「いや、あんな風にハッキリ断るとは思わなくてな」
「いえ、その…相手に気も無いのに断らないのは失礼かと…」
「そうか」
「おかしかった、ですか…?」
じわり、じわりと胸に込み上げてくる。気を抜いたら緩んでしまいそうになる口元を杏寿郎は必死に抑えた。
「俺は君に断られた事がないのだが。俺に対して少しはその気があると解釈しても良いのだろうか」
何度求婚しても顔を赤らめて逃げ出してしまう彼女。
好いていると何度伝えたことか、何度嫁に欲しいと言ったことか。明確な答えなど貰った事はない。彼女の気持ちは未だに分からないが。だが同時に、明確に断られた事は今まで一度もない。
押して駄目なら、
「改めて言おう!俺は君が嫁に欲しい!」
更に、押すまで。
杏寿郎の言葉をポカンとした顔で聞いていたなまえだが、暫くして言葉の意味を理解したのか「…あ、あの」と少し戸惑った顔をして見せた。
「え、?…わた、し……あ、あれ…え…?」
いつもとは違う反応。困惑したような、驚いたような、ころころと表情を変えさせたあと「っ!」と勢いよく顔を上げる。そしていつものように、じわじわと頬を赤らめて見せた。
「その反応。どうやら君は俺の求婚を断っていない自覚が無かったようだな」
「なっ、…ちが、私は、その…っ!」
「うむ!何か言いたい事があるなら聞こう」
「うん?」と言って、体躯を屈めなまえの顔を覗き込んだ杏寿郎。彼の大きな瞳が間近に迫りなまえは一歩、二歩と後ずさる。いつにも増して頬が赤々としている。
「わ、…私、もう、行きます…っ」
またしても、断らない。
「そうか」と杏寿郎が言うと、なまえは自分の両頬を手で抑え足早にその場を立ち去る。このまま捕まえて、彼女の心の中を聞き出すのも良かったが。
今はまだ逃してやるのも悪くない。
「まいったな…」
ようやく見え隠れしたなまえの感情を前に、口元が緩むのを抑えられそうにない。
あと少しでこの腕の中に彼女が落ちてくるのではないかと、そんな予感すらする。
引いてみろという助言もあったが、彼女に対し引くつもりは一切ない。
あの赤々とした頬はどれほど熱を持っているのだろうか。早くこの手で触れてみたいなどと思いながら、杏寿郎は緩む口元を片手で隠して誤魔化した。
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とうとう炎柱の射程圏内に彼女が入ってまいりました。
そしてまさかのまだ続きます。
2021.05.24