「どいつもこいつも」


フンと。胡蝶しのぶは苛立ちを隠せなかった。

最近の彼女はとても苛立っていた。仕事が忙しいから、患者が多いから、いやそんな事ではない。彼女が頭を悩ます原因はただ一つ。


「しのぶ様」

「…ああ、なまえ」

「お茶をご用意しました、一息つかれませんか?」


ニコリと微笑んだなまえにしのぶもつられて笑みをこぼした。

なまえを蝶屋敷で引き取ってからどれくらい経ったことか。隊士ではないが機転が利き容量もいい。どんな仕事を任せても彼女の手際の良さに掛かればあっという間に片付いてしまう。

しのぶはなまえを信頼しているし、なまえはしのぶを尊敬している。


「なまえ」

「はい?」


なんの問題もない。これからも続いていく穏やかな二人の関係だったが。


「最近、煉獄さんとは会いましたか?」


そこに介入する者が一人。


「い、いいえ、その、…」


頬を赤らめて動揺するなまえにしのぶはニッコリと微笑んだまま見つめる。

そう煉獄杏寿郎はなまえの前に突然現れ、声を掛ける、外に誘うどころか、何もかもを飛び越えて事もあろうに彼女に求婚をしている。

杏寿郎は悪い男ではない。同じ柱なのだから、しのぶだってそれくらいは分かっている。分かっているが、どうにも面白くない。煉獄杏寿郎の名を聞くとすぐに頬を赤らめるなまえの姿は可愛らしいが、同時にとても面白くないのだ。


「この前は屋敷まで米俵を運んでくださったそうですね」

「は、はいっ」

「私とした事がまだお礼をしていませんでした、うっかりです」


最近では杏寿郎が蝶屋敷に訪れる事が普通になってきている。きよ、すみ、なほ、の三人でさえも最近は彼に懐いている始末だ。元々人懐っこい三人ではあるが。


「それから先日も屋敷に来ていたとか」

「…っ」


悪い男ではない。真っ直ぐなまえを想っているのはわかる。分かっているが、そう簡単に渡す事が出来ないのがしのぶの心情だ。

しのぶがもやもやするのは杏寿郎の事だけではない。

どいつもこいつも。

そう。最近多いのだ。なまえに言い寄る男が。町の者も、鬼殺隊の者でも。

なまえに何も起きないように「何かあったら言うんですよ」とは言ってあるが、全てを話してくれる彼女でもない。余計に心配になってしまう。


「なまえ、私はカナヲとアオイを連れて買い物に行ってこようと思います。その間ですが屋敷の事と患者達の事を頼めますか?」

「はい、もちろんです」


「お任せください」と言うなまえにしのぶは微笑みながらため息をついた。


「私は貴方を大切にし過ぎているのでしょうか」

「え?」

「いいえ、何でも。私もいい加減に腹を括らないといけませんね」


しのぶのどこか諦めたようなけれど優しい微笑みに、なまえは不思議そうに首を傾げるのだった。



・・・



「うまい!!」

「はいっ!美味しいです!」


二人で一体どれほどの団子を食べたことか。

山のように積み上がった皿を見て、行き交う人や店に来ていた者たちは驚いたように目を見開き、そして杏寿郎と蜜璃の二人をしげしげと眺めていた。


「任務後の甘味って最高ですよね!煉獄さん!」

「うむ!疲れた身体には丁度いい!」


いくら疲れていても限度というものがあるだろう。
と、町人たちは思うが二人の会話に割って入る者はいない。

任務終わりの杏寿郎と蜜璃がたまたま町で遭遇したのは先程の事。久しぶりに茶でもするか、という杏寿郎の誘いに喜んで了承したのだ。


「煉獄さんはこの後はご予定があるんですか?」

「ああ、蝶屋敷に行こうと思う!」

「!」


杏寿郎の言葉に蜜璃はピクンと反応した。

前々から噂で聞いてはいた。杏寿郎が頻繁に蝶屋敷に足を運んでいること、またその目的についても。まさか本当だったなんて、と思うと蜜璃の頬はゆるんゆるんに緩み切っていた。


「なまえちゃんですか?」

「ああ!甘露寺も知り合いだったのか!」

「はい!何度か手当てしてもらった事があって、煉獄さんもですか?」


蜜璃の問いかけに杏寿郎は懐かしむように目を細めた。

初めてなまえと出会った日。その日は蝶屋敷が患者達で溢れ返っていて杏寿郎も珍しく怪我を負っていた。とはいえ、大した傷ではないので他の者達の後でいいと言った自分の元にやって来たのがなまえだった。

もう他の患者達は大丈夫だから、と言って杏寿郎の治療にあたったなまえをずっと見ていた。


「そうだな、とても美しい所作だった」

「え?」

「それが俺の彼女に対する最初の印象だ」


傷を手当てする手が、指の先まで綺麗だと思った。清潔に整えられた爪も、繊細に動く指も、肌に触れる手のひらも、その何もかもに目を奪われた。

ああだが、一番目を奪ったのは他でもない。


はい、これでもう大丈夫ですよ


治療を終えた時に、包帯を巻き終わった彼女が顔を上げて見せたあの微笑みかもしれない。

初めて出会った日。その日に心惹かれ、その日のうちに求婚をした。あの日からずっと惹かれている。今も、ずっとだ。


「はぁー!とっても素敵です!早くなまえちゃんに届くといいですね!」

「うむ!俺は駆け引きが出来ないからな!押すことしか出来ないが!」

「何だか恋の話しをしたらお腹が空いてきました!」

「そうか!恋と空腹の繋がりはよく分からんが!ならばもっと食べるといい!ここは俺が出そう!」

「ええ!本当ですか!」


きゃー!と蜜璃が両頬を抑えてはしゃぎ、杏寿郎は笑みを溢す。穏やかな空気だなと深呼吸をした時、視界の端に見覚えのある少女が飛び込んできた。

どこか必死な顔をしており、息を切らして走っている。その様子にただ事ではない空気を感じ取り、杏寿郎は声を上げた。


「君は!蝶屋敷の少女か!」

「っ!炎柱さま…!」

「どうした!何をそんなに慌てている!」


走って来たのは蝶屋敷に住まう三人の少女のうちの一人、なほだった。

杏寿郎の姿に気付くとすぐに駆け寄ってくる彼女は息を切らしており、今にも泣いてしまいそうな面持ちだ。


「炎柱さまっ、恋柱さま…!」

「どうしたの、何かあったの?」

「なまえさんが、なまえさんが大変なんです…!」


ゼエゼエと息を切らす少女の背中を蜜璃がさすってやる。なまえという名前が出た途端杏寿郎は眉を寄せた。


「なまえがどうした!」

「入院中の患者さんが暴れ出してしまって!しのぶ様はいま不在で、なまえさんが対応してくれてるんですが…!全然収まらなくて…!」


このままじゃなまえさんが怪我をしてしまいます!

悲鳴にも似た少女の声に杏寿郎は勢いよく立ち上がった。懐から財布を取ると蜜璃へ投げて渡した。


「甘露寺!少女と、ここを頼む!」

「はい!私はこの子と一緒にしのぶちゃんを探しに行きます!煉獄さんは早く!」

「ああ!」


瞬きした瞬間には地響きを上げて駆け出した杏寿郎を見送る。早くしのぶを探さなければ、きっと町の何処かで買い物をしてるはずだ。

それまでどうかなまえに何も起こらないように。そう強く思い、なほの背中をさすった。



・・・



ガシャンと音を立ててその場に倒れ込んだ。

その瞬間こめかみ辺りにズキリと痛みが走る。きよとすみの二人が「なまえさんっ!」と叫ぶ声が耳に届いていた。

始まりは病人食が不味い、と文句を言われた事だった。患者は鬼殺隊の隊士で身体がまだ本調子では無かったから、しのぶからの指示でお粥を出していた。

それがどういう事か。長い病床生活で鬱憤が溜まっていたのかは分からないが、粥の入った土鍋を投げつけた挙句、盆をひっくり返したのだ。

同じ病室で看病していた者達の中には彼と親しい人間が多いのか同調する者もいる。


屋敷の事と患者達の事を頼めますか?


しのぶの言葉を思い出し、このままではいけないと身体をグッと起こしたなまえ。だが次の瞬間、パタタと生温いものが自分の頭部から滴り落ちた。白い服に赤い染みが広がる。


「なまえさん血がっ!」

「っ……大丈夫、大丈夫よ」


涙を浮かべる二人の少女に微笑んで見せる。

ついさっき怒鳴り散らし、土鍋を投げつけ暴れる隊士を宥めようと手を伸ばしたのだが、強く振り払われてしまったのだ。反動で床へと倒れ込んだ先に割れた土鍋があった。どうやら転んだ際に落ちていた破片に当たり額を切ったようだ。先程ズキリと痛んだのはこのせいだったのか。

素手で傷口に触れると、ぽたりぽたりと止まらないそれに少し目眩がした。


「おっ、俺は何もしてないからな!」

「そうだ!大袈裟に転びやがって!」


口々になまえに向かって怒鳴る声が聞こえる。その声に少女達がすぐに言い返す。「こんな事するなんて!しのぶ様に言いつけますから!」「なまえさんに謝ってください!」と泣きながら言う少女達になまえは手を伸ばす。

いけない。相手は男性の隊士で激昂している。少女達まで怪我をするような事があったら。そんな事は、それだけは絶対に許されない。

ぽたぽたと滴る血の中で、自分を振り払った男性隊士と目を合わせた。


「っ、テメェ!何だ睨みやがって!隊士でもない女風情が!」


そう言うと男は近くに転がっていた湯呑みを手に取り振り上げる。

はっと我に返り、きよとすみの二人の身体を引っ張った。「きゃあ!」と悲鳴をあげる二人を両腕で抱え自分の身体で守るように強く抱きしめ身を硬くした。

だが湯呑みは飛んで来ず。代わりに大きな地響きと、ガタンッと強く戸を開く音。


「あ、貴方は…!」


隊士の震える声が響きなまえは恐る恐る目を開けた。

自分の前に立ちはだかる大きな背中。炎のような羽織りが視界に映った瞬間、ジワリと目の奥が熱くなった。



「っ、れ…煉獄さま…!」



なまえの声に杏寿郎が振り返る。

杏寿郎は兎にも角にもなまえの無事を確かめたかったのだ。だが、彼女の額からぽたりと落ちる鮮血を見た瞬間、彼の呼吸が一瞬止まった。割れた土鍋と床に散らばった粥。二人の少女を庇うように抱きしめていたなまえは流血し、服に赤い染みを作っている。

刹那。杏寿郎の大きな瞳が鋭くなり、怒りの色を帯びる。ビリビリと部屋が震えるような空気になまえは息を呑んだ。

いつも笑った所しか見た事がなかった。名前を呼んで声をかけてくれる時、彼はいつも優しく微笑んでいてくれたからこそ。


「なまえに何をしたッ!!!」


こんなに怒った彼を見るのは初めてだった。

なまえ達ですら息を飲むと言うのに。彼に怒鳴りつけられた隊士達はそれ以上に怯えた顔をして見せた。煉獄杏寿郎と言えば周りからも慕われる面倒見の良い隊士であり柱だ。そんな彼がビキリと青筋を立て、まるで鬼のような形相をしている。


「なまえさんっ、傷を抑えてください…!」

「っ、ええ、ありがとう…」


きよとすみが差し出した清潔な手ぬぐいを受け取り額に当てる。二人の少女の瞳からポロポロと涙が溢れており、なまえはそれが申し訳なく、同時にこの少女達がたまらなく愛おしくもあった。


「お、俺たちはその…す、少しふざけただけで…っ」

「そ、そうなんです!そしたら勝手に向こうが転んで!」

「ッ!そんなの嘘です!なまえさんに酷いことしたのはそちらです!」

「嘘を吐かないで、ちゃんと謝ってください!」


咄嗟に二人の少女が声を上げる。泣き声のまま叫ぶ少女達の姿に、なまえに湯呑みを投げつけようとした発端の隊士はもちろん、彼に同調していた者達もたじろぐ。

どちらの言い分が正しいかなど、事情を改めて聞かずとも明白だった。

気を抜いたら止める事が出来なくなる。そんな怒りが腹の奥底からふつふつと湧き上がる。焦げ付くような強烈な感覚に、杏寿郎は感情を抑えようと大きく息を吐いて呼吸を整えた。


「…少し、ふざけただけか」

「そっ、そうなんです!炎柱様!」

「…ならばこれも、ふざけただけと言う事か?」


先程隊士がなまえに投げつけようとした湯呑みを見せる。なまえ達に当たる前に駆けつけた杏寿郎が間一髪で受け止めたものだ。

隊士は湯呑みを見せつけられ一瞬たじろいだが、すぐに先程の調子で軽口を叩く。


「それは、…そ、そうです…!ただ遊びの度が過ぎただけで!」

「オレ達別に怪我させるつもりは無かったですし!」

「そもそもこの土鍋だってそっちが勝手に!」


何と情けない事か。

後輩の育成についてはこれまで他の柱とも話した事はあったが。まさかここまでとは。人を傷つけておきながら、言い訳と保身。更には責任転嫁。例え叱責しているのが柱だったからだとしても、それでも人として欠けている。

上に立つ者としての自責と、怒り。何より、なまえだ。他の者だったら、などと言うわけでは決してない。けれど。

好いた相手がこんな目に遭わされ、抑えろと言う方が無理だ。


「ふざけただけか、そうか」


そう言った瞬間、杏寿郎は手に持っていた湯呑みを握り腕を大きく振り上げる。

ガシャンッ!

ばさりと音を立てて翻った炎の羽織り。風を切る音と共に思い切り腕を振り抜くと、手の中の湯呑みを渾身の力で投げつけたのだ。

隊士の間をすり抜け、壁に激突したそれは原型を留めないほどに粉々に砕けた。近くにいた隊士は「ひっ」と短い悲鳴をあげ思わず腰を抜かす。


「えっ、炎柱様!一体何をなさるのです!」

「ふざけただけなのだろう」

「えっ」


杏寿郎の静かな声に隊士達は言葉を失った。


「君達がした ふざけただけ とやらを俺もやってみただけだ。何か問題があるだろうか」


それだけ言うと杏寿郎は隊士達に背を向けなまえの元へ歩み寄り、すぐそばに膝をついた。

ずっと手ぬぐいで抑えていたからか、まだ傷口からは血が滲んでいるものの、先程のような多量の出血はおさまっていた。


「すぐに手当をしよう」

「ですが、この場は…」

「大丈夫だ、心配はしなくていい」


不安気に呟いたなまえに杏寿郎はいつものように優しく笑みを返した。

屋敷の外からとてつもない速さでこちらに向かってくる気配が一つ。怒りを抑えきれていないのか、自分と同等の物を感じ取れた。怒りの持ち主は間違いなく、この屋敷の主人だろう。

胡蝶しのぶが間も無く戻る。

きっと数でも数えるうちにここに来るだろう。この場は彼女に任せるのが賢明だ。


「なまえ捕まっていてくれるか、君を別室に運ぶ」

「いえ、そんな…大丈夫です、それに煉獄さまのお召し物を汚してしまいますし…」

「そんな事はどうだっていい。俺がそうしたいんだ、頼む」


静かだが真っ直ぐな杏寿郎の言葉になまえは何も返せなくなる。そばに居た二人の少女も「なまえさん…」と心配気に目を潤ませている。

頭がふらふらとするのは失血のせいだろう。きっと立ち上がったらそのまま倒れてしまう。

なまえはおずおずと杏寿郎を見る。すると杏寿郎は何も言わず自分の両腕を広げて見せた。カアと熱くなる頬を誤魔化すように「すみません、」と一言発し杏寿郎に縋るように両腕を伸ばす。その腕を杏寿郎の首に回すように促される。次の瞬間にはなまえの身体は軽々持ち上げられていた。


「君は胡蝶の元へ、もう直に戻ってくる」

「はい!」

「それなら私はなまえさんのお部屋に案内します!あと治療箱も…!」

「すまない、頼む」


パタパタと動き回る少女達。杏寿郎は後ろにいる隊士達へと振り返らぬまま口を開く。


「他の者達は待機。その場を動くな。胡蝶の指示に従うように」


それだけ言うと部屋を後にする杏寿郎。彼の後ろ姿を見送った隊士達は誰一人として動く者はいなかった。

噂は聞いた事があった。煉獄杏寿郎が蝶屋敷の女性に求婚していると。だがそんな物は嘘だと思って信用などしていなかったのだ。しかし今、目の当たりにして気付く。なまえの為に激昂し、そして彼女に声を掛けそのまま抱き上げる姿は正しくそれだった。

今更に気付く。噂が本当であった事。その相手がなまえであった事。

そして、自分達が彼の逆鱗に触れてしまった事を。



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虎の尾を踏む、とはまさにこの事。
次回でラスト。
2021.06.21



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