「大丈夫か?」

「少し、くらくらしています…」


そう言ったなまえを彼女の自室の畳の上に降ろすと杏寿郎はすぐに身体を支えた。少し目眩を覚えている彼女は杏寿郎の腕を緩く掴み、ホウと溜息をついた。


「なまえさん、本当に大丈夫ですか…?」

「ええ大丈夫、すぐに良くなるから。ね?」


心配気な顔をしたすみに、柔らかく微笑みかけると頭をひと撫でする。だがすぐに身体がふらりと揺れた。


「今は大人しくしているんだ」


そう言って杏寿郎はなまえの肩に手を回し支える。「すみません」と彼女が謝った時、彼女の身体が僅かに震えていることに気付いた。触れた手のひらは血の気が引いているのかすっかり冷え切っている。これは失血だけが原因ではないとすぐに気づいた。


「私、しのぶ様の元に行きますね」

「ええ…ありがとう、すみ」

「炎柱様、なまえさんのことお願いします」


ペコリと小さな頭を下げると背を向け部屋を出て行くすみの背中を見送った。

彼女が用意してくれた治療箱。幸いもう額からの出血は止まっていた。身体は少しふらついてはいるものの、治療自体は簡単なものだ。自分でやってしまおうとなまえが箱に触れた時、杏寿郎の手がそれを制した。


「治療は俺にやらせてくれないだろうか」

「え…、ですが」

「手が震えている」


杏寿郎の言葉になまえはハッとして自分の手を見た。自分の手がカタカタと震えていることに今更になって気付いたのだ。「これは、その…!」と言ってグッと拳を握ってみるが震えは止まらない。

どうしよう、となまえが顔を俯かせた時、杏寿郎の手がそっとなまえの手に触れた。驚いて顔を上げると真っ直ぐに自分を見つめる炎色の瞳と目が合う。


「怖かっただろう」


掛けられた言葉になまえは自分の目の奥が熱くなるのを感じた。

怖かった。そうだ怖かったのだ。いくらあの隊士が患者だと言っても、複数の男達に怒鳴られ、物を投げられてその挙句怪我をした。この恐怖心を誤魔化す事など出来なかった。


「俺がいる、もう大丈夫だ。誰だろうと君を傷つけさせはしない」

「っ…」


杏寿郎がにこりと優しく笑みを浮かべた。今の今まで恐怖していた心が、彼の言葉を聞くだけで安堵してしまう。なまえは「はい」と静かに返事をすると緩く微笑み返した。


「君ほど器用ではないが、俺に治療させて欲しい」


頼む、と言った彼を拒否することは出来ず。なまえは杏寿郎に向き直ると「それでは、お願い致します」と呟いた。


「まずは消毒だな」

「はい」


慣れない手つきで治療箱を開け清潔な木綿に消毒液液を染み渡らせる。杏寿郎の大きな手で鑷子を持つその姿がなんだか面白くて。なまえはつい頬を緩ませながら彼の所作を見守った。


「染みるぞ」

「はい……っ…ぅ!」


ちょんと木綿が額に当たった瞬間、熱さと痛さを感じてなまえは言葉を詰まらせる。ぎゅっと瞼を閉じ自分の手の甲をつねった。染みる痛みを必死に耐えようとする姿。彼女の手の甲が僅かに赤くなっていた。 


「なまえ、つねるなら俺の腕を掴んでくれ。爪を立てても良い」

「煉獄様に、そのような事はできません…っ」

「俺は君がこれ以上傷を作る方が辛い。言っただろう、誰であろうと君を傷つけさせないと」

「…」

「本当にすまなかった」


そう言って謝り処置を続ける杏寿郎。慣れない手つきで消毒をしてくれる。なまえはふと瞼を開けると自分の手の甲をつねるのをやめた。


「煉獄様は何も悪い事はしておられません」

「後輩の不始末は柱である俺の不始末に他ならない」

「いいえ、私が不甲斐ないからです。私はしのぶ様に留守を任されておきながら、こんな」

「なまえ」


言葉を遮るように杏寿郎が名前を呼んだ。

決してなまえのせいではない。自分を責めるような言葉を使おうとする彼女に黙っていられなかった。


「君は何も悪い事などしていない」


そう言って傷口に薬を塗りガーゼで覆う。幸い傷口はそこまで大きくはなかった。だが小さくとも顔についた傷だ。胡蝶しのぶの塗り薬を持ってしても傷跡は残ってしまうだろう。

杏寿郎はそれがどうしても歯痒かった。女性の顔に傷を残すなど、あってはならない事だ。


「すまない」

「そんな風に謝らないでください。傷は生え際の辺りですし、髪で隠せますよ」

「だが」

「煉獄様は駆けつけてくださったじゃないですか」

「…」

「本当にあっという間に現れて、…泣いてしまうかと思いました」


目の前に彼が現れた時。その背中が見えた時、泣いてしまいそうだった。そして今も彼は自分の傍にいて手当をしてくれている。「もう大丈夫だ」と言ってくれるその言葉がどんなに心強いか。どんなに安堵するか。


「俺は君を好いている」

「…っ」

「何かあったら駆けつけたいものだろう」


当たり前のように言ってのける杏寿郎の言葉になまえの頬が色を持つ。

いつもなら羞恥で逃げ出してしまう彼女も今日ばかりは逃げない。くるりくるり、と包帯を巻き付けて留めると「よし!」と言って手を離した。


「うむ!不恰好だな!すまない!」

「…そんな事はありませんよ」

「落ち着いたら胡蝶診てもらうといい。彼女の処置の方が適切だからな」

「ありがとうございました。…あの、煉獄様」

「何だ?」

「私が口を出すことではないのですが…今回の事は問題にならないでしょうか…」


隊士同士の喧嘩はご法度。

それは隊士ではないなまえでも聞いた事がある言葉だ。喧嘩と呼ぶには難しい今回の出来事でも、もしも杏寿郎が咎められるような事があったらどうしたらいいのか。そう思うと不安が募る。


「大丈夫だ!君が心配するような事は何も無い!」

「え?」

「何せ、ふざけただけだからな!俺は彼等が言う通り戯れてみたに過ぎない!」


溌剌と「しかし君を傷つけた事は別勘定だ!許さん!何より胡蝶も黙ってはいないだろう!」と言った杏寿郎をポカンとしばらく見つめる。

ふざけただけ。そんなめちゃくちゃな言い分があるだろうか。あれだけ勢いよく湯呑みを投げていたのに彼は快活に笑っている。その様が何だか面白く。なまえは「ふふ」と抑えきれない笑みをこぼした。


「ふざけただけ、なんて…煉獄様の言い分は、不思議と道理が通っているようで…ふふふ、本当に面白いですね」


口元に手を添えて、控えめに笑う彼女を見つめる。やっとなまえがいつものように楽しそうに笑んでくれて心底安堵した。


「俺は、君のその溢すような笑顔がたまらなく好きだ」

「…っ」

「すまない、こんな時に。だが君を見ているとどうにも感情を抑えておくことが出来なくてな」

「……はい、知って、おります」

「ん?」

「私も……煉獄様の、そういう真っ直ぐな所が…とても、好き、なので」


好き。

その言葉に杏寿郎は目を見開く。

今にも消えてしまいそうな小さな声だったが、しっかりと杏寿郎の耳に届いた。好きと言ったのだ、彼女が、なまえが自分に向かって。好きとそう言った。

「私っ、しのぶ様の所に」と言って背を向け、立ち上がろうとしたなまえの耳は赤い。杏寿郎はすかさず彼女の腕を掴むと自分の元へと引き寄せる。突然腕を引かれたなまえは体勢を崩し、杏寿郎の足の間へと弱く尻餅をついた。


「あのっ、」


咄嗟に身を離そうとしたが、お腹に回った杏寿郎の腕がそれを許さない。ぐっと力を込めて逃がさないと言わんばかりの拘束に、なまえは両手で顔を覆って俯いた。


「だめです、離してくださ、い…っ」

「無理だ。離したら逃げるのだろう」


杏寿郎が話すとその吐息が首筋に吹き掛かる。密着した身体をどうしても意識してしまった。

ふとなまえの耳を見るとそこは赤く色付いていた。よく見たら耳どころではない。うなじまでもが赤くなっている。きっと顔はもっと赤いのだろう。だから隠しているのか。

ぞくりと震えた。なまえが初めて言った「好き」という言葉に、耳を赤く染める彼女の反応に。気分がとても高揚した。


「そうか、君も俺が好きか、そうか」

「そ、それは…!」

「いつからだ?やはり先日の、俺の求婚を断っていない事に気付いた時だろうか?」

「っ!…ち、ちがッ、ちがいます…!」

「図星か!そうか!」

「私の話しを、聞いてください…!!」

「何故そう逃げようとする」

「離してくれないと、私、…あ、熱くて、血が回って…!」


つまり、恥ずかしさで血の巡りが良くなりせっかく止血した傷口からまた血が滴ると。

なまえの言った理由に杏寿郎は声を上げて笑った。


「よもや!ははは!そうか!君の言い分は道理が通っていて面白い!」

「…〜っ!」


杏寿郎から逃れようと藻掻くなまえを両腕で捉えて、更にはその身体を閉じ込めるように両膝を立てて足で挟む。文字通り、囲うようにして捕らえたのだ。


「もうっ、煉獄さま…!」

「ここで安静にしておくと良い」

「します、からっ…でもここでは、」

「駄目だ。逃がさん。散々待ったのだからな」


恥ずかしがりで、すぐに頬を赤らめる。これから先、そんな彼女をどうやって愛でようか。

四肢で、身体で、己を使って。閉じ込めて逃がさないように。今まで待った分も含め、全てを尽くして。愛でていこう。








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お疲れ様でした。
長くなりすぎたので省きましたが土鍋ひっくり返して湯呑み投げた隊士は彼女の事をデートに誘って三話のようにフラれてます。
つまり腹いせです。最低です。
初めて書いた煉獄さんの短編。皆さんに続きが見たいと言っていただけたことに感謝です。
これにて終幕。


緋衣草(ヒゴロモソウ)
花言葉:燃える思い

2021.07.07



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