結局あの後はファイルとペンケースをしまい、どこか呆然としてしまった私はお風呂から出てきた杏寿郎さんとまともに話しをする事も出来ず。「なまえ?」と心配気にしていた彼から逃げるように早々にベッドの中に入ってしまったのだ。

おまけに全然寝る事が出来なかった。杏寿郎さんに背を向け、浅い眠りを繰り返し、朝方頃にはすっかり目が覚めてしまっていた。ずっと胸が嫌な音を立てていて余計に気分が悪かった。

眠る杏寿郎さんを起こさないようにベッドから抜け出すと、彼の朝食用のおにぎりを握り、書き置きを置いて一人で出てきてしまった。いつもなら彼が泊まりにきた翌日は二人で朝の支度をするのに。書き置きの内容も『朝食よかったらどうぞ。合鍵はポストに入れておいてください』という味気ない内容だ。

こんなメモではどうして私が先に家を出たのか、私が何を思っていたのか彼には少しも伝わらないだろう。


「はあ…」


あまりにも朝早く出過ぎた私は、最寄駅近くのコーヒーショップで時間を潰し、頃合いを見て通勤をしていた。全然寝てないと言うのに少しも眠くなかった。それよりもずっと胸が痛くて、嫌な寒気すら感じていた。

59番の写真。それは昨日、男子生徒が話題にしていたカナエの写真だ。ギャップがあるとか、表情がいいとか、そんな風に言われていた。

カナエの写真を、どうして杏寿郎さんが。

考えると胸が痛くなった。彼の持っていた注文用紙にはその写真の番号しか書かれていなかったから余計に。


「あら?なまえ、おはよう!」

「…カナエ…、おはよう」


突然現れた彼女にドキリと胸が跳ねた。


「ふふ、いい天気ね」

「うん…そうだね」

「あらあら、一人で通勤ということは煉獄先生も間も無く来るのかしら?」

「えっ、…あ、うん、そうだと思う」

「お付き合いを隠してるのって大変だけど何だかロマンチックだわ」

「そ、そうかなぁ…?」


彼女に悟られないように、いつもと変わらないように、にっこり笑って見せたが、カナエは私を見て眉を顰めた。


「なまえ、どうかした?目の下の隈がすごいわ…」

「っ、そう…?」

「そうよ、どうしたの?体調も悪そうだし、寝れていないの?」


心配そうに眉を寄せ私の顔を覗き込んでくるカナエは本当に美人だと思う。顔も小さいし、肌は白くて綺麗。長い黒髪は艶やかで淡い色の瞳は不思議な輝きがあるように思う。「なまえ?」と私の名を呼ぶ心配気な声も透き通っていて綺麗だ。

本当に素敵な私の友人。大好きな友人なのに自分の胸の中がどんよりと重たくなってしまった。


「昨日眠る前にスマホいじり過ぎちゃって…ふぁ、寝不足かも」

「あらあら。それなら今日は早く寝なくちゃ駄目よ?」

「でも今日は金曜だし、明日お休みだから夜更かししたいなぁ」

「だーめ!顔色も良くないんだから、しっかり寝て」


「ね?」と言い聞かせてくる彼女に私は苦笑いをすると「うん、ありがとう」と言って誤魔化すことしか出来なかった。



・・・



お昼休みになり私はすぐに職員室から抜け出した。

今日はとことん避けてしまっている。他でもない杏寿郎さんの事をだ。彼から何度かメッセージが届いた。当たり障りのりない朝の挨拶から、今日の夜の予定を伺うもの、明日は休みだから出掛けようとか。私はそのどれにも返信できていない。

既読をつけて、文字を打とうとしても上手くいかず、結局そのまま閉じてしまっていた。

今もお昼休みなり、彼が私の元に来ようとするのが見えたからまるで逃げるように職員室を出てきてしまったのだ。

いつもならカナエや、他の先生方と談笑しながら過ごすお昼休みだけれど今日はそんな気分にもなれず。何かを食べたい気持ちにもなれず、私の足はフラフラとスクールフォトが掲載されている廊下へと向いていた。校舎三階の廊下、そこに写真が貼られている。


59番の写真を一度見てみよう


そう思ってやって来たのだけれど、心臓がドキドキと音を立てていた。

何百枚とある写真を確認して、壁沿いに歩く。これは250番だからもっと前の方か、と確認しながら行くと番号が段々と若くなって来た。

59番、59番、と探すとその写真がチラリと見えた。


「っ…!」


写真を確認する前に私は顔を逸らした。

ちゃんと確認する必要なんてなかったからだ。チラリと見えた写真にカナエが愛用している髪飾りが映っていたから。見間違うはずがない。

やっぱり59番はカナエの写真だった。

ぎゅうと痛くなる胸を押さえて私はその場を後にする。目の奥も熱くなった。カナエは可愛らしい女性だ。美人だし性格だって非の打ち所がない。そんな見目麗しい女性が近くにいれば、誰だって心惹かれるものだろう。

アイドルや芸能人を好きな人がいるように。綺麗なもの、素敵なものを見ていたいとか、彼にだってそんな感覚があるのかもしれない。でも。


苦しいな、


声にしたら泣いてしまいそうだったから耐えた。ぎゅっと唇を噛む。歩みを止めて廊下の窓辺に寄り掛かり外へと顔を出した。憎たらしい程青空の下で大きく深呼吸をし、そのまま学校の中庭を三階からぼんやりと見下ろした。何も考えることが出来なかった。

生徒達の教室が無いこの場所は人気がなくとても静かだ。ぼんやりとした頭で中庭を眺めると、そこには食事をする生徒達の姿も見えた。

大きく溜息を吐き出した時。


「みょうじ」

「っ、…あ、不死川先生…お疲れ様です」


不意に声を掛けられ顔を向けるとそこにはコンビニの袋を手に持った不死川先生が立っていた。


「お前もここで昼飯かァ?」

「あ、いえ私はたまたま通りかかって…休憩してただけで」

「そうかァ」

「不死川先生ここでお昼ですか?」


そう言えば不死川先生はいつもお昼休みになると職員室から姿を消していたけれど、まさかこんな所で食事をしていたなんて思わなかった。


「ごめんなさい、私お邪魔なら別のところに、」

「気にすんなァ、ここに居たいなら居りゃあいい」


不死川先生は一言そういうと、窓際の縁に軽く腰を掛けコンビニの袋を漁った。

取り留めもない世間話をした。そろそろ試験がありますね、と私が言うと彼は「そうだなァ」と返し。「お前早めにテスト用紙作っとけよ」と忠告までしてくれるものだから苦笑い。


「みょうじお前昼は食ったのかァ?」

「ああ、えと…あまり食欲がなくて」

「そうかよ。無理してぶっ倒れんなよ」

「…不死川先生って、優しいですよね」

「あァ?」


僅かに頬を染め睨みつけてくる彼に私は「ふふっ」と笑ってしまった。不死川先生は生徒にも周りにも、自分に対しても厳しいけれど愛情はある人だと思う。もちろんその愛情は生徒たちに対して。

その時ポケットに入れていたスマホが、ブーッと振動した。何かと思って見るとそこには新着メッセージの通知が。不死川先生の視界に入らないように「すみません、」と前置きをしてからメッセージを開いた。


『俺は君に、何かしてしまったんだろうか』


送り主は杏寿郎さんだった。

「っ」と息が詰まる。返す言葉が見つからず画面を消し俯いた。写真のことを聞くことも出来ず、かと言って感情を取り繕う事も誤魔化す事も出来ない。こんな事が初めてで、どうしたら良いのか分からなかった。


「喧嘩でもしたかァ」


不意に響いた不死川先生の声に私はパッと顔を上げた。


「え…?」

「今日一日避けてんだろ、アイツの事」

「そんな、ことは…」

「何があったか知らねえが、話しはした方が良いんじゃねえかァ」

「…」


言う通り、彼と話すべきだと思う。不死川先生の言う事は正しい。けれど、自分の恋人に「何故カナエの写真を買ったんですか?」等、言うことが出来なかった。


「すみません…」

「謝んな、俺はなんともねェ」

「はい…」


不死川先生は私と杏寿郎さんの関係を知っているけれど、まさか今日私が避けていたことも気付いていたなんて。

再び俯いてしまった私に不死川先生は短く溜息をつき、ガサガサとコンビニの袋を漁る。折角のお昼休みを邪魔してしまったなと申し訳なく感じていると「ほら」と不死川先生が私に紙パックのジュースを差し出した。


「あの、これ」

「何か腹に入れねえと、午後がもたねえだろうがァ」


差し出されたのはフルーツと野菜のミックスジュースだった。渡されたそれを受け取り「ありがとうございます」とお礼を言う。


「お金を、」

「いらねえよ」

「でも不死川先生の分が」

「俺は別の買ってんだよ」


そう言うと別の紙パックのジュースを出し、飲み始める不死川先生。

二本買っていたのだろうか?もしかして最初から私に?聞くことも出来ずじっと不死川先生を見つめると「…なんだよ」と彼は居心地悪そうに顔を顰めた。


「いえ、その…やっぱり不死川先生って、優しいなあと思いまして」

「お前なァ!」

「あ!いえ、か、揶揄ってるとかじゃなくて!感謝してるんですよ、ちゃんと!」


笑ってそう言うと不死川先生は押し黙るけれど「…いらねえなら返せ」と小さな声で悪態をつくので「返しません」と言った。


「…アイツの」

「え?」

「煉獄の野郎のピリついた空気で他が参ってんだよ、生徒も教師もな」


ピリついた?と私が首を傾げると不死川先生は親指で自分の背中側にある中庭を指し「見てみろ」と呟いた。

その指に導かれるように私も窓から中庭を見下ろす。なんだろう、中庭には生徒達がいたはずだけれど、と窓から顔を出した瞬間、目を大きく見開きそして息が詰まった。


「ひッ…!?」

「…お前、その隠れ方はどうなんだァ」


咄嗟にその場にしゃがみ込み、窓辺の壁に身を隠した私。呆れ混じりの不死川先生の声に「だって…!」と返す事しか出来ない。

だって中庭には彼が、杏寿郎さんがいた。おまけにこちらを見ていた。

中庭の杏寿郎さんがいつからそこに居たのか分からないが、彼特有のあの大きな瞳でじっと私と不死川先生を見ていたのだ。下から見上げる彼の目には力があった。距離があっても分かる。


あの目は、怒っている。


ニコリともせず、ただただ無表情でこちらを見る大きな瞳。

そうだ、そうなるはずだ。私は昨日の夜から彼を避け、先程のメッセージに対しても既読を付けながら何も返さずスルーをし。いまは不死川先生と談笑をしていた。

きっと今、野菜ジュースをもらうところも見ていたんだろう。


「キレてんだろ、アイツ。お前何したんだァ」

「わ、私は何も!」

「…まあ早めに何とかしとけよォ」


そう言われてしまっては何も返す事が出来ず。
手の中の紙パックをぎゅっと握った。


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2021.09.18



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