やめて。連れて行ってしまわないで。
お願い、やめて、その人は大切な人なの。
どうか、どうか、連れて行かないで。

やめて、お願い。

返して。



「はっ…ぁッ…!?」


がばっと起き上がると身体中がびっしょりと汗をかいており、心臓の音は信じられないほど速かった。

胸元に手を当て、ゼェゼェと息切れしていた呼吸を必死に整えながらなまえは何度も深呼吸をした。

嫌な夢を見た気がした。何を見たか思い出せない。ただひたすら悲しく、絶望的で、重く暗い。そんな夢だった。最近同じような夢を見ることが多くなった。決まって内容は覚えていないのに、目が覚めた時の自分の身体は酷く汗をかき強張っているのだ。

スマホを手に取る気にもならず時間すら気にならなかった。ドクドクと音を立てる自分の心臓の音に耳を澄ます。それだけで精一杯だった。汗をかいて身体が冷えているはずなのに暑いような感覚。言いようの無い不快感と大きな恐怖心で思わず泣きそうになった時、なまえの隣で就寝していた恋人が身体を起こした。


「、…なまえ?どうした」

「ぁ…杏寿郎、さん…」


思わず嗚咽のように漏れた声。
暗がりの中でも僅かに視界で捉えることが出来る恋人の姿に安堵した。

杏寿郎は身体を起こすと目元を軽く擦りなまえを見た。


「目が覚めてしまったのか?」

「ごめ、…ごめんなさい、うるさくして…」

「謝る必要はない、大丈夫か?」


スッと伸ばされた杏寿郎の手になまえは思わず身を震わせ、まるで手を避けるかのように僅かに身体を引いた。


「なまえ?」

「あの、ごめんなさい、私少し夢見が悪かったみたいで、汗がすごくて…」


避けられてしまった手に視線を落としたあと杏寿郎は再びなまえを見る。大分混乱しているな、と声には出さず思うと「なまえ」と今度は極力優しい声音でその名前を呼んだ。


「近頃そうやって目を覚ましているな」

「…っ、」

「俺には話せないか?」

「いえ……あの、ゆ、夢を見て、…」

「夢?」

「でも思い出せないの…内容も何も…それなのにずっと続いてて、…」


今にも泣いてしまいそうな声を出すなまえに杏寿郎は再度手を伸ばすと腕を掴み自分方へと振り向かせた。


「大丈夫だ、それは夢だ」

「だけど、」

「なまえ」


優しく優しく彼女の名前を呼び、頬を撫でた。「大丈夫だ」再度そう囁くとなまえはようやく落ち着きを取り戻したのか、少し安心したような面持ちで頬を撫でる杏寿郎の指に自分顔を擦り寄せると「ありがとう、杏寿郎さん」と小さく囁いた。


「おいで、寝直そう」

「あ、えと、その前に私着替えてきます…汗がすごくて。先に寝ててください」


パジャマとして使用していたTシャツの首元を軽く引っ張り苦笑いをした。だがベッドから降りようとするなまえを杏寿郎が逃す訳もなく。


「なまえ」

「うん?」

「両手を上げてくれるか?」

「こう?」


言われるがまま両手を軽く上げたなまえ。杏寿郎はにっこりと微笑むと、彼女が身につけていたシャツの裾を掴みそのまま上へと引き上げると、すぽんと音を立てそうな勢いで脱がしてしまった。


「ひゃっ!えっ、なんっ」


ポイと床に放られたシャツ。ナイトブラだけになってしまい布団で必死に身を隠すなまえを他所に杏寿郎も身につけていたシャツを脱ぎ捨てた。そのまま再びベッドへと横たわるとなまえの腕を掴んだ。


「さあ、おいで」

「え、ええ、でも」


ぐいぐいと腕を引かれ抗う間もなく布団へと引き込まれる。片腕をなまえの頭の下へ。もう片方の腕は抱きこむように腰へと回されてしまいなまえは戸惑ったように杏寿郎を見上げた。


「やはり肌同士は心地良いな。それから君は暖かい」


よく眠れそうだ。
などと言って笑う彼を見ていたつられてしまい、なまえも緩やかに笑みを浮かべた。身を寄せて、大きくて分厚い胸元に頬を寄せると目を閉じた。


「音、」

「うん?」

「杏寿郎さんの心臓の音、聞こえる」

「…ああ」


返答と共に額に口付けを落とされる。うとうとし始める意識のなかなまえは一言。


「ありがとう、杏寿郎さん」


そう呟いてまた眠りへと落ちていった。







規則的な寝息を立てるなまえの顔を見つめてようやく安堵した。寄せた肌は暖かいが万が一にも彼女が風邪を引くことがないように布団をかけなおした。


「…」


彼女が見る夢の正体を、なまえが何を見て苦しんでいるのか分かっていた。

なまえはきっと前の俺の最後を夢に見ている。

なまえはあの場にいた。鬼に腹を貫かれ、後輩達に言葉を残し、そうして命を手放した俺の最後の瞬間を繰り返し夢に見ているのだ。

彼女には記憶が無く、だが俺には前の記憶があった。正確にはなまえと恋人になってから徐々に記憶が戻っていったのだ。この事についてなまえと話しをした事はない。彼女が覚えていないのも理由の一つだが、何より今の自分達には不要だと思ったからだ。

繰り返し俺の名を呼び、連れて行かないで、返してと魘される彼女を何度も見た。


「ここにいる」


俺はここにいる。
怖がらなくていい。大丈夫だ。
魘される彼女に何度もそう囁いたが彼女の悪夢は消え去ることがない。俺のせいだ。俺の存在が彼女を苦しめている。彼女の目の前で死んだ前の自分を殴りつけたくなるくらいには後悔している。

もしかしたら、俺と別れたら彼女の悪夢も終わるかもしれないと思いながらも、そんな選択をすることも出来ず。

今夜もなまえが安心して眠ることが出来る様に。彼女の身体を抱きしめた。



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記憶の無い彼女と、記憶の有る彼。

2022.02.10



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