彼女は正義感の強い人間だと思った。

正義感といっても気が強かったり態度や言葉がキツい訳ではない。優しげでいつも穏和な笑みを浮かべて。けれど自分の心に反する事は絶対にしない。周りの意見に流されず自分の見たもの感じたものを信じ守ろうとする。そういう意味で強く、芯の通った人間だと思った。

そして、そんな彼女が自分の恋人である事が素直に嬉しかった。


「そろそろか」


ふと時計を見た。

今日はなまえが会社の飲み会に参加しており帰宅が少し遅い。同棲をしている家は彼女がいないだけで広く、そして寂しく感じる。

新卒の歓迎会だと言っていた。事前に聞いていた時間だともうお開きになっている時間だ。終わったら連絡すると言われていたがまだ連絡はない。場所も時間もわかっているのだから近くまで迎えに行こうと思い上着を取りに行く。


アルコールが弱い子もいるから心配で


前日にそんな事を言っていたのを思い出す。相変わらず面倒見がいいなと思った。彼女自身は酒を飲めない訳ではないが特別強いというわけでもない。適度に嗜んで空気を楽しむ。それがなまえの飲み会の場での楽しみ方らしい。

迎えに行くと言っても店の前まで行ったら同僚達と鉢合わせてきっと恥ずかしがってしまうから、行くのは最寄りの駅まで。

家の鍵をポケットに入れスマホを再度手に取った時ブーッと震えた。表示されたのはなまえの名前。ふっと笑みが溢れ応答のボタンをタップすると耳に当てた。


「もしもし。なまえ。終わったのか、丁度迎えに行こうと家を出る所だ」

『あっ、良かった…!あの、や、夜分にすみません…!」


男の声だった。

それだけでスマホを持つ自分の手に力が入るのが分かった。誰だ、何故なまえの携帯を、と途端に気が焦れこむ。


「誰だ、君は。何故彼女の携帯を持っている」

『えっと、すみません…!俺竈門と言います!みょうじさんと同じ会社に新卒で入社した竈門炭治郎です…!』

「君の名前は分かった。なまえは何処に」


そこまで言いかけて言葉が途切れる。原因は電話の向こうの竈門炭治郎と名乗った少年が『わっ!みょうじさん!大丈夫ですか!』と声を上げたからだ。


『みょうじさん!恋人の方に電話が繋がりましたよ!大丈夫ですか!?気分悪くないですか、あっ!さっき買った水はまだありますか!?えっと、何処か座りましょう、俺の肩に捕まってください…!』


なまえの声は聞こえない。だが彼の口ぶりだと彼女は傍に居り、電話に出れないほど酩酊している様だという事だ。事態に対し困惑する俺に竈門という彼は『すみません…!』と謝罪した。


『最寄りの駅までは着いているのですが、そこから家が分からなくて…!』

「……改札を出たら近くにスーパーの看板は見えるだろうか?そのスーパーの前に小さな公園とベンチがある。そこまで来てくれるか、事情はその時に聞く」

『はっ、はい!分かりました!』

「一回切るぞ」

『はいっ』


返答を聞いてから通話終了ボタンを押す。モヤモヤとした歯痒い気持ちを押し込むように玄関へと足を向けると直様家を飛び出した。

なまえを疑ってる訳ではない。だが彼女の電話を別の男がいじっていた事と、深酒などしない彼女が電話も出来ない状況で、更には他所の人間に肩を借りなければ歩けないほど酩酊している事実がどうしても釈然としなかった。

いつもの道を一気に走り抜けて、先程電話で指示した公園に到着する。少しだけ呼吸が乱れたが数回深呼吸をしたらすぐに治った。公園の奥にあるベンチに人影が二つ。一つはなまえだった。もう一つは電話の彼だろう。なまえの隣に腰掛け「大丈夫ですか?」と仕切りに声掛けをし、彼女の身体が傾くと倒れる事が無いように必死に支えている状態だった。

一歩足を踏み出すと公園の砂がジャリと音を立てる。その音に気付いた竈門と名乗った彼が顔をこちらへと向けた。


「あっ!」


彼は咄嗟に立ち上がったが、なまえの身体がゆらゆらと揺れたためすぐに身体を支えると、何とも言えない顔でなまえと俺を交互に見返した。


「みょうじさん、お迎え来てくれましたよ。大丈夫ですか?」


そう声をかける彼となまえの前に立つと、彼は俺に向かって深く頭を下げて電話でも言っていたように「すみません…!」と謝罪をした。


「先程電話をくれたのは君か」

「はいっ、竈門炭治郎です…!」

「そうか」


相槌を一つ返すとなまえの前に膝をついた。下から覗き込むように彼女顔を見る。頬が酷く赤みを帯びていて瞳がふわふわと宙に浮いたような、朦朧とした色をしている。


「なまえ、俺だ分かるか」


ぽんぽんと膝を軽く叩き、優しく呼びかけるとピクリとなまえの身体が反応した。ぱちぱちと数回瞬きを繰り返してから俺の顔を見るとようやく気付いたのか、嬉しそうに安心したように、今にも溶けてしまいそうな笑みを浮かべた。

手に持っていた水の入ったペットボトルを離すと何も言わず俺の手を両手でぎゅうと握った。

言葉もなく、にこにこ微笑む彼女からは強い酒の匂いがした。


「……何があったんだ」

「すみません、全部俺のせいなんです…っ」

「順を追って説明してくれるか」

「は、はいっ。今日飲み会があったことはご存知だと思うんですが、その新卒歓迎会で新人なんだからもっと飲むようにって先輩方から煽られまして…」


視線はなまえに向けたまま彼の話しを聞く。こんなにも酩酊したなまえは初めて見た。とろんと瞼が下がったかと思ったらぱちりと開いて俺を見る。今度は不思議そうに首を傾げて、重心の定まらない身体を揺らし、それからまた嬉しそうに微笑む。その繰り返しだ。


「俺アルコールほとんど飲めなくて…その事をみょうじさんに伝えていたんです。先輩だからって気にかけて頂いて…」


ああそうか、なまえが言っていたアルコールが弱い子というのは彼の事だったのかと納得した。


「でも飲み会の場で弱いと言ったら面白がられて…もっと飲むように煽られてしまって」

「そうなるだろうな」

「そしたら、俺に気付いたみょうじさんが隣に来てくれたんです」


竈門君に飲ませる前に、先に私と一緒に飲んでください


「空気は壊さないように、にこにこ笑ってて…そこから俺に注がれる酒を全部代わって飲んでくれて」

「…なるほど」

「申し訳なくて、俺も飲もうとしたんですが、それも全部みょうじさんが…」


駄目ですよ、私を潰してからでないと…竈門君には飲まさせませんから


「飲み会が終わる頃にはみょうじさんふらふらで…一人で帰らせる事も出来ませんし…何とか最寄り駅を聞いて…」

「…経緯は理解した」

「すみませんっ、俺のせいです…!」


何度目かわからない謝罪。深く頭を下げる彼は不誠実な人間では無かったようで心底安心した。酩酊した彼女を送ると買って出てくれた事。新卒の歓迎会ならこの後も二次会があっただろう。それを先輩の、しかも女性を送るなど今後揶揄われる可能性だってある。

そういった事を全て投げ捨てて、なまえを連れて帰ってきてくれたのだ。

もしも彼では無かったら、どうなっていた事か。


「何にせよ、君のお陰で彼女は無事だ」

「でも、元は俺のせいでっ」

「そのまま放置されなくてよかった。なまえが危険な目に遭わなくて済んだんだ、ありがとう」


そう言うと、彼はじわと目元を赤くさせて顔を俯けた。その仕草は自分の事を恥じているように見えた。

もう一度なまえを見る。顔を真っ赤にして今は静かに目を閉じてしまっている。あまり酒を飲まない彼女が、きっと頑張ったのだろう。頬を撫でてやりたくなったが、流石に彼女の後輩の前でそれは出来ず耐えた。


「だから君が俺に連絡をしたのか」

「ああ、それはみょうじさんが仕切りに『杏寿郎さんに電話しないと』と言っていたので、家族ですか?迎えに来てくれる方ですか?と聞いたら、」


大好きな、人なのよ、とっても、とっても……


「ああ恋人の方なんだなと察して、携帯をお借りしてご連絡を…」

「……」


ふうと大きく溜息をつく。

最初、彼から電話を貰った時は彼女の携帯から何故、一体何をしたのかと疑い、少々苛立ってしまった事が情けなく思う。事情を聞けば溜飲は下げることが出来たし、何より酔ったなまえがそんな事を口走るとは。


「社会に出るとそういう飲ませ方をさせる人間が多い。そんな方法でしかコミュニケーションを測れないのだろう」

「はい…」

「今日の自分が不甲斐ないと思うならこれから少しずつ上手いかわし方を身に付ければいい。なまえは優しいから君を放っておかないだろうがな」

「…」

「また同じ状況になるのかは、君次第だ」


さて。と区切りを付けるとなまえを背負う為、しゃがんだまま背中を向けた。


「少年、手伝ってくれるか」

「は、はい…!」


二人がかりで何とか酩酊状態のなまえを背に乗せると立ち上がる。「あの、吐いてしまったりしませんか?」と不安そうにした彼に「その時はその時だ」と笑って返す。

なまえなら背中で粗相をしようが構わない。勿論そうならないように揺らさないように歩くが。


「もう時間も遅い。君もすぐに帰るといい」

「はい…俺は少し休憩してから帰ります」

「ではここで、」


そう言いかけた時、背中のなまえが呂律の弱い声音で「かまど、くん」と彼の名前を呼んだ。突然呼ばれた彼はピンと背筋を正すと「何ですか?」となまえへと少し顔を近付ける。

うむ少々顔が近いぞ少年、とは思うが今は言及しないでやる事にした。


「みょうじさん、もう家に帰れますからね」

「かまどくん、大丈夫?」

「えっ」

「お酒、のんでない…?」

「お、俺は大丈夫ですよ…っ」

「そう…よかっ、た」


不意に伸びたなまえの手が彼の頭の上に乗った。

声音だけでも今なまえがどんな顔で微笑んでいたのか分かる。彼女は本当に彼を案じていたのだろう。数回ぽふぽふと頭を撫で満足したのかなまえの手が再び俺の背に乗った。


「…っ」


なまえに頭を撫でられ、頬を赤らめた彼。
……まあそうなるだろうとは思ったが。
等と落ち着いて思うことが出来たのは、竈門炭治郎という彼が誠実な人間だったからに他ならない。


「君も気をつけて帰りなさい』


それだけ言うと公園を後にした。



・・・



ゆっくり、ゆっくりと歩く帰り道。
いつもなら十分ほどで辿り着いてしまう道を倍以上の時間をかけて歩いた。今のところ心配した粗相はなく、背中に乗せた彼女は安心したように眠っているようだった。

公平性を持ち芯の強さのある人だと思っていたがまさかこんな無茶をするとは思わなかった。


「俺の予想を超える事をするなあ、君は」


笑い混じりにそう囁く。きっと明日、彼女は二日酔いで辛いだろう。そう思うと可哀想に思えてならないが。幸いにも休日だから明日はつきっきりで診る事にしよう。


「ん、んんっ…」

「なまえ、目が覚めたのか?」

「お、お会計、しないと…」

「もう帰り道だ。その心配はしなくていい」

「それから、杏寿郎さんに…連絡しないと、いけなくて…」

「俺ならここにいる」

「携帯…どこ、…杏寿郎さんに、お会計をして、」


ああ、だいぶ酔っている。

整合性のない単語と、呂律の弱い声音。きっと今夜の事なんてほとんど覚えていないだろう。先程、少年の頭を撫でたのも酔った上での行為で彼女の記憶には存在していないのだろう。残念だったな少年。


「気分は悪くないか?」

「うーん、…うん?…うん、うん?」

「どっちだ」


ははは、と笑って言うとなまえも酒のせいかそれとも本当に面白いのか「ふふふっ」と笑った。


「杏寿ろ、さんに話したいことがあるんれす…」

「大分呂律が回っていないが話せるのか?」

「ふふ、わたし、今日がんばったんですよ、って…言って誉めてもらうんです」


後輩をちゃんと守ったんですよ、って。
そう言ってなまえはふにゃふにゃと言葉にならない声を発し、また「ふふ」と笑った。


「ああ、頑張ったな。よく頑張った」

「はい…」

「少し頑張りすぎではあるがな。君は俺の大切な人なんだから身体を張りすぎるのはやめて欲しいとは思う……だが、凄いななまえは」

「ふふっ、だから、杏寿郎さんに話さないと、いけなくて」

「大丈夫だ、聞いていた」

「嬉しいなあ」


そう言うと子供がするように足をぷらぷらと揺らすなまえは可愛いらしいが普段なら絶対にしない行動に酒の深さを知る。しばらくそうしていた後「お会計しなきゃ…それからフルーツオレと……」とよく分からない事を言ってまた眠りについたようだった。フルーツオレは飲みたいのかは分からないが、明日なまえの目が覚める前に買ってこようと決めた。

背中に感じる温かさと重みに口元が緩む。自分の恋人がそういう性格の人間であることを嬉しく思う。弱い人を放り出さないところが彼女の強さだ。そこが愛おしいと思う。

だがまあ、しかしながら。危なかっしいというのもあるが、


「…他の男を惹きつけてしまうのは困り物だな」


苦笑い混じりに呟いた言葉に肝心のなまえからは返答がなく。今日のところはまあいいか、と笑みを浮かべながら息を吐き出した。









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この日以降彼女の口から「竈門くん」という単語が出る度に過剰反応するようになる彼氏。

2022.04.14



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