少し遠い地で任務だから遅くなってしまうかもしれないが、それでも夕刻頃には戻る事が出来るだろう。約束だ。
そう言って出た杏寿郎を見送って早数日。
任務がある事は百も承知しているが五月十日に屋敷に立ち寄って欲しいと願ったのはなまえだった。柱である夫に無理な事を願っている自覚はあった。それでも、夫が生まれた日には少しで良いから会いたいと願ったのだ。
一切我儘を言わない妻からの珍しい申し出。杏寿郎は少し驚いたが頷き前述のように告げて屋敷を出ていったのだ。
「…」
なまえは玄関を出ると高く昇った月を見上げた。
夕刻の時間は既に通り過ぎており間も無く日を跨ぐ時間である。月も間も無く真上にやってくるだろう。寂しげに視線を落とすと、きゅっ、と寝巻きの上に着ていた羽織りを掴んだ。
きっとこちらに向かう最中に何かあったに違いない。それこそ鬼と遭遇してしまったのかもしれない。
元から夫には無理を言ってしまっていたのだ。この事態も想定はしていた。仕方がない。鬼狩りの柱の座に就く男の妻になるというのはこう言う事なんだと分かっていたつもりだ。理解している。心得ている。
けれど、
「……?」
不意に聞こえたバサっと羽根の飛翔する音。なまえはそっと顔を上げた。
「…か、要…さま…?」
そこには月明かりを反射させて濡羽色の羽根を輝かせた杏寿郎の鎹鴉がいた。
要がいると言うことは、
「杏寿郎様がお近くにいらっしゃるのですか…!」
要は何も言わず、バサバサと己の羽根を動かす。それはまるでなまえを急かすような行為に見えた。なまえはハッと我にかえると要を追うように走り出す。
寝巻きで、足元はつっかけを履いただけ。もつれそうになる足を必死に動かした。近隣は既に寝静まっており響くのはなまえの走る音と要の羽根の音だけだ。手持ち提灯を用意する時間もなく、月明かりだけの道は鬼殺隊ではないなまえにとって酷く暗く、同時に怖いものだった。
「杏寿郎、様…!」
しかし、そんな恐れを越えるのは杏寿郎への想い。
会いたい、会いたい、と。ただそれだけを想って夜の暗がりの中を駆けた。こんなに走る事は滅多にない。つっかけが皮膚を擦り靴擦れを起こす。町を抜けて田畑の一本道に出ると一層視界が暗くなる。もう一度視線を上げて要を探す。姿はほとんど見えないがバサっと羽根の音が聞こえた。音の方へ、ズキズキと痛む足に構わず進む。
肺が痛みを覚えた。たったこれだけの距離を駆けただけで自分の息は上がってしまうのに。夫の凄さを改めて思い知った。
「はっ、…は…要、さま…」
要の場所を確認しようと足は動かしたまま再び顔を上げた。それが良くなかった。つっかけに慣れない夜道、走って痛んだ足は簡単にもつれてしまった。
「あ…ッ…!」
受け身も取れないなまえは身を硬くさせる。
その瞬間、地響きが聞こえたかと思ったのも束の間。なまえの身体に回った二本の腕が見事に彼女の身体を抱きとめ、ぐっと持ち上げたのだ。
突然の浮遊感に目を見開くと腕の主を見返した。
「きょ、杏寿郎…さま…っ」
「なまえ!無事か!」
「ッ…」
ぶわっと涙が込み上げるのを感じなまえはキュっと唇を噛むと杏寿郎の首元へ夢中で抱きついた。
「杏寿郎様…っ、杏寿郎様…!」
「こんな所まで走って来たのか…!」
妻の身体を抱くと、その体が酷く熱くなっており更に息が上がっている事に気付いた。両腕で抱き上げ直すとなまえの履いていたつっかけがカランカランと音を立てて落ちる。足が赤みを帯び所々皮が捲れてしまっている事にようやく気付いた。
「なまえ、足が」
「そんな、事は…足は、ど、どうでも良いのです…杏寿郎さま…っ」
ぜえぜえと息切らして、杏寿郎に頬擦りする様にしがみ付く妻の姿に思わず目を見開いた。妻は、なまえはいつも聞き分けがよく、言ってしまえば従順な女性だった。そんな彼女が杏寿郎の言葉を遮り、自分の足の怪我などどうでも良いと言ってのけ、更には恥じる事もなく杏寿郎にひしと抱き付いたのだ。
まだ息が切れたままのなまえ。杏寿郎は彼女を抱えた腕に力を入れると、ぎゅっと抱きしめ返す。
「月…、」
「月?」
「杏寿郎様っ、月は…っ…月はまだ昇り切っておりませんか…?」
必死な声に杏寿郎はふと上を見上げ位置を確認した。
「…大丈夫だ、なまえ。まだ昇り切っていない」
「良かった…!」
泣きそうな声で心底安心したように呟くとなまえは抱きついていた腕を少し緩め杏寿郎と目を合わせた。
「杏寿郎様、お誕生日おめでとうございます」
「…!」
そう言うとまだ息の整わないなまえは走って上気した頬のまま嬉しそうに、にこりと微笑んで見せた。
「私は貴方様が生きていて下さる事が何よりも嬉しいのです。私と出会って下さった事、私を娶って下さった事、全てに感謝しております。どうか、これから先も私の旦那様でいて下さいませ」
「…」
「すみません、どうしても今日お伝えをしたくて、屋敷に立ち寄ってほしい等と我儘を言ってしまいました」
その瞬間、杏寿郎は反射的になまえを自分の胸元に引き寄せる大きく深呼吸をした。言いようの無い幸福感が胸の内に溢れてしまい、言葉すら出なくなってしまったのだ。
「なまえ」
「はい、」
「なまえ」
「はい。ふふ、聞こえておりますよ」
「なまえ、俺は君が大切で愛おしくて仕方がない」
「っ……はい」
絞り出すようにそう言うとなまえのこめかみに唇を落とす。くすぐったそうに、そして恥ずかしそうになまえが杏寿郎をチラリと見ると、目が合った。
先程まで夜の闇の中でほとんど見えなかった筈の視界が妙に鮮明で、杏寿郎の事がしっかりと見えたのだ。
杏寿郎様、となまえが呼ぼうとした言葉を飲み込むように杏寿郎はたまらず妻の唇を食んだ。
「んん、っ」
「…なまえ、」
「…っ…は、ぃ…ふっ、ぅ…ん」
少し唇を離し名前を呼べばなまえはすぐに答えようとする。しかし返事もままならぬ間に再び口付けを落としてしまう。杏寿郎の肩に乗っていたなまえの手がぎゅっと羽織りを掴むのが分かった。
そうでなくとも息を切らしていたというのに、呼吸も出来ない程口を吸ってしまっては酸素が足りなくなってしまう。名残惜しそうに唇を離すと杏寿郎は腕の中のなまえを見つめ小さな声で呟いた。
「不甲斐ない夫ですまない」
「え…」
「夕刻までに帰ると約束しておきながら、たったそれだけの約束を守る事も出来ず君を暗闇の中で走らせてしまった」
「そんな事、」
「そんな事では無いんだ。なまえ、君は俺にとって自分よりも大切な人だ。怪我の一つでも俺は自分を許せない程に」
「……それを言うなら私も不甲斐ない妻です」
「君の何処が、」
「柱である杏寿郎様に帰って来て欲しい等と我儘を言って…本当ならこの時間は隊士の皆様にとって大切な時間だというのに、私が…っ」
うるっと涙を滲ませたなまえに杏寿郎は焦り「違う!」と口を開いた。折角日を跨ぐ前に会うことが出来て、祝いの言葉を述べる事が出来たというのに。自分が悪い、自分が悪いとお互いに言い合って収拾がつかない事になりそうだった。
しかし次の瞬間それまで黙って事の流れを見守っていた要が杏寿郎の肩に降りた。
「要?……どうし、…ぐあっ!?」
「きょ、杏寿郎様!…きゃっ!?」
少々むすっとした顔で肩に降りたかと思えば杏寿郎の頬に頭突きを入れ、次に涙を滲ませていたなまえの目元に羽根をバサバサと乱暴に当てたのだ。
「…」
「…」
夫婦揃って要を見つめたままパチクリと目を瞬かせ沈黙。
そうしてお互い目を合わせると杏寿郎は「くっ!」と喉を鳴らしなまえは「ふふっ」と笑むと二人同時に噴き出したのだ。
「はははっ、要に怒られてしまったな!」
「はいっ。要様せっかく導いて下さったのに、ふふ」
「それでお互い言い合ってしまっては要も報われないな!すまなかった要、この話はもう終いにする!」
二人が笑い出しようやく満足したのかフムと少し嘴を上にあげると杏寿郎の肩から飛び立つ。
「帰ろうなまえ」
「はい」
「帰ったらまずは君の足を手当てしよう」
「それくらいでしたら自分でやりますので杏寿郎様は、」
「いいや、俺にやらせてくれ。俺が手当てをしたいんだ」
「…はい、」
きゅうと首元に手を回すと杏寿郎はなまえを抱え直して歩き出す。彼女が落としてしまったつっかけは要が拾い上げると上空へとそのまま飛翔してしまった。
「杏寿郎様、私に何かして欲しい事や、欲しい物はございませんか?」
「欲しい物?」
「はい。お誕生日の贈り物です。何か贈らせて下さいませ」
「ふむ」
きらきらとした目で杏寿郎を見つめるなまえ。
何かあるだろうかと考えたが、すぐに考えるのはやめた。
「いいや」
「え?」
「もう欲しい者も、欲しかった言葉も手に入ってしまった。だから大丈夫だ」
一番愛おしい人からの祝いの言葉。そしてその愛しい人は自分の腕の中にいてくれる。これだけでもう充分すぎる程に満たされているのだ。
そう心の中で納得するとなまえを抱く力に一層力を込め、二人の家へと続く道を歩くのだった。
煉獄杏寿郎生誕祭2022
杏寿郎様は柱ですし、無理は百も承知なんです。
私の我儘だと言うのも分かってはいるのです。
それでも、どうしたって一番大切な方の特別な日は、その日にお祝いをしたいじゃありませんか。
たった一日。この日だけで良いのです。この特別な日に杏寿郎様に直接お祝いをお伝えする事が出来るのであれば、私は一年我儘を言いません。
ですからどうか、杏寿郎様と会う事が出来るようにお祈りをさせてください。
……ふふ、この事は杏寿郎様には内緒にしておいて下さいね、要様
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今年もお誕生日おめでとうございます。
一番幸せになって欲しい人。
一番笑顔でいて欲しい人。
そんな貴方へ要さんから渾身の頭突き。
(頭突きさせたかった)
2022.05.10