鬼が居なくなった世界で当たり前のように生きている。
前世と呼ばれる記憶は気付いたら持っていて、大昔の自分が炎柱として鬼殺隊に属していた事や沢山の仲間達と過ごしていた事も同時に覚えていた。

そして前世の自分は鬼に腹を貫かれ絶命した事も思い出した。

この時代には鬼はいない。夜に怯える事もなく、人は当たり前のように月の下を歩くことが出来る。幸福な時代に産まれることが出来て、父や母や弟とまた家族として再会することが出来て幸福だと思う。

とても幸せな時代で生きている。


「煉獄先生さようならー!」

「ああ!気をつけて帰りなさい!」


生徒達を見送り一息。

昔は当たり前だった日輪刀は腰には無く、学園で教師として教壇に立つ仕事をしている。これが新しい日常だ。

気付いたら昔からよく見知った者達が周囲にいた。同じ教師達は勿論、生徒にも見覚えのある者が多い。前世の事を頻繁に話す事はないが、それぞれ記憶は持っているようで当然のように慕ってくれる生徒達や、気心知れた同僚達と過ごしている。


「煉獄、携帯がずっと鳴っていた。恐らくお前のだろう」


職員室に入ると伊黒にそう声を掛けられた。
教壇に立っている時は携帯は持ち歩いておらず、カバンの中にしまっていたのだが。しまうのを忘れ机に置きっぱなしとなっていたそれを手に取る。

着信履歴を見て思わず顔を綻ばせた。


「おっ、何だよ煉獄の女か?」

「その失礼な名称はやめてくれないか、宇髄」

「お前の彼女なんだろ?じゃあ煉獄の女じゃねえか」


揶揄うようにそう言う宇髄を「宇髄先生、揶揄うのは良くないわ」と胡蝶先生が窘める。二人から距離を置きなまえに連絡をしようと俺はそっと職員室を出た。


なまえという女性とは、この時代で初めて出会った相手だった。

あの時代には居なかった存在。鬼殺隊にも隠にも所属しておらず俺だけでなく誰の記憶にも存在しない。この時代で掴んだ新たな縁。


出会ったのは半年前のこと。


その時、仕事から帰宅している最中だった俺は家族からの着信があり携帯を手に取り、なまえはと言うと買ったばかりのアイスカフェラテを手に店を出て、もう片方の手に持っていた携帯を鞄にしまおうと余所見をしていた。

お互い他に気を取られていたのだ。どん、とぶつかるのは当然のこと。

俺の方が体格が良かったせいで彼女の身体は最も容易く傾き、その場に尻餅をつかせてしまった。それどころではない。彼女が手に持っていたアイスカフェラテが

ばしゃ

と音を立てて彼女に掛かってしまったのだ。それも少しではない。カップ丸ごと一つ分だ。

パチパチと瞬きをしキョトンとしたまま俺を見上げた彼女に顔面蒼白。


「ッ、申し訳ない!!」


声を張り上げてすぐさま膝をつくと、カバンに入っていたタオルとティッシュを取り出した。


「綺麗なので使ってください!」

「あ、いえ、私こそ余所見してて…!」

「いえ俺の方こそ!本当にすまない事をしてしまった!」


カップ一杯分ひっくり返ったせいで彼女が着ていたベージュ色のブラウスは茶色く染みており、向日葵のような黄色のスカートにまでその染みは及んでいた。

お互いに申し訳ないと謝り合って、彼女もカバンから自分のタオルを取り出すとぽんぽんと服を拭く。


「クリーニング代をッ、洋服も弁償させてほしい!」

「私も余所見してしまっていましたし、あなたのせいじゃありません。それに、そんなに大した服じゃないので気にしないでください」

「しかし、」


申し訳なさで落ち込む俺を見て彼女はニコリと微笑んだ。


「良かったです、私で」

「え?」

「ふふ、あなたに掛からなくて、私だけで良かったと思いまして」


「ほら被害は小さい方が良いでしょう?」と。何の含みも嫌味もなく、穏やかに微笑んだ彼女にぶわっと身体中が反応した。学生の時に経験した色恋とは比べられない衝撃。

たった一瞬。まだ出会って数分だと言うのに、この一瞬で恋をしたと自覚した。落ちたと実感したのだ。

服を駄目にされたのに、そんな風に言えてしまう人柄が好きだ、微笑むと優しげな顔が好きだと、そう思ってしまったら止める事など出来なくて。この人はどんな人なんだろうか、彼女は他にどんな表情を見せてくれるのか。知りたい、見せてほしい。次々と溢れ出すのは彼女に対する興味。

「気にしないでくださいね」と帰ろうとする彼女を必死に引き止めて、弁償したいことを伝え、汚れた彼女を一人で歩かせる訳には行かないからせめて近くまで送っていきたい事を伝えた。


「ふふ、ではお手数お掛けしますが、お願いします」

「はい!勿論!」


あまりにも俺が必死だったからだろう。彼女は眉を下げて微笑むと送る事を良しとしてくれた。弁償をするという約束を元に連絡先を交わし、休日に彼女を誘い出し、そこからはひたすらアプローチ。俺にも興味を持って欲しい、こちらに振り向いて欲しい。
自分がここまで恋に前向きになれる事に驚いた。


驚くくらい世界が輝いて見えたんだ。


そうして知り合って三ヶ月後に晴れて恋人となった。
「いや三ヶ月は早いだろ」と同僚に言われた事もあったが、本当にそれだけ必死だったのだ。ほぼ玉砕覚悟の告白をした時、なまえは顔を真っ赤にしてコクコクと二回頷いてくれた。


「アプローチして貰えてるのは気付いてましたよ。丁寧で紳士的で、そういう貴方のことを私ももっと知りたいと思ったので、なのでよろしくお願いします」


私でよければ、ですけど。
と、照れくさそうにはにかんだ彼女に感じたのは圧倒的な幸福感。

それから三ヶ月。始まりの速さとは反対に、恋人となった後はゆっくりとしたペースでお互いの事を知っていき、毎日連絡を取り合い、休日には二人で出掛けている。



「なまえか?珍しいなこんな時間に君から電話なんて」

『突然電話してごめんなさい…!杏寿郎さん、いま大丈夫です?』

「ああ。どうしたんだ」


職員室を出て誰もいない裏庭に行くと校舎に背を付きよりかかる。なまえの声が耳に響いて心地よく、つい顔が緩む。こうやって顔に出てしまうから俺は宇髄に揶揄われるのだろう。


『この前杏寿郎さんが働いてる学校の事を話してくれたじゃないですか』


彼女にこの前初めて勤務先のことを話した。
最初から教師である事は伝えていたが、どの学校で働いているかまでは話しておらず、先週末の休日に二人で出掛けた時たまたま話しをしたのだ。


「それがどうかしたのか?」

『今来てるんです、学校の前に』

「な、…今、来ているのか?」


予想もしていなかった言葉に校舎に付けていた背を離すと正門の方を振り返る。


『そうなんです、ちょっと手続きを任されてしまって…これってこのまま正門から中に入っても良いんでしょうか?それとも何処か別の入り口から、』

「すぐに行く!」


なまえの言葉を遮ると彼女が電話の向こうで『えっ、でも』と戸惑うのにも返答せず直ぐに走り出す。

まさかなまえが来るとは。新鮮な気持ちになる。この学園は同僚や生徒を含め、前の記憶から存在している者が多いからこそ。なまえという全く初めての存在が慣れ親しんだ者達の中にいるのを想像すると不思議な感覚になった。

生徒達の隙間を走り抜け、運動部の横も駆け抜けていくと門の直ぐそばに風に揺れるスカートが見えた。


「なまえ!」

「あっ、」


顔を上げると目が合って、それからなまえは嬉しそうに微笑んだ。


「ごめんなさい、まだお仕事中なのに」

「いや!もう帰るだけだったから気にしないでくれ!」

「何だか緊張してしまって。良かった杏寿郎さんに会えて」


いつものようににこにこと笑みを見せるなまえに俺も返すように笑む。下校していく生徒達の視線が少々痛くもあるが、まあそれは仕方が……「もしかして先生の彼女かな?」「まじ!?」「いがーい!清楚系!」「やば!恋するんだ!先生って!」うむ。聞こえているぞ生徒達。先生だって恋はする。なまえにした。

しかしながら流石に注目を浴び過ぎている。


「手続きがあると言っていたな、どうしたんだ?」

「あ、そうなんです。手続きと言っても勿論私のじゃなくて、私の親戚と言うか…昔馴染みというべきか…?」

「ふむ?」


うーん?と眉を寄せて悩むなまえは愛らしい。
そんな彼女の手の中にある封筒が恐らく手続きに必要なものなんだろう。


「なんの手続きなんだ?」

「あの、編入届けなんですけど、」


編入?

と思わず聞き返そうとした時、俺の背後から「お姉さん!」と声がかかり反射的に振り返った。


「素山少女…?」

「あっ、煉獄先生こんにちは…!」


礼儀正しく頭を下げる彼女はうちの生徒の一人だ。そして後ろには、いつも一緒にいる彼もいた。


「素山少年」


名前を呼ぶとペコリと頭を下げ、彼はすぐに素山少女に寄り添った。

俺の中に彼の記憶は勿論あった。
忘れる訳がない記憶だ。入学式で初めて出会った時は全身の毛が逆立つような感覚がした。それだけ彼に対して警戒をした。

しかし蓋を開けてみれば品行方正。礼儀も正しく、生活態度も問題無し。素山少女の事となると少々余裕が無くなるなる部分もあるが、二人の関係を思えば仕方ないとも言える。

いやしかし、


「恋雪、狛治くん!」


なまえがパッと声を上げて笑みを見せる。


「お姉さん、どうしたの急に学校に来るなんて…!」

「あら…二人はてっきり知ってると思ったんだけど…?連絡来てない?」

「何のこと?」


キョトンと首を傾げ合うなまえと素山少女はどこか似ていた。面立ちではない。雰囲気がよく似通っているように思えた。


「この前いきなり連絡が来たんだけど二人にはきてない?それで慶蔵さんから編入の手続きをお願いされていたんだけど…


猗 窩 座 の」



時が止まったように感じた。
聞き間違いかと思った。

いまなまえの口から聞こえた名前はあまりにも聞き覚えのある物で。俺の口からは情けなく「は…?」という嗚咽にも近い声が漏れた。

素山少年を見る。彼は「アイツ…また義姉さんにだけ連絡を入れたんですか」と言い少し表情を険しくさせる。

猗窩座は、君だろう。と声にしかけたが押し黙った。いやそれほどに頭が混乱していた。なら目の前にいるこの少年は誰だ。素山狛治という少年が猗窩座では無いのなら。


「…!」


その時、全速力でこちらに向かってくる人影が一つ視界の端に映った。


「なまえッ」

「恋雪さん…!」


俺がなまえの肩を抱き寄せたのと、素山少年が少女の腕を引き人影から回避させたのがほぼ同時。

目的を失った人影はズザザと音を立て地面を削ると砂埃を上げその場現れた。


「何だ反応が良いな」


声を聞いた瞬間ぞわっと身体中が反応する。素山少年の時とは比にならない程の悪寒。傷跡なんて無いはずの腹が痛むような、疼くような気がした。

ぱっ、ぱっ、と砂埃を叩き立ち上がる姿に身震いしそうになるのを抑える。なまえの肩を抱いていた腕に力が入った。彼女の事を気遣ってやりたいがそれが出来る程の余裕が今の自分にはなかった。


「猗窩座ッ!どうしてお前は周りを見て行動しないんだ!」

「…狛治か。良いだろう別に。恋雪に怪我は無かったんだ。それに俺は恋雪に怪我させる様なヘマはしない」

「そういう話じゃない!編入の事も話していないだろう!」

「言う必要が無いと判断した」

「猗窩座!」


素山少女の身体を支えながら食ってかかる少年に対し、赤毛の猗窩座と呼ばれた男は煩わしそうに面倒臭そうに顔を歪める。二人の容姿はそっくりだった。似通っている等という範疇を超えている。瓜二つだった。「狛治さん私は大丈夫ですから」と少女が必死に宥めるのが聞こえるが、俺の目は突然現れた猗窩座から逸らす事が出来なかった。


「それになまえの方も怪我は、…」


なまえと彼女の名前を当たり前の様に呼び、こちらを振り返った猗窩座と目が合う。その瞬間過去の記憶が一気に頭を駆け巡った。

俺はこの男に腹を破られ、首を落とす事が叶わず、そうして絶命した。

まるで昨日の事の様に蘇った記憶に身体が反応を示す。心臓が悪い意味で強く音を立て、呼吸が浅くなった。猗窩座の動きを何一つ見落とす事が無いように、目に力を込めた時、


「お前、まさか杏寿郎か……間違いない、杏寿郎だろう!」

「なっ」


嬉々として、顔を綻ばせる猗窩座に思わず絶句する。

誰だこれは。満面の笑みを浮かべこちらに歩み寄って来る男は間違いなく太陽の中にいる。日が昇るのをきっかけに逃してしまった彼の首は陽の光に晒されている。

歩み寄る彼に対し何も言わず睨む様に見ていたせいか、猗窩座は嬉しそうな顔を引っ込めると口元だけにやりと弧を描いた。


「……三ヶ月前、なまえに恋人が出来たというのは聞いていたが、その相手はお前か杏寿郎」

「…ッ…だとしたら何だ」

「なまえを離してやれ。俺を警戒するのは分かるが、その前に今のなまえではお前とそこまでの距離は容量不足だ」

「……何?」


何の話しだと思いながらも、視線を下に落とす。
先程、突進の如く走ってきた猗窩座から遠ざけるため、咄嗟に彼女の肩を抱き寄せたのだが。

がっしりと抱き込んだままだった彼女が自分の胸元に押し付けられているのに今気付いた。


「ッ、なまえ!すまない!苦しくなかっただろうか!?」


両肩に手を添えると慌てて身体を離す。バッと彼女を見ると耳まで赤くなっていた。

それもそうだ。付き合ってまだ三ヶ月の関係だ。出会ってから通算しても半年しか経っていない。触れ合いなど、まだ手を繋ぐくらいしかしていなかった。急に抱き締めてしまったせいかなまえは顔を真っ赤にしたままカチコチに固まってしまっていた。


「私は全然…っ、あの大丈夫です…はい」


カアアと更に頬を深紅させるなまえを見て自分まで頬が熱くなる。

素山少女が「お姉さんの相手って煉獄先生だったの…!?」と嬉しそうな、少し興奮した様子でなまえに声を掛けるのが聞こえるがその声にすらお互い上手く反応する事が出来ない。


「猗窩座お前、煉獄先生と知り合いだったのか?」

「……お前には関係の無い事だが、まあ昔馴染みの様なものだ」

「だとしても煉獄先生はこの学校の教師で俺達の先生だ。呼び捨てにするような無礼な態度は控えろ」

「久しぶりに会ったかと思えば早々に兄貴面か。鬱陶しい」

「何…?」

「お前は恋雪だけを気にかけてやれば良いんだ」


そっくりな顔が二つ。しかし中身がまるで違う二人がいがみ合う。

猗窩座は素山少年からフンと目を逸らすとまるで当然のようになまえの隣に立ち背を支える。その手付きに少し眉を寄せた。


「その様子じゃまだなまえに何も出来ていないんだろう」

「なッ!」


にやにやと微笑んで俺を見ると猗窩座はなまえの顔をそっと覗き込んだ。


「なまえ、やはりお前にはまだ早かったんじゃないか」

「もうっ、猗窩座!揶揄わないで!」

「はいはい」

「久しぶりに会ったんだから、もっと他に言うことあるでしょ…!」


この二人の関係は一体何なんだ。
そんな気持ちが顔に出てしまっていたのか猗窩座は俺を見て何処か清々しい笑みを見せた。


「なまえは恋雪の親戚で俺達双子とは幼馴染み。俺も狛治もなまえにとっては弟の様なものだ」


気になっていた事を教えてやろうと言わんばかりの顔をする猗窩座にどうしても気が焦れ奥歯を噛み締めた。

なまえにとっては弟の様なもの。それが素山少年であり、猗窩座であるという事は。つまり。


「姉共々、これからどうぞよろしく杏寿郎」


やはり、気の所為ではなく、鳩尾がズキリと痛むような気がした。



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五話完結の予定です!
特殊設定なのでこの解釈が無理な方はごめんなさいね…!

2022.05.28



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