「君が俺の話しを聞くつもりがないなら、もういい」


あんな事を言うべきではなかった。
一人布団の中で溜息をついた。チラリと隣の布団を見たがそこに妻の姿はない。髪をぐしゃりと乱暴に撫でた。

任務の合間。ようやく出来た休日に妻と、なまえと喧嘩をした。きっかけは些細な事だったが気が付いたらお互い自分の意見を曲げる事が出来ない程に熱が上がっており、最後は俺の「もういい」という言葉で締め括られ彼女に背を向けてしまったのだ。

あの時は、どうしてもなまえの言い分に納得が出来ず、「もういい」と言い放った時は自分は大した事は言っていないと思っていた。だが独りきりで布団に入って数刻してからようやく後悔に襲われた。


「…、」


眠る事など出来るはずもなく身体を起こし、もう一度ぐしゃぐしゃと髪を混ぜた。

夕刻前に屋敷に着いた時はお互いに笑顔だったのに。
迎えてくれたなまえは心底安心したように微笑んで「お帰りなさいませ」と穏やかな声音を響かせてくれていたのに。言い合いになって背を向けてから一度も視線を合わせなかった。それは俺だけじゃなく彼女もだ。お互いに意地になっていたからだろう。

寝室には居ないが妻が屋敷の中にいる事は気配で感じ取ることが出来た。もしもこの時間に屋敷の外に出ようものなら、その時はすぐに追いかけて捕まえるつもりだったが。流石になまえも鬼がいるかもしれない時刻に外に出る事はしなかったようで、そこは安堵していた。


「今夜は一緒に過ごせますね」


そう微笑んでくれたのに。
俺にとって妻と一緒に過ごす事が出来る夜というのは酷く珍しい。本来ならこの時間は鬼と対峙しているか、駆け回っているかのどちらかだからだ。なまえと二人で過ごす事が出来る夜を、僅かな時間をこんな風にするつもりは無かった。

あんな風に、彼女に悲しい顔をさせるつもりは無かった。

俺が「もういい」と言った時びくと肩を揺らして、それからきゅっと下唇を噛んだなまえは悔しそうと言うよりも、悲しそうという言葉が似合った。

いや違う、悲しそうではない。恐らく泣きそうだったんだろう。
言うべきではなかった。どんな状況でも「もういい」等と突き放す言葉を自分にとって最愛の人に向けるべきでは無かった。明日の夜には俺はまた任務だ。次彼女の傍で夜を過ごせるのはいつになる事か。もしも、それまでに何かあったら。俺は勿論、なまえにも何かあったら。


「…っ」


居ても立っても居られず布団から出ると彼女の気配を探り屋敷の中を歩くと足は自然と厨房に向いた。
ああ…やはりそうだったか、と彼女の行動をすぐに理解した。

厨房に入る事はせず入り口の傍の壁に背をついた。
喧嘩のきっかけは些細な事。帰還して食事の用意をしようとしたなまえに俺は外食を提案した。今から用意を始めては二人で過ごす時間が短くなってしまうから、だからたまには二人で外に行こうと言うべきだったのに。それを気持ちが逸るあまり「君の料理は時間がかかるだろう、外に行こう」と誘ったのは自分の失態だ。致命的に言葉が足りなかった。

案の定、俺の言葉を聞いてなまえはむっと眉を寄せた。きっと俺が帰るのに合わせて献立を考え食材も買い込んでくれていたのだ。「時間のかかる私の食事は不要ですか」と尋ね、そこからは売り言葉に買い言葉。

最後はなまえの「お帰りになるなら先に一報をくだされば、」という言葉にカッとしてしまい。「もういい」と突き放した。

我ながら不甲斐ないし情けない。

トントンと食材を切る音が夜の厨房に響く。あんな言い合いをしたと言うのに、それでも俺の食事を用意しようとするなまえに胸が痛くなった。
どうして、あの時この気持ちになれなかったのか。彼女を傷つけてしまう前にどうして思い止まる事が出来なかったのか。

なまえが愛おしくてたまらなくて、嫁に来てもらったというのに。これでは意味がない。

心底そう思った時、厨房から「ぐす…」となまえが鼻を啜る音が聞こえてハッとした。背を壁から離し中を見ると、なまえは包丁をまな板の上に置き俯くように身体を縮こまらせている。背中が僅かに震えていた。不意に彼女が自分の手の甲を目元に押し当てた時、声を上げるよりも早く自分の身体が動いた。


「っ!?……きょ、杏寿郎さま…っ…?」

「……すまない」


後ろから身体を引き寄せ、自分よりも華奢な身体をぎゅうと抱きすくめると自然とその言葉は溢れた。


「泣かせるつもりはなかった、本当だ。すまない」

「…っ…」

「君を怒らせるつもりも、傷つけるつもりも無かった。突き放すような言い方をして悪かった」


なまえの身体が折れてしまわないように力を入れ過ぎないようにすべきなのに、申し訳なく思えば思うほど力は強くなり、厨房で一人涙を流していたなまえが愛おしくて、自分が不甲斐なくてたまらなかった。

もう一度「すまない」と呟いた時、なまえの手が俺の腕にそっと触れた。


「わ、たし…っ、…私も、」


その声は涙で震えて、言葉は詰まりまともに話すことも出来ないほど揺れていた。


「私の…ほう、がっ…酷いことを、言っ、」

「言ってない。君は何も悪い事はしていない」

「でも、…か、帰るなら一報を、ください…だなんて…っ…杏寿郎さまがっ、無事であることが…すべて、なのに…!」


何度も言葉を詰まらせて、しゃくり上げてそう言った妻の小さな頭に自分の頬を擦り寄せる。
「帰ってきてくださる事が全てなのに」と泣き声で話すなまえの瞳からは次から次へと涙が出て溢れているのか、それは頬を伝いぽたぽと俺の腕に落ちた。


「酷い妻ですっ、私は…最低です…!」

「俺の一番大切な人をそんな風に言わないでくれ」

「でも、」


なまえが何か言いかけるが、後ろから抱きしめていた身体をくるりと返し向かい合う。手元を照らすために置かれていた灯籠の明かりでようやく見る事ができた妻の顔は涙で濡れ、瞼が少し腫れ重たくなっていた。

頬を両手で挟み親指で目元を優しく拭う。俯いて目を逸らそうとするなまえの名前を呼ぶと申し訳なさそうに俺を見上げた。赤くなった瞼に口付けるとなまえの身体が少し硬直するのが分かった。瞼は熱を持っていた。今泣いたからではないだろう。きっともっと前から彼女は一人で泣いていたのだと察してしまった。


「すまない」


そう言ってもう一度瞼に口付ける。なまえが何か言いかけるが今度は目尻に唇を落とす。すると「杏寿郎さま」と涙交じりの優しい声が俺の名を呼ぶ。


「…辛そうなお顔をされてます」

「当然だ。こんなに腫らして」


一番笑っていて欲しい人を、くだらない言い合いで泣かせた事実とその不甲斐なさに胸が潰れそうだと思うくらいに後悔している。眉を寄せる俺の顔を見てなまえは少し困ったようにして微笑んだ。ようやく見ることが出来た妻の笑みにどうしてだか泣きたくなった。


「ありがとうございます、杏寿郎様。わたしはもう大丈夫ですよ」

「しかし」

「私の所に来てくださってありがとうございます。ですが、もうお休みください。満足にお食事も出来ていないでしょう」


食べてない訳ではない。言い合いになった後もなまえは食事を用意してくれた。いつものような量では無かったが、それは支度の時間が取れなかったからで、当たり前の大人が食べる分の食事は用意してくれたのだ。

一つ言うなら、その食事の席になまえはおらず、一人きりで食べることになったのだが。


「明日の朝ご飯はたくさんご用意しますから、なのでどうぞ先にお休みに」

「駄目だ」


遮るようにそう言うとなまえは少し驚いた顔をする。彼女とまた言い合いをしたい訳ではないので俺は眉を下げて力なく笑んで見せた。


「君と一緒にいる時間が短くて仕方なくてな、困った」

「それは、」

「食事の用意をしてくれているのは嬉しい。だが、」

「…」

「一緒にいよう」


どうか傍にいて欲しい。
君が傍に居ないと俺は満足に休む事もできないようだ。
白状するように言葉を繋げると、なまえはふらふらと少し視線を彷徨わせる。頬が灯籠の灯りでも分かるほど赤みがさしているのがわかる。


「その代わりと言うのもなんだが」

「はい?」

「朝は俺も君と共に朝餉の用意を手伝おう」

「えっ」

「不慣れだから逆に君の手を煩わせてしまうかもしれないがな」


そう言うとなまえは少々ぽかんとした顔で俺を見つめたあと、手を口元に添えて「ふふっ」と小さく笑った。


「杏寿郎様が包丁を持たれるのですか?」

「むっ、そうなるな」

「ふふ、それはとても珍しくて気になってしまいますね」


くすくすと小さく微笑むなまえにこちらの顔まで綻ぶ。「なまえ」と名前を呼んで、彼女が顔を上げたらスッと顎を掬い唇を重ねた。顎から手を滑らせて首元へと回し深く引き寄せる。しばらく唇を食んだ後になまえを見たらそこには赤々とした顔があった。


「俺と仲直り、しよう」

「…はい」

「意味は分かるな?」

「…っ、…はい」


ああ良かったと、ぎゅうと彼女の身体を抱きすくめる。ここを二人で簡単に片したら寝室に連れて行こう。手を繋いで、いや抱き上げて。何でもいいなまえが傍に居てくれるなら、何でも。そんな事を考えながらもう一度、赤く腫れた瞼に唇を落とした。







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夫婦喧嘩。
喧嘩したら目がすごいスンとしそうな炎柱。
だけど喧嘩の後は自己嫌悪でめちゃくちゃ後悔してほしい。

「仲直りしよう」の意味はお好きに捉えてくださっせ!

2022.10.12



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