「おはようございます、杏寿郎様」


いつもなら柔らかな声音をさせる妻の声が掠れていた。少し驚いた顔をした杏寿郎に気づいたのか、なまえは口元に手を添えケホケホと小さく咳き込むと「すみません」と申し訳なさそうに呟いた。


「いや謝る必要はない。風邪か?」

「えっ、あ、いえ…その」


言葉を濁すなまえに杏寿郎は僅かに首を傾げる。困ったように眉をハの字にさせる妻。なまえは普段からきちんとした生活を送っており、体調にも人一倍気遣っている。それなのに風邪を引いてしまったことを恥じているのだろうか。誰だって体調を崩してしまうことはあるというのに。そう考えると杏寿郎は目を細め微笑んだ。


「近頃は空気も乾燥していたからな。君が体調を崩すのも無理はない」

「あ、いえ、」

「家のことは俺がやろう」

「あの杏寿郎さま、」

「なまえは構わず身体を休めていてくれ」


何か言いたげな顔をするなまえに「気にしなくていい」と再度告げてぽんぽんと頭を撫でる。見上げてくる瞳が少し戸惑っているようにも見えた。


「どうした?」

「あっ、……な、なんでもないです」


そう返したなまえの声はやはり掠れていて聞くだけで胸が痛む。「おいで、布団をもう一度敷こう」と言って手を引くと大人しくついてくる。妻は頑張り屋で力を抜くことをほとんどしない。だからこそ身体のことは労わって欲しいと考えた。

(胡蝶に診察をしてもらうか…)

念には念を。たかが風邪、されど風邪。杏寿郎の頭を過ったのは敬愛する母。風邪だとしてもなまえに万が一の事が起きてはたまったものではない。後で要に頼んで胡蝶の元へ飛んでもらおうと決めたのだった。


・・・


「煉獄さん」

「胡蝶!診察は終わったのか!」

「はい先程」

「すまなかったな!足を運ばせてしまって!」

「いえいえそれは良いんですよ、私としてもなまえさんが心配でしたし」


片手に診察道具を包んだ風呂敷を持ったしのぶは「少しお話ししても良いですか?」と尋ねた。医者である彼女にそう言われると嫌な意味で胸が跳ねる。まさか何かあったのだろうかと瞬時に嫌な想像が浮かんだ。


「ああ。すぐに茶を、」

「いえお構いなく」


そんなに伝達を急ぐ状況なのかと杏寿郎は客間に腰を下ろすと、対面にしのぶも腰を下ろした。向かい合ってしばらく沈黙。しのぶの顔は、どう切り出すべきか迷っているようだった。


「胡蝶、なまえは」

「ああ、はい。ええ、そうですね、はい。なまえさんは結論から言ってしまうと健康です、重い病でも何でもないです」

「風邪でもないのか?」

「はい。体力が消耗していて少々寝不足ではあったようですが、声の掠れ以外目立った問題はありませんでした」


しのぶの言葉に杏寿郎はパッと顔を明るくさせた。何事もないならそれはそれで良かった。屋敷まで呼びつけてしまった彼女には悪い事をしてしまったが。
そこまで考えて杏寿郎はふっと冷静になる。なまえに何もないならば何故、胡蝶はこんなにも言葉を濁し悩んだ顔をしたのか。そんな杏寿郎の顔色を察したのか、しのぶはどこか強張ったような、硬めの笑顔を見せる。


「胡蝶?」

「えー、煉獄さん。私としましてはこういう事を言うのは本意では無いと言いますか。私が口を出すべき事では無いというのを承知でお話しをさせて頂きたいのですが」

「ふむ?」

「お心当たりはありませんか?」

「なまえの体調についてか?」

「はい」

「…?」


はて、と首を傾げる杏寿郎にしのぶはフウーと深く大きな息を吐き出す。彼女の空気が何処となく重たいことは察していたが更に増した気がした。


「昨夜煉獄さんは任務がお休みだったそうですね」

「ああ昨晩はここで過ごしていた」

「ええ、ええ。なまえさんと大切な時間ですからそこは良いのですが。まだ心当たりはありませんか?」


そう言われて、ふむと考え込む。昨晩は任務が無かったためなまえと同じ時間を過ごした。妻の手料理はいつも通り絶品で、風呂の後は二人で縁側に座り茶を飲んだ。他愛のない会話に花を咲かせ、その後は風も冷たくなり身体を冷やすといけないからとなまえを連れて寝室に行き…


「あ、」


ポロと呟いた杏寿郎の言葉をしっかり拾ったしのぶは笑みを深めた。


「なまえさんが大切なのは大変結構な事だと私は思いますよ」


深くは語らない胡蝶の言葉に杏寿郎はカッと目を見開く。


「よもや!!彼女の喉は!!俺のせいか!!」


ようやく理解した。何故なまえが何か言いたげな顔をしたのか。言葉を濁して困った顔をしたのか。体調不良を恥じていた訳ではない。喉を痛めた原因の行為を恥じたからだ。その原因を言葉に出せる性格でもないなまえは戸惑う事しかできなかったのだと今更察した。

頭を過ったのは、昨夜妻を抱いた時。泣くように、嬌声をあげていたなまえの声だ。

久しぶりだった事もあり、休憩も碌に与えないまま空が白むまで抱いてしまったせいで彼女は声を枯らしたのだと理解した。体力の消耗と寝不足、それは当然のことだ。そうなって当たり前の行為をした。


「胡蝶!!!すまない!!!」

「いえいえお気になさらず。と言いたい所ですが、煉獄さんは少々反省してください。診察と言って私を呼んだことでなまえさんがどれだけ恥じていたことか」


胡蝶が診察のためなまえの元を訪れた時、顔から火を吹くのではないかと言うほど真紅させ、今にも泣きそうな顔ではわはわと慌てふためくなまえは可愛らしくもあったが、それ以上に可哀想だと感じた。まさかこんな事で夫が医者を呼ぶとは思わなかったのだろう。

胡蝶とてそうだ。何故自分が夫婦の営みについて説かなければいけないのか。そもそも散々やったのであれば気付くだろう夫ならば。全く気付かないよりかは、体調が悪いのではないかと妻を心配した行動は評価するが。

「すまない!!」と座敷机に額がぶつかるほどの勢いで頭を下げる杏寿郎にしのぶは呆れて溜息をつくと、羽織の袂から帛紗を取り出した。


「なまえさんが寝不足と体力が落ちていることは事実なので、滋養強壮のお薬と、よく眠れるお薬を置いていきますので」

「恩にきる!!」


これ以上ここに自分がいてもこの夫婦は恥じてしまうだろうから早々に立ち去ろう。そそくさと荷物を手に取るとすくっと立ち上がる。


「煉獄さん、用法用量は守ってくださいね」







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妻の用法用量。
恥じて何も言えない妻と、何も気付かない夫。
この後めちゃくちゃ謝る。

2022.12.21



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