嫌だなぁぁぁ、嫌だなぁぁぁ。行きたくないよ、俺もう帰りたいよおおぉ。
トボトボと歩いてやって来たのは風柱、不死川実弥の屋敷。善逸はグズッと鼻を啜り屋敷を見上げた。大体どうしてこんな事になったのか。事の始まりは蝶屋敷で療養をしていたら、しのぶが困っていた事だ。
患者を見に行かなければならないが、実弥に届けたい物もある。どうしたものかと困っていたしのぶの力になりたくて自分が持っていくと挙手してしまったのだ。考えれば考えるほど、屋敷に近付けば近付くほど足が重くなっていき、倍以上の時間をかけてようやく屋敷へとたどり着いた。
『いいですか、不死川さんのお屋敷に女性がいらっしゃいますからその方にこちらを渡してくださいね』
そう言って預けられた風呂敷包。
大体不死川の屋敷にいる女性とはなんなのか。あんな暴れ馬のような、修羅のような男の屋敷に住んでいるのだ。きっと同じような気性の激しい人間に違いない。
はぁぁ、やだやだやだ、禰豆子ちゃんに会いたい。心細いよ助けてよ炭治郎。伊之助もこんな時に限ってなんで居ないんだよ。もうやだやだやだ。
んああ、と門の前で声を上げることも出来ず悶々としていた。
「実弥さま、実弥さま」
瞬間、耳に響いた優しげな声に善逸はパッと顔を上げた。元より常人よりも耳がいい善逸。今聞こえた声は僅かな物だが、屋敷の中の、さらに奥の方から聞こえた。
善逸はそっと門を押し開き小さな小さな声で「すいませーん」と一言。返答は無く、そっと身体を中に滑り込ませた。今聞こえた声の相手に荷物を渡せば良いのだろうか。声を聞いた限りどうやらこの屋敷の主のような暴れ馬でも修羅でも無いらしい。
そそそ、と最新の注意を払いながら抜き足差し足で声の聞こえた庭の方に足を運んだ。
「実弥さま」
「何だァ、何度も呼ばなくても聞こえてらァ」
「お返事をしてくださらないので私の声が届いていないのかと不安になってしまいました」
いた。
そーーーっと、気付かれないように壁から顔を覗かせる。縁側に実弥と、それから若草色の着物を着た女性が一人傍に座っていた。しのぶの言っていた風柱の屋敷にいる女性というのは間違いなくあの人だろう。声を掛けて荷物を渡して、さっさと退散したいところだが今は修羅が側にいる。
そして女性は善逸に背を向ける形で座っている。実弥程の男なら善逸の来訪に気付いてもいい所だが、目の前の女性しか見ていないのか視線一つ寄越さない。それはそれで腹立たしい。それに二人の雰囲気が何となく良い。ぐぎぎ、と歯を食いしばって二人を見つめた。
「後で今日のお茶菓子を買いに行って来ますが、何がよろしいですか?」
「…んなモン、テメェの食いたいもん買ってこい」
「あらあら、良いんですか?」
含み笑いを浮かべる女性に実弥は眉を寄せる。「んだよ」と乱暴に言い捨てるが、嫌悪の音は一切聴こえてこない。それどころか少し優しさを帯びていて善逸はゾッとした。
「そうですねぇ、私食べたい物があるんです」
「あァ?」
「最近町に出来たおはぎ屋さんが美味しいと噂なんですよ」
「……別に俺はソレが食いてえなんて言ってねぇだろ」
「ええ勿論。私が食べたいのです」
「実弥様も召し上がりますか?」と楽しげに尋ねるなまえにグッと押し黙る実弥。
「うふふ、おはぎ楽しみですねえ」
「オイ、なまえ」
あの女性はなまえというのか。実弥の呼んだ名前を心の中で呟く。未だ背を向けたままで顔は見えないが、あの実弥を相手に物怖じ一つせず対等に言葉を交わしているのだ。それなりに肝の座った女性なんだろうなと思った。
善逸の興味は次第になまえへ。この荷物を渡す時にあの人と少し話せるだろうか。そんな風に考えた。
「実弥さまは何か欲しいものはございませんか?」
「俺かァ?」
「はいっ、折角お時間があるのですから私と一緒に買い物に行きませんか?」
「特に用はねぇよ」
実弥がそう言った途端、なまえの音が酷く寂しい物に変わり善逸の耳に届いた。
なっ……馬鹿じゃないの!ねえ馬鹿じゃないの!ほんっっと馬鹿じゃないの!顔は見えないけど絶対素敵だろう女性からのお誘いをそんな風に断って!!何なの!本当に!!
キエエ!と善逸が心の中で暴れ回っていると、なまえの「そうですかぁ…」という声が聞こえた。
「それなら、そうですね…一人で行ってまいります…」
「オイ」
「…はい」
「行かねえとは一言も言ってねえだろうがァ」
「え?」
は?うっそでしょ。あの人、本当に暴れ馬とか言われてる風柱?え?うっそでしょ。何ちょっと照れ臭そうな音出しちゃってんの!?なに!?よく見たら耳がちょっと赤いし!はあ!?
「はいっ、では一緒に行きましょう」
「…おう」
「それなら私、先にお支度を」
急にぱっと振り返ったなまえと善逸は目が合った。その瞬間、善逸は自分の頬が熱くなるのを感じた。
さらさら揺れて柔らかそうな髪に、ぱちくりと瞬きを繰り返す瞳。ふっくらとした唇は紅く、鮮やかに色づいた頬は桃色。どこからどう見ても綺麗な人で、ぼうっと見つめてしまった。
「あら、たんぽぽかしら?」
なまえの呟きに我に返るとすぐさま壁の影へと身を隠す。どっどっどっ、と繰り返し音を立てる心臓を誤魔化すように預かった風呂敷包を抱きしめその場にしゃがみ込んだ。
間違いなく気付かれた。どうしよう盗み見していたことがバレてしまった。実弥に知られたら間違いなくやられる。そう、命を殺られる。
「なまえ?どうした」
「いえ季節外れのたんぽぽが咲いていまして」
「はァ?」
「何でもございませんよ、ふふ」
これは。ひょっとして彼女は自分を見逃そうとしてくれている?あああ、優しい、本当に優しい人だなあぁ…。
思わず涙を浮かべ、ズビッと鼻を啜ると、立ち去る前にもう一度、と善逸はそっと顔を覗かせた。
「はっ、この時期にたんぽぽはねえだろォ」
「あらまあ私の見間違いだったんでしょうか」
「お前は本当どうしようもねえなァなまえ」
優しい、温かい音が聞こえて善逸はヒュッと息を止めた。まさか、いやまさか、この音の持ち主は。
さっさと去れば良かった。後になって後悔するのだが。その時善逸は怖いもの見たさという好奇心が勝ってしまったのだ。そっと盗み見た世にも珍しいそれを見て、善逸は思わず叫びたくなる気持ちを抑え込み、心の中で大声を上げた。
何その表情筋
その瞬間目が合ってしまう。
実弥の嘘みたいな柔らかな表情が一変して修羅のような顔付きに。ゾワッと背中を駆け抜けた恐怖の音に善逸は慌てて逃げ出そうとしたがあまりの恐怖に腰を抜かしてしまった。
「テメェ、何してやがる、あ゛?」と自分を見下ろす修羅の実弥を見上げ、善逸はしのぶから預かった風呂敷包を抱えままガタガタ震えた。今にもぶっ飛ばされかねない顔。さっきの表情筋は一体何処へいったのか。
「実弥さまっ」
「あ゛ァ!?」
「怯えております!」
バッと間に入ったのはなまえで。「私に用があったのです」「怖い顔をしないでくださいませ」と言って実弥を諫める若草色の着物の背中を見つめ、善逸は思った。この人絶対、天女かなんかの生まれ変わりだと。
「ごめんなさいね、もう大丈夫ですからね」
向き直って微笑んでくれる。こんな優しい人に庇ってもらえるなんて幸せだなと思っていたのも束の間。
「よしよし、そんなに震えないで」
「あ、あ、ああああの!?ちょっと!?」
大丈夫ですよ、と言ってなまえは怯え散らかす善逸をやんわりと抱きしめたのだ。
まるで幼児をあやすような彼女の行動に声を上げ慌てふためいた善逸。すごく良い匂いがするが今はそんな事に構っている暇は無い。何故ならば。なまえの背後に立ってる男。実弥のこめかみに、青筋が浮かぶのが見えたからだ。
善逸は静かに思った。
俺絶対死んだ、と。
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表情筋がゆるゆるになる風柱を書きたかった。
2021.1.14