「なまえさんこんにちは」
「こんにちは、千寿郎様」
にこりと笑って頭を下げると、彼も同じように礼儀正しく頭を下げてそれから笑顔を浮かべた。
なまえと千寿郎はもう随分長いこと手紙のやり取りをしていた。杏寿郎が屋敷を構えてから何度か会った事はあった。だがお互いの状況、特に煉獄の家の事もあり滅多に会える状況ではなかった。
今日は彼が父親に言い、外へと出てきてくれた貴重な日だった。
「どうぞお上がり下さい」
「ありがとうございます、兄上はまだ任務ですか?」
「はい甘露寺様と共に任務に出てそれっきり」
「そうですか…」
「きっと任務が立て続いているのやもしれません」
客間に千寿郎を案内しながら言葉を交わす。「そうですか…」と言って座布団に腰を下ろした千寿郎の眉が心配そうに下がっていることに気付いた。なまえは「あ、」と気付くと口元に優しく笑みを浮かべた。
「大丈夫です」
「え?」
「千寿郎様のお兄様はお強い方ですから、きっと沢山の人を助けているのです」
「はいっ、そうですよね」
二人が任務に行く前、蜜璃がなまえを落ち着かせてくれたように。なまえも千寿郎に優しく声を掛ける。
自分まで不安になっていたらもっと不安を煽ってしまう。本当なら蜜璃がそうしてくれたように千寿郎を抱きしめてやりたい気持ちに駆られるが。主人の弟君だ、失礼な事は出来ないと首を振った。
「千寿郎様、いまお茶をご用意しますね」
「あっ、それだったら僕もお手伝いします。お土産もございますから」
「まあ、そんな」
「きっと二人でやった方が早いですし行きましょう」
断る間も与えずお土産のお菓子が入った風呂敷を持ち立ち上がる千寿郎。
滅多にこの屋敷に来れない彼だが、一度たりとも客人としてもてなせた事がない。何だかんだといつもなまえと一緒に厨房に立ってくれるのだ。
「今日は芋餡の練り切りを見つけたんですよ」
「芋餡ですか、ありがとうございます。杏寿郎様がいらしたら声を上げて喜ばれたでしょうね」
「兄上は相変わらずですか?」
「ふふ、いつも芋を出すとわっしょいと」
楽しげに笑うなまえを見て、千寿郎もにこりと微笑んだ。
なまえと過ごす時間は兄と過ごす時間と同じくらい好きだった。千寿郎から見ると二人はよく似ていて纏う空気が暖かいのだ。なまえと初めて顔を合わせた時、一番最初こそ戸惑い兄の後ろに隠れてしまったものの。いつからか二人で厨房に立ち、笑う時間が増えた。
「ですが、せっかく千寿郎様が来て下るのなら杏寿郎様にいて欲しかったですよね」
「え?」
「大切な二人のお時間です」
杏寿郎には予め今日の事を話しており、本人も千寿郎と会うつもりでいたのだが。任務となってしまっては仕方がない事だ。
だがなまえは「大切な時間」と何の嫌味も含みも無くそう言ってくれる。なまえの言う事は一理ある。兄に会いたかった。でも居ないからと言って来た意味がない訳ではない。なまえと話す時間も千寿郎には意味のあるものだった。
「僕はなまえさんと話す時間も好きですよ」
そう言うとなまえは少し驚いて、それから照れたように「ありがとうございます」と微笑む。
練り切りを菓子皿に乗せなまえはお茶を淹れた湯呑みを持ち、二人で客間へと戻る。どんな会話でも楽しかった。最近、千寿郎が覚えた料理の事だとか、町でこんな事があっただとか。
取り留めもない会話を交わしたあと、ふとなまえが尋ねた。
「槇寿郎様、…父君のご様子はいかがですか?」
なまえの問いかけに千寿郎は菓子皿を置いて、眉を下げた。
「…変わらず、です」
「そうでしたか…」
「最近はお酒の量も増えて…父は強い方ではありますが、もう若くはありません。少しでもいいから控えてもらえればと思うのですが」
「千寿郎様…」
「こればっかりは、上手くいきませんね」
困ったように微笑んだ彼になまえは胸の痛みを覚えた。
なまえは槇寿郎にちゃんと会ったことがない。杏寿郎に引き取られた日から今日に至るまで、顔を合わせた事がないのだ。数えるほどだが、煉獄の家に行った事はある。その時たった一度だけ姿を見かけた。
後ろ姿ではあったが広い背中だと思った。それと同時に酷く寂しさを抱えているとも。
杏寿郎はなまえと槇寿郎が会う事を良しとしない。状況が状況だからこそ、心配しているのだ。万が一、なまえが自分の父に怒鳴られてしまったら。否定されてしまったら、と。
「僕は、いつも何も出来ず」
「いいえ千寿郎様はちゃんと出来ています」
「え?」
「少し良いですか」
そう言うと近付いたなまえに千寿郎も向き合うように身体を傾けた。
「ご無礼を、お許しくださいませね」
「はい?」
緩く笑うとなまえは手を伸ばし、千寿郎の頭をポンと撫でた。ふわりとした髪の毛を優しく撫でる手に、千寿郎は兄に負けず劣らず大きな瞳を更に大きく瞬かせた。
「千寿郎様は凄いですね、私より歳もお若いのに。家のことも父君のことも、ちゃんと見てくださっております」
「なまえさん、あ、あの…っ」
突然の事に戸惑い、頬を染めた千寿郎。いくら歳が離れていると言えど、兄と一緒に住まう相手だとしても、千寿郎は童ではない。声変わりもした男である。そしてなまえは女性だ。心臓がかつて感じた事が無いほど、音を立てるのが分かった。
そんな千寿郎の様子に一切気付かないなまえはよしよしと撫でる手を止めない。
「立派ですね」
「え?」
「千寿郎様は立派です」
「…、」
鬼殺隊になれなかった自分を。剣才に恵まれず、どれだけ鍛錬しようとも何者にもなれなかった自分をどんなに恥じた事か。それでも目の前の女性は自分を褒めてくれる。立派だと言葉にして真っ直ぐに伝えてくれる。
「…なまえさんの言葉は凄いですね」
「え?」
「まるで、御利益のあるおまじないのようです」
微笑んだ千寿郎になまえも「本当ですか?」と笑みを浮かべる。父は厳しく、母の記憶はほとんど無い千寿郎にとって初めて、兄以外で初めて包まれるような暖かさを感じた。
・・・
「そろそろお暇しようと思います」
「本当ですか。お泊まりになっても構いませんが」
「いいえ、お言葉は嬉しいのですが父が心配ですから」
「そう、ですか…」
「次は兄がいる時に遊びにきます!」
明るく言った千寿郎。その日を想像してなまえは「はい」と頷いた。
「そこまでお送り致します」
「いいえそんな必要は、」
「私がそうしたいのです。それに日暮れまでまだ時間もございますし」
にこにこと笑うなまえに千寿郎は諦めると「では行きましょうか」と言って二人で外に出た。
「次はいつ頃に致しましょうか」
「そうですね、またなまえさんに文を送ります」
「はいっ、お待ちしておりますね」
子供達が「家に帰るぞ」と駆け抜けていき、町人達も忙しなく家路につく時間帯。二人で言葉を交わしながら歩いていたが、なまえが不意に言葉を止めた。
「なまえさんどうしました?」
心配そうに眉を寄せた千寿郎が覗き込んだ。目が合う。聞いても良いのか悩んだあと、戸惑いがちになまえは口を開いた。
「千寿郎様は、その…」
「はい」
「き、きよ、…清菊さんと言う方はご存知でしょうか」
「清菊さんですか?」
もう頬の腫れも赤みも引いたと言うのに、あの日打たれた頬がチリっと痛むような感覚がした。
「聞いた事はないですが…」
「そうですか…」
「うーん…」
必死に記憶を探ってくれているのだろう。眉を寄せて考え込む千寿郎をなまえは何とも言えない気持ちで見つめた。
「すみません、思い当たる方がおらず…」
「いいえ、良いんですお気になさらずに」
「その方と何かありましたか?」
「…いえ、なんでもありませんよ」
行きましょうというなまえ。気のせいか少し暗い顔をした彼女を千寿郎は不思議に思いながら追いかけた。