いつも杏寿郎の任務が一区切りついた時は鎹鴉か隠の者が教えてくれていた。
生家に帰るのか、なまえのいる屋敷なのか、それとも藤の紋の屋敷に行くのか、別の任務に赴くのか。それに合わせてなまえは食事の準備なり買い物なりと動いていたのだが。今日もまだその知らせは来ない。
「はい、これで大丈夫ですよ」
「ありがとうございますなまえさん」
きゅっと包帯を巻きつけると隠の男はなまえに頭を下げた。
パタンと音を立てて箱にしまったのは先日しのぶから貰った塗り薬と綿紗だ。多めに貰っておいてよかった、と安堵の溜息を一つ。
「なまえさんが居てくださるので助かります」
「いいえ、もし化膿などしてしまいましたら、しのぶ様の元へ行ってくださいね」
そう告げると隠は「はいっ!」と返事をしてなまえに一礼すると駆け出していった。見送ってからフウと一息。ここ最近軽傷者の来訪が増えていたような気がする。昨日は隠だけでなく、隊士達数人の治療をした。
つまり近い日に怪我をするような任務があったという事。
なまえの元には軽症者が訪れていたが、しのぶのいる蝶屋敷はもっと大変なことになっていたのかもしれないと思うと、やはり胸に影が落ちてしまう。未だ連絡のない杏寿郎の事が頭に浮かんだ。
「…っ!」
ぶんぶんと頭を振って悪い想像を飛ばす。「よしっ」と気合いを入れると玄関先の掃き掃除でもしようと思い、足を向ける。何もせずにいると良くない事を考えてしまう。
なまえは草履を履き、ガラリと戸を開けた。
「むっ!」
「えっ…!」
戸を開けたすぐ目の前。自分を見下ろす大きな瞳。そこには杏寿郎がいた。玄関を開けたと同時に現れた彼の姿に、なまえは驚き思わず仰け反ってしまう。そのまま体勢を崩しかねなかった彼女の背に杏寿郎はすぐに手を回した。
「すまない!驚かせてしまったな!」
「杏寿郎様!あの、何故…!」
なまえは相変わらず驚いて目を白黒させている。そんな彼女の背中に手を回し支えると、グッと少しだけ引き寄せ杏寿郎はその顔を凝視した。
実弥はなまえが頬を叩かれたと言っていた。けれど今は見る限り腫れも赤みも無く、いつもと変わらない僅かに桜色に色づいた血色のいい頬だった。もう時間が経ったから治っただけかもしれないと思うが。なんと問うべきか迷った。
「あの…、杏寿郎さま、ですよね?」
突然現れた彼の姿に戸惑ったのはなまえだ。
隠からの連絡も無く、鎹鴉が知らせてくれた訳でもなく。音沙汰なく屋敷に戻ってきたかと思えば、今度は自分の顔をじっと見つめてくる杏寿郎に僅かに違和感を覚えてしまったのだ。
「も、申し訳ありません、失礼な事を言って…!あの、突然の事だったので驚いてしまって…!」
「いや!俺こそ何の連絡もしていなかったのだから仕方ない事だ!」
「いえ、そんな…!」
「念の為言っておくが、本物だ!」
杏寿郎の言葉になまえはしばらくポカンと見つめたあと「ふふ」と静かに笑みを浮かべた。本物だと溌剌と言った杏寿郎がどうにも面白かった。
「そうですね、仰る通り本物でございますね」
「なまえ?」
「いつお戻りになるのかとそわそわしてしまいまして…今も私が都合の良い白昼夢でも見ているのではないかと、そう思ってしまったのです」
杏寿郎に背を支えられたまま。嬉しそうに微笑んで話すなまえ。ふわりとした彼女の穏やかな笑みに杏寿郎もつられるように笑みを浮かべた。
「ご無事で何よりです」
「ああ、ありがとう!いつもならば知らせを入れるのだが、今回はその余裕が無くてな!」
「そんなに大変だったのですか…?」
「そうだな!甘露寺との任務を終えた後、自分の管轄している区域を走り回っていたせいでほとんど休む暇が無かった!」
「そんな!あっ、そういえばお食事の支度が何も出来ておりません…!それにお風呂も…!」
「構わん!気にせずとも良い!」
「で、ですが…!」
ようやくなまえの背から手を離すと玄関を上がり自室へと向かっていく。そんな杏寿郎の後をなまえも追いかけた。知らせを入れる所か休む暇も無かったという事は、それだけ忙しかったのだろう。それなのに今も忙しない杏寿郎。この後まだ任務があってすぐに出なければならないという事だろうか。
自室に入ると炎の羽織りをパサリと脱ぐ。すかさず手を伸ばし羽織りを受け取るとなまえは不思議そうに首を傾げた。羽織りを脱ぐという事は任務では無い。
「杏寿郎様?どこかへ出られるのですか?」
「ああ!君も支度をするといい!」
「え、私もですか?」
不思議そうな顔をするなまえに杏寿郎は溌剌と言い放った。
「ああ!温泉に行こう!!」
・・・
杏寿郎の手には二つの風呂敷包み。一つは自分の物で、もう一つはなまえの物だ。
温泉に行こう、という突然の提案にバタバタと走り回り支度を整えたなまえ。最初は自分は行かなくて良いからゆっくりしてきて欲しいと進言したのだが、杏寿郎は頑として了承せず。「君が行かぬのならば意味がない!」とまで言ったのだ。
次に戻った時は君との時間を作る!
確かに任務の前に約束をした。だから今こうして自分を温泉へと連れ出してくれているのだろうか。隣を歩く杏寿郎の顔をチラリと盗み見た。
いつもの見慣れた隊服も羽織も今は無い。焦茶色の着流しに黒い帯。滅多に見ることのない杏寿郎の姿だった。
「何だ!」
「い、いえ…っ」
「そうか!」
なまえの荷物は杏寿郎が持っている。自分で持つと言ったのだが「俺が持とう!」と言う杏寿郎に取り上げられてしまい今は手ぶらの状態だった。
温泉旅館は歩いて半刻ほどの所にあるらしい。煉獄の家が懇意にしている旅館で部屋も食事も中々の物だとの事。温泉などほとんど行った事のないなまえは少しだけそわそわとしていた。
「所でなまえ!俺が居ない間は何もなかっただろうか!」
「あの、先日は千寿郎様がいらっしゃいましたよ」
「む、そうか!その予定があったな!」
「はい、次の機会には是非杏寿郎様にお会いしたいと仰っていて」
「ますます立派になられておりました」と、微笑んで言うなまえ。千寿郎の話しが聞けるのは勿論嬉しい。しかし今聞いたのはそういう意味ではない。
「他は何も無かっただろうか」
「他、ですか?」
「君に何も無かったか知りたいんだ」
杏寿郎の問いかけになまえの頭を過ったのはあの華やかな女性だった。清菊と名乗った女性。頬の腫れも赤みも治ってはいたが、思い出すと今でもジンと痛む様な気がしてしまう。
杏寿郎に言おうか迷った。彼が居ない間ずっと気になっていたのだ。けれどいざ杏寿郎を目の前にしたら何も言う事が出来なかった。二人の関係は分からないが、「頬を叩かれた」と言うのはまるで告げ口をするような気がして胸が淀んだ。
「何も、…何もございませんよ」
その返答に杏寿郎はぐっと言葉を詰める。にこりと笑ったなまえの顔が何処か無理をしている様に見えて。言葉が上手く出てこない。
頬を叩かれた事をどうして話してくれないのか。杏寿郎は戸惑った。
「なまえ」
「はい?」
「…前にも言ったが俺はいつも君の傍にいる事が出来ない」
「はい存じております。杏寿郎様のお立場を思えば当然の事です」
「そうだが…だが、そうではない」
「え?」
「どんな任務の時でも君に、なまえに何も起きてはいないかと案じている」
「杏寿郎様…」
「そう思っている事を覚えていて欲しい」
「…、」
「話したい事があるなら俺は何でも聞く」
真っ直ぐ迷いの無い言葉。
杏寿郎の言葉が胸に落ちる。その心遣いがじんわりと暖かく広がるような感覚がして、なまえは困ったように微笑んでしまう。
「十分過ぎるほど優しくしてくださる」
「何…?」
「杏寿郎様はいつも私に十分な優しさを与えてくださって、私はそれが暖かくて心地良いのです」
向けてくれる優しさに、いつの日か溺れてしまうのでは無いかと錯覚するほど。
その優しさにいつまでも甘えていては駄目だと分かっている。この優しさを当然と思ってはいけない。この優しさは自分だけが享受して良いものでは無い。弱い人々の為に生きているような彼だからこそ。
ただ顔を叩かれただけ。そう、それだけだ。きっと清菊との出来事を話したら彼は聞いてくれる。親身になってくれる。そういう優しい人だと知っているからこそ、責務の邪魔はしたくないとも思った。
「ありがとうございます、杏寿郎様」
「俺は何もしていない」
「そんな事はありません」
いや何もしていない、何も出来ていない。
それではいけないのに。
どうにも話しが上手く噛み合わない。「頬を叩かれたと聞いたが何があった」と聞くことが出来ない。胸の内がズシンと重くなる。他の柱や隊士達相手にならば大きな声で言える事が、なまえに対してだけは、ままならない。
根掘り葉掘り聞き出したいわけではない。なまえにもっと打ち明けて欲しいのだ。傍にいてやれないからこそ、何かあったならどんな事でも聞きたいと思う。共に過ごすようになって、なまえという人間を知ったようで、何も知る事が出来ていない。
決して遠くはない存在が、遠く感じる。
チラリと目線をやれば半歩後ろをついてくるその姿に思わず口を開いた。
「なまえ!」
「はい?」
「…」
「あの…?」
「そうだな、よし!手を繋いでも良いだろうか!」
「え、……ええっ…!」
突然の提案になまえは驚く。「手ですか…!」とおろおろと狼狽える彼女に杏寿郎は自分の左手を差し出した。
「そうしたいと思った!俺と君とでは差し当たって珍しい行為では無いだろう!」
確かにそうだ。
初めて出会った時からずっと杏寿郎はなまえの手を引く事が多い。今になって恥じる様な事ではないのだが普段は自然な流れで杏寿郎から手を繋いでいた。だからこそ今改めて面と向かって手を繋ぎたいと言われて少し驚いてしまったのだ。
何とも形容し難い恥ずかしさの中、おずおずと杏寿郎の左手に自分の手を乗せる。すると杏寿郎は目を細めて嬉しそうに笑みを浮かべた。
「行こう!宿まであと少しだ!」
そう言って歩き出した杏寿郎の横顔を半歩後ろから見つめ、なまえは恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「…」
いつも優しさをくれる人。暖かく強い力で手を引いてくれる。
告げ口はしないと決めた。決めているのに。
杏寿郎と清菊、二人に何があったのかどんな関係なのか気になってしまう。自分はそんな事を聞いて良い立場ではない。自分にそんな権利はない。
感情がどうしようもなく空回る。
いっそ、この繋いだ手から伝わってしまえば良い。
聞いてしまいたい思いも、自分の感情も全部。この手から、何もかも伝わってしまえばいいのに。
そう思って、柔く手を握り返した。