「そうか!部屋が一部屋なのか!」
「も、申し訳ありません!てっきり杏寿郎様お一人でいらっしゃるかと思って…!!」
ぺこぺこと頭を下げる旅館の主人になまえはぱちくりと目を瞬かせた。
手を繋ぎようやく辿り着いた温泉旅館。聞けば杏寿郎が一人で訪れると想定していたようで一部屋しか取っていなかったようだ。おまけに今日は客室が既に満員だという。繁盛しているのは良い事だが、さてどうしたものか。
「うむ!では主人!どこか物置部屋を貸してくれないだろうか!俺がそこに寝よう!」
「い、いけません!そんな事!」
杏寿郎の提案にすかさず声を上げたのはなまえだ。
「私は連れて来ていただいた身です!物置部屋に寝るとしたらそれは私の役目です!」
「駄目だ!君をそんな所に寝かせられない!」
「それは私とて同じです…!そうでなくとも任務の後なのですから、杏寿郎様にはきちんとお身体を休めて頂かなければ…!」
必死にそう言うなまえと、頑なに了承しない杏寿郎。自分が物置に、いや自分が、と決して譲らない二人に旅館の主人は「あのー…」と、か細く声を上げた。
「それでは少し大きめのお部屋というのはどうでしょうか…」
「なるほど!それはどういう部屋だろうか!」
「今からでしたらお部屋の調整も間に合いますし。お二方には二つの部屋が襖で仕切られた大きめの客間に泊まって頂くというのはどうかと」
主人からの提案になまえと杏寿郎は顔を見合わせた。
確かに二人で一つの部屋に眠るのには少し抵抗がある。夫婦でもなければ恋人という関係でも無いからだ。だが、隣接した部屋というのであればそこまで抵抗は感じない。
「うむ!それならば屋敷で普段過ごしているのと変わらないな!」
「はい、普段よりお部屋が少しだけ近付きましたね」
何故ならば二人は元々同じ屋根の下で過ごしているからだ。
「ではそれでお願いしたい!」という杏寿郎の言葉に旅館の主人は「はい」と返事をしたが。だがしかし、襖で仕切っていると言っても二人が相部屋である事には変わりない。
だと言うのに「どんな部屋だろうか!」だとか「楽しみですね」と朗らかに言葉を交わしている。本当に大丈夫なんだろうか、もしかして二人とも天然なのだろうか、全くもっておかしな二人だと主人は少し苦笑いをした。
・・・
「わあ…素敵…っ」
案内された部屋に瞳を輝かせたなまえ。二階建ての窓からは景色がよく見える。広縁の窓から下を見下ろし「お庭が見えますっ」とはしゃぐなまえの顔を見ていたら杏寿郎まで笑みが溢れてしまった。
「君は奥の部屋を使うと良い、俺はこちら側を使おう」
「はい、ありがとうございます」
荷物を持っていそいそと奥の部屋へと移動するなまえを目で追った。嬉しそうな顔でキョロキョロと部屋を見回している。こんなに子供のような顔をする彼女を見るのは初めてだった。こんなにも喜んでくれるならもっと早く連れて来ればよかったと少しだけ後悔もする。
甘露寺蜜璃の提案をそのまま採用したのは正解だったようだ。今度彼女に何かお礼をしなければ。
「風呂に入って来たらどうだ!」
「え、」
「主人に聞いたら今の時間からでも露天風呂を開けているそうだ!」
「そうなんですか?」
「俺に遠慮せず行ってきなさい」
杏寿郎の言葉になまえはパッと顔を輝かせ、それから「はい」と言って頷いた。
「あ、ですが杏寿郎様は…」
「俺の事なら気にしなくてもいい!君が行ったら俺も入りに行く!」
「そうですか、良かった」
どんな時でも杏寿郎の事を気にかける。遠慮するなと言ったばかりなのにすぐ杏寿郎の事を気に留める。
彼女は杏寿郎の事を「十分過ぎるほど優しい」と言ったが、それは同じ事だ。杏寿郎からしてみればなまえも、どうしようもないほどの優しさを持ち合わせていると思っていた。
「行ってきますね」と身支度を整えて出ていくなまえを見送る。
シンと静まり返った部屋で杏寿郎は自分の胸元から包みを一つ取り出した。先日町の市場で買った緋色のべっ甲細工の帯留めだ。さて、いつ渡すべきかと悩んで今も渡せぬまま自分の手元にあるそれを杏寿郎は荷物の中に隠した。
「難しいものだな、こういう事は」
たった一つ、贈り物を相手に渡す事すら難しい。
聞きたい事も聞けず、渡したい物も渡せず。元々この旅館にはなまえとゆっくり過ごし、言葉を交わす時間が欲しかったから来た。今日を逃せばまた鎹鴉が鳴くか、隠が伝令に来るか、どちらかとなるだろう。
今夜しかないと分かっている。分かっているが。
何も、…何もございませんよ
何も無かったか?と問うても何も返してこないなまえを見ると、どうにも上手く事を運べない。噛み合わない。
胸の内に言い難いもどかしさが込み上げる。
彼女は一体何を思っているのだろう。何を考えているのだろう。推し量る事も出来ず、ただただ胸の内で想うばかり。
「…さて、」
せっかく彼女と温泉に来たのだからそろそろ自分も行こう。このままこの部屋で思案していたら、なまえが戻ってきてしまう。そうしたらまた心配するだろう。
彼女に対する悩みは尽きない。だがあんなにも喜んで、はしゃいでいるなまえを見ると、それだけで心が安らぐのも確かなのだ。
杏寿郎は一度思考を切り上げると支度を済ませ部屋を出たのだった。
・・・
ほこほことした身体を浴衣に包み露天風呂を後にしたなまえ。足取りは自然と軽くなっていた。
最初に温泉を提案された時は遠慮したというのに今は杏寿郎に連れて来てもらってよかったなどと考えている。とても広く綺麗な露天風呂だった。数人の客に混じって湯に浸かり空を仰いだ。間も無く夕暮れになる空と露天風呂はどこか趣深いものに感じた。
こんな立派な旅館に来るのは生まれて初めての事だった。お風呂上がりに旅館の人が荷物を預かってくれた。「お部屋にお持ちしておきます」と、まさかそんな事までしてくれるとは思わず、この旅館がどれほど価値の高いものなのか実感する。
このまま部屋に戻るのもいいが、広く綺麗な温泉旅館だ。少しだけ見て回りたくなる。特になまえが気になったのは部屋から見た庭だ。庭池に石橋がかかり情緒のあふれる雰囲気があった。行ってみようか、と思ったが足を止める。
「…杏寿郎様も今頃お風呂かしら」
ぽつりと独り言。
自分が出たあと、杏寿郎も風呂に行くと言っていた。まだ浸かっている頃かもしれない。せっかく一緒に来ているのだから、部屋に戻り杏寿郎を待ってそれから二人で散策するのも良いかもしれない。勿論杏寿郎が良しと言えばだが。
そう決めるとなまえは庭に向けていた足を返し、部屋へと向ける。せっかく旅館の人が荷物を預かってくれたのだが仕方がない。
いつも、どんな時も杏寿郎の事を考えてしまっていることになまえはまだ気付いていない。当たり前のように気にかけているというのに。
今日は二人でゆっくりと出来る。一緒に過ごして随分と経ったが、今までそんな時間は数える程しか無かった。ましてや温泉に泊りなど。貴重な時間を大事にしたいと、そう思った。
「ちょっと!」
「っ」
その瞬間呼び止められる。なまえは身体がびくりと震えた。呼び止め方も、この声も、聞き覚えがあったからだ。
「何故貴女のような見窄らしい人間がこの旅館にいるのかしら」
「き、清菊さん…っ」
「馴れ馴れしく私の名前を呼ばないでちょうだい、不愉快だわ」
「っ」
ピシリと言い放つ声。強い瞳に華やかな出立ち。結い上げられた栗色の髪と、強い赤色の紅。
「ど、どうしてここに…」
「それはこちらの台詞だわ。この旅館は由緒ある家柄の人間じゃないと利用できない高価な所よ」
清菊の言葉になまえは顔を俯かせる。まさか再会してしまうとは思わなかった。それも今日、杏寿郎が連れてきてくれたこの旅館で。
「貴女のような者が図々しくこの旅館に居るという事は、あの方が、…ここに杏寿郎様もいらっしゃるのね」
「…っ」
「答えなさい!」
押し黙ったなまえに清菊の強い声が響く。
清菊が杏寿郎の名前を呼んだ途端、胸が重くざわついてしまいなまえは言葉を返す事が出来なかった。
突然響いた怒鳴り声に周りにいた数人の客がなまえと清菊に目を向ける。その視線に気付かぬほど清菊も愚かではない。周りの人間を一瞥するとフンと鼻を鳴らした。
「付いてきなさい」
「で、ですが私は…っ」
「聞こえないの?来なさいと私は言ったのよ」
杏寿郎のいる部屋に戻りたい、あの優しい人の元へ。そう思うのに。
周りがこちらを見ている。中には旅館の人もいる。もし今ここで騒ぎになったら。何か問題が起きた時、せっかくここに連れてきてくれた杏寿郎に恥をかかせる事になる。
「はい…」
断る事も出来ず、小さな声で返事をすると清菊の後をついて行く。今日は貴重な日だというのに、大切にしたいと思った時間なのに。
前に叩かれた頬がジリジリと痛むような気がした。