「むっ」
風呂を終えて部屋に戻ってきた杏寿郎は足を止める。
静まり返った室内はガランとしている。まだなまえは戻ってきていないようだ。てっきり彼女の方が先に出たからもう戻っているとばかり思っていたのだが。
女性は支度に時間が掛かるという話しもあるが。なまえはこの温泉旅館に来てから珍しくはしゃいでいるように見えていた。きっと今頃は露天風呂を満喫しているんだろうし、夕餉の時間までには戻ってくるだろう。
わぁ…素敵…っ
共に来る事が出来て良かった。幼子のように顔を輝かせて笑うなまえは珍しい。はしゃぐ彼女を見ていると、どうにも心が穏やかになる。まだ胸に引っかかっている事も、話したい事も山ほどあるのだが、それでもなまえが笑っているのを見ると安らぐ。
こればっかりは、どうしようもないな。自分に呆れ笑いを一つ溢すと室内に設けられた広縁へと足を向けた。先程、風呂に行く前なまえがはしゃいでいた場所だ。
確か庭が見えると言っていたな。なまえの言葉を思い出すと杏寿郎は窓から下を覗いた。
「……あれは、なまえ?」
そこに人影が見えた。
女性が二人何か話しをしている。一人はなまえだった。もう一人の顔は杏寿郎からはよく見えない、随分と華やかな出立ちをした女性である事は分かるが。
知り合い、だろうか。
この旅館で偶然にも会ったと言う事だろうか。だとしたらなまえの友人という事になるのか?そんな存在を聞いた事はないが。何にしても女性同士の会話は聞こえずとも盗み見するのは宜しくない。杏寿郎はすぐに顔を背けようとした。しかし。
「…!」
逸らす事が出来なかった。見えてしまったからだ。なまえの顔が酷く強張っているのが。あんな顔などなまえは滅多にしない。相手の機嫌を伺うように、視線は俯きがちだ。
怯えているのだと一目見て気付いた。
……だったら何で、アイツは、…なまえはテメェが知らねえって言った女に顔面ぶっ叩かれてんだ?あ゛ァ?
「まさか」
嫌な予感が頭を過ぎる。ハッと弾かれたように我に返ると杏寿郎はすぐに部屋を出た。
・・・
「ここで良いかしら」
「…」
付いてくるようにと言われて来たのは先程部屋から見下ろした庭だった。ゆっくりと散策をしたいと思っていた場所だが、こんな状況で来たくはなかったとなまえは顔を俯かせる。
なまえの表情が癪に触ったのか清菊は眉間に皺を寄せた。
「それで?」
「えっ…」
「私の事はあの方に聞いたの?」
「いえ…その、杏寿郎様はお忙しい立場の方ですので、」
「あっそう。まあ、あの方も貴女に何が起きようと興味なんて無いかしらね」
「…、」
ツンとした返答にも押し黙る。聞きたかったけれど、聞けなかったこと。まさかここで出会ってしまうなんて。
また手を上げられるのかもしれない。頬を叩かれるのかもしれない。そう思うと怖くて。なまえは顔を上げて堂々と話す事が出来なくなっていた。
あの日はたまたま通りかかった実弥が助けてくれた。しかし今は誰も居ない。杏寿郎もきっと今頃は風呂で身体の疲れを癒している頃だろう。
「貴女が聞いていないのなら私が誰なのか、私から教えてあげるわ」
「え…」
「私はね杏寿郎様の婚約者よ」
「っ!?」
目を見開いてなまえは顔を上げた。
婚約者、と言った。杏寿郎の婚約者。その言葉に心臓が嫌な音を立てる。胸の内がズシンと重くなる。苦しい。言葉が見つからない。そんななまえの様子に「フン」と一瞥したが、清菊はすぐに目を鋭くする。
「貴女が現れる前まではね!」
「え、」
「貴女自分が何をしたのかご存知無いでしょう!?」
途端に強くなっていく語気になまえは身体をビクリと振るわせた。
「一体あの方に何をしたの?貴女みたいな薄汚れた女を引き取って、あの方は私との婚約を解消なされたのよ!」
「解、消…?」
婚約をしていたが、自分の存在がきっかけとなりその婚約を破棄されたという事だろうかと考える。そんな話しなまえは聞いたことがない。誰からも、杏寿郎は勿論。先日会った弟の千寿郎でさえ清菊という名前を知らないと言っていた。彼が嘘を言っているようには見えなかった。
もし清菊の話しが本当ならば、杏寿郎の弟である彼がその名前を忘れるだろうか。
何かが、噛み合わない。
考え込んでしまったなまえの様子に清菊は眉を釣り上げる。
「なあに、その顔は。貴女もしかして私の言葉を疑っていらっしゃるの?」
「い、いえ、そういう訳では…!」
「大体貴女あの方の素晴らしさも分かってもいないで良く隣に立って居られるわね」
溜息混じりそう言われ、なまえはパチリと瞬きをする。
「杏寿郎様の…?」
「あの方の家がどれほど素晴らしいか貴女ご存知なのかしら?煉獄という家名が永きに渡り鬼狩りに尽力する由緒正しい一族である事」
煉獄の家がどれほど素晴らしいか。強く正しい家柄であるか、何代にも渡って継承されている立場である事。
つらつらと、どこか得意気に説く清菊の言葉をなまえは黙って聞いて居たが、ふと口を開いた。
「…それは、杏寿郎様の素晴らしさですか?」
なまえの問いかけに清菊は言葉を止め目を見開いた。不思議そうに、けれど眉を寄せてどこか怪訝な顔をするなまえに「なっ」と声を漏らした。
「あっ、貴女、私を馬鹿にしてらっしゃるの!?」
「そ、そうではありません!ただ…!」
清菊が言いたい事は分かっていた。
煉獄の家が如何に素晴らしい家系であるか。炎柱は代々煉獄の家から出ている事も、名門と呼ぶべき家柄であることも全部分かっている。
けれど、そうではない。
「杏寿郎様の素晴らしさは他にあります…っ」
「はっ、貴女のような者に何が分かると言うのかしら?」
何も知らないでしょう、という清菊の言葉になまえはギュッと唇を噛んだ。
何も知らないと繰り返し言われ、胸の内が熱くなった。悲しい訳じゃない。これは彼女に言われたままは何一つ返せない自分が悔しいんだと気付いた。
自分の事を見窄らしい、薄汚いと侮蔑されるのは構わない。それでも。杏寿郎という存在の事で言及されるのは黙っていられなかった。例え相手が自分よりも身分が上の令嬢だろうと、何だろうと聞き流す事が出来なかった。
「…、知って、います」
「何ですって?」
「し、知っています…っ…あの方の良いところはたくさん…!」
「なっ」
「杏寿郎様は、…杏寿郎様はよく笑いかけてくださいます!優しく、暖かくっ…!それから薩摩芋をお食事に出すとわっしょいと言って喜んでくださったり、お洗濯を干すのだって手伝ってくださいます!それに自分の休日を他の隊士の方の訓練に使ってしまうような、懐の深さもございます!」
良さなんてもっとある。一度言葉にしたら止まらなくなってしまい次から次へと出てくる。
こうして旅館に連れて来てくれた事は勿論、自分との時間を作ろうとしてくれる事も。夕暮れに不安を覚えた時、駆けてきてくれた事も、向けてくれる笑顔も、死なせたく無いと言って光の方へ導いてくれた事も、手を取って引いてくれたこと、自分の命を繋いでくれた事。
何度でも言う俺は君を死なせない
良いところなんて、素敵なところなんて。
ありすぎて言葉では到底、言い尽くせない。それは杏寿郎という人が、そこに居てくれるだけで成り立つような気がした。
あの方が、ただそこに在るだけで。
「あの方の…杏寿郎様の存在がどんなに嬉しかったか、!」
どんなに感謝しているか。
どんなに救われたか。
暖かく、心地よい、その優しさと強さに。
「あの方が向けてくださる十分過ぎる優しさに、私が、私がどんなに…っ」
救われたか、救いあげてもらったか。
言葉が詰まった。
涙がこぼれてしまいそうで、泣いてしまわないように必死に堪えた。ここで涙を溢してしまったら、負けてしまうような気がした。
煉獄という家が素晴らしいのはちゃんと分かっている。でもそれは彼の土台で、基盤のようなもので。その上に積み上がった素晴らしさは煉獄の家の物ではない。彼という人間が積み上げた掛け替えの無い、ただただ尊い物だ。
「杏寿郎様の素晴らしさは…!例え煉獄の家名を取ったとしても、…両手から溢れ落ちるほど持っていらっしゃいます…っ!」
両手では抱え切れないほどある。何も知らないなんて事はない。見てきたのだから。出会ったあの日からずっと。
「私はたくさん知っております!」
感情全てを叩きつけるように声を出した。だがなまえが言い切った瞬間清菊の瞳が怒りに染まるのが見えた。まるであの日のように、頬を叩かれた日のように鋭く睨みつけられる。
「貴女がっ、…貴女さえ居なければ私が知り得た事じゃないッ!!」
高く振り上げられた手。駄目だ、避けられない。そう覚悟すると、なまえはギュッと強く目を閉じる。
言いたい事は全て言った。清菊の気迫に負けたなんて思わない。頬を叩くと言うのなら叩けばいい。絶対に負けたりしない。睨み付けられても、叩かれても、絶対に譲らない。絶対に。
私にも譲れないものは、ある。
ぐっ腹を括ると、せめて衝撃で倒れる事がないように、全身に力を入れた。
その瞬間、後ろから伸びた手がなまえの肩に周りグッと引き寄せる。まるで守るように抱き込む腕が誰のものか、そんな事は聞かずとも分かっていた。
「っ……杏寿郎、さま…」
「…」
見上げる先には今ちょうど話題になっていた彼が居て、自分はその彼の胸元へと引き寄せられている。
なまえの身体を右腕で抱き寄せ、左腕で清菊の掌を弾くように受け止めた杏寿郎。言葉一つ発さない彼の瞳は僅かに怒気を孕んでいた。怒っている。そんな彼を見るのは初めての事だった。
「なまえ、無事か」
なまえを抱く腕に力がこもる。瞳は変わらず真っ直ぐ清菊に向けられており静かな怒りが灯っている。ゾッとするほどの力強い瞳。ただただ見つめてくるその強さに清菊は手を引っ込めると思わず後ずさった。
「煉獄、杏寿郎様…」
ぽつりと呟いた清菊の言葉に杏寿郎は眉を顰める。
なまえは少し胸がざわついた。解消されたとしても婚約していた関係だ。きっと自分には立ち入る事が出来ない二人だけの思いがあるのだろうと。そう思うと感情が忙しなかった。
「君は、」
「杏寿郎様、私でございます、清菊でございますっ」
「…」
眉を顰めたまま清菊を見つめると杏寿郎はぽつりと呟いた。
「君は、誰だ?」