誰だ、君は?

杏寿郎の呟きになまえは彼の腕の中で目を見開いた。問われた本人は呆気に取られた後、顔が一気に赤く染まる。


「なっ!!私です、清菊でございます!」


必死に訴えかける声が耳に届く。なまえは少しだけ身体を離し杏寿郎を見上げた。眉を顰め、大きな瞳はパチリと瞬きを繰り返すその様子を見てなまえまで呆気に取られてしまう。

この様子だと本当に知らないのだろう。今の杏寿郎は先程とは少し違い怒りの中に僅かに困惑しているようにも見えた。

まさか存じていないとは思わなかった、と言葉を失う。杏寿郎が知らないというのならば一体何の為に清菊はなまえを捕まえたのか。なまえは何の為に彼女に顔を張られたというのか。


「ま、まさか本当にご存知無いと言うのですか!」

「すまないが君と俺は初対面だ!」


杏寿郎の言葉に清菊の顔がグシャと歪むのが見えた。なまえは「あ、」と小さく声を漏らす。

彼女にどういう経緯があったのか今は分からないが、傷ついているのが明白だったからだ。


「…あ、の杏寿郎様…」

「…く、家の、…男爵家の娘でございます!!」


なまえの言葉を遮る様に清菊が叫んだ。

彼女にとって初めての事だった。自分の存在を認知されていない。どころか、なまえを抱き寄せ、まるで自分から守る様に振る舞う杏寿郎を見て、自尊心が崩れ落ちていく様な感覚がしていた。

清菊の言葉に杏寿郎は顰めていた眉をピクと動かすと「よもや、」と呟いた。


「…そうか君は、あの家の御息女か」


ようやく思い当たる節があったのか。「そうか」と数回噛み砕くように呟いた。不安気に見上げるなまえと目が合う。ふっと表情を緩めると身体を離した。


「なまえ、君は先に部屋に戻っていてくれ」

「あの、ですが、」

「彼女は俺に話しがあるようだ」


不安が胸を覆う。

杏寿郎の言う通りにしなければという思いと、二人で何を話すのだろうか、という不安。そんな事自分が立ち入って良いものではないと分かっているのに。

清菊という女性と杏寿郎を二人にするのは、何故か嫌だった。

不安そうにするなまえを見て杏寿郎は眉を下げて微笑む。浴衣の上に羽織っていた羽織を脱ぎなまえの肩に掛けた。


「杏寿郎さま…?」

「身体が冷えていた。そのままでは湯冷めして風邪をひく。羽織っていなさい」

「でも杏寿郎様は、」

「俺は大丈夫だ」


浴衣一枚になってサラリと笑う杏寿郎になまえは「…はい」と控えめに頷く。そんななまえの頭をぽんと一度撫でると、背中を押し「大丈夫だ、行きなさい」と一言。

後ろ髪を引かれる思いで、数歩進んだあと振り返る。杏寿郎はまだなまえを見ていた。彼の奥に酷く顔を歪めた清菊がいる。そっと視線を落とすとなまえは軽く一礼をして、その場を後にした。



・・・



本当は泣いてしまいそうだった。清菊が手を振り上げた時、杏寿郎が駆けつけてくれた時。

力強く、大きな手に守られた時。感じた安堵感で涙が溢れそうだった。


一人先に部屋に戻るとなまえは、大きく溜息を吐きながらその場にへたり込んでしまった。

力が抜けてしまったのだ。突然清菊に捕まり、そして自分は彼女に言い返した。それなりに声も出してしまった。なまえにとって初めてだった。あんな風に誰かに対して言い返す事も、声を荒げる事も。


「…、」


あんな事、言うべきではなかったのではないかと思った。

杏寿郎の事を何も分かっていないと言われて、黙っていられなくなってしまった。知っていると言わなければ気が済まなかった。清菊に言い返さないで黙ったままでいるのが正解だったとは決して思わない。思わないけれど。


貴女がっ、…貴女さえ居なければ私が知り得た事じゃないッ!!


言葉が胸に刺さった。

自分がいなければ彼女が知る事が出来たのかもしれない、杏寿郎の優しさ。先程肩にかけてもらった羽織りをそっと脱ぐ。こういう優しさも、本来であれば婚約者である彼女が受けていた物かもしれない。

だと言うのに。杏寿郎から「誰だ?」と問われて、傷付いた顔をした清菊の顔が頭から離れなかった。出会い頭に手酷い目にあったというのに。

自分は悪くないと言い切る事が出来ないなまえは胸の重たさを感じながら再度溜息をついた。


私が、いなければ。


それから間も無くした頃だった。杏寿郎が部屋に戻ってきたのは。スッと開いた襖になまえすぐに顔を上げ立ち上がった。


「すまない待たせてしまったな」

「っ、いいえ!私は大丈夫ですっ…あ、あの羽織りを」


先ほど貸してもらった羽織りを杏寿郎に差し出す。

ふっと目が合うと杏寿郎が何か言いたげな顔を見せる。何の話しをしたいのか分かっている、なまえとしても気になっているのはただ一つだ。けれど同時にその強い瞳に見つめられると、気持ちがざわついてしまい仕方なかった。


「私は、…何かしてしまったのでしょうか」


そう呟くのが精一杯だった。二人の関係を聞くのが怖い。あの屋敷に居られなくなるかもしれない。怖い。

清菊の前を離れても不安そうに声を震わすなまえに杏寿郎はたまらず声を上げた。


「違う!」


なまえの顔が陰ると、悲し気な表情を見ると、杏寿郎はどうしようもないくらい、胸が痛くなる。


「なまえ、俺は君と話しがしたい」

「え、」

「ずっと話したいと思っていた事がある。君に聞きたい事もある」


その視線にどきりとした。どんなに怖くとも話さなければならない事は分かっている。柔く己の唇を噛んだあと「はい、」となまえが返事をしようとした時、再び部屋の襖が開いた。



「あらぁーー!あらあらまあまあ!いらっしゃいませ、杏寿郎様!」



スパンッ!と音を立てて開かれた襖。

今の二人の空気には不釣り合いなほど大きく明るい声に、杏寿郎となまえは思わず目を見開く。襖の向こうに立っていたのは恰幅がよい女性。この旅館の女将だった。

女将の後ろには食事の膳を持った女中達もいる。

一体何が起きたのか、と二人は目をパチリと瞬かせる。


「お久しぶりですねえ!前はこんなに小さかったのに大きくなられて!瑠火様が亡くなってからめっきり来られなくなってしまっていたので心配してたんですよぉ!!!」


矢継ぎ早にそう言い「さあアンタたち!お食事の準備をして差し上げな!」といって女中達を部屋に招き入れる。

呆気に取られてしまったのは杏寿郎となまえだ。この女将、とんでも無く元気がよく、口を挟む暇がないほど言葉が早い。

だが流石に今は食事よりもなまえとの時間を優先したいと言うのが正直な心情だ。食事を用意してもらって申し訳ないが一度出直してもらおうと頼もうとしたが、それよりも早く女将の早口が再び始まってしまった。


「もう本当にお元気にされているのか心配でしたが、ご無事で何よりでしたわあ!!それにこんなに可愛らしい奥方までお連れになられて!!」


「は?」
「え?」


女将の言葉に二人して言葉を詰まらせ、そしてお互いに顔を見合わせる。

なまえは杏寿郎と目が合うと恥ずかしそうに頬を赤らめ、そして申し訳なさげに顔を俯かせた。弾かれたように女将へと振り返った杏寿郎が慌てて口を開く。


「女将殿!少し誤解がっ」

「誤解も何もあるものですか!こんな可愛らしい女性と二人連れ添って!変に遠慮などしないでくださいな!おほほほ!」


全く聞く耳を持たない女将にあの杏寿郎ですら狼狽える。まだ何も解決していないというのに夫婦と言われ言葉が見つからなくなっていた。

その間にも女将は「うちの旦那が二人一緒の部屋にしたけど大丈夫だったか、なーんて心配していてね!若夫婦に一つの部屋を当てがってなにが悪いって言うんだか!あれは察しが悪くていけないねえ!野暮ったらないよ!」と言葉をどんどん溢れさせていく。

女将が言えばいうほど、なまえの顔の赤みが増していく。


「さあさあさあ!お二人ともお料理の準備が整いました!どうぞ暖かいうちに召し上がってくださいな!」


にこーーっ、と笑う女将。食事の用意を整えてくれた女中たちも女将とよく似た笑顔を浮かべている。今日の夕食について食材の説明やら、調理方法やら説明してくれるがほとんど頭に入ってこない。

なまえはチラリと杏寿郎を盗み見る。彼にしては珍しい戸惑った横顔。奥方と言われて上手く否定する事も出来ず、恥ずかしさばかり感じて顔すら上げられないでいたが、意を決しゆっくりと口を開く。


「…め、召し上がりましょう、杏寿郎様」

「だが」

「せっかくご用意して頂きましたし、それに」


それに、と呟くとなまえは一瞬言葉を止めて、それからはにかんで見せる。


「…それに、今夜は任務が無く一緒に過ごせるものだと、私はそう思っております。ですから私とのお話しは食事の後でも良いのです」

「なまえ」

「それに私は杏寿郎様には温かい食事を召し上がって頂きたい。長い任務の後なんですから、尚更」


まるで諭すようにそう言って、小首を傾げて微笑むなまえ。彼女がそうやって微笑むのは少し狡いと言いたくなる。この微笑みは杏寿郎に有無を言わせなくなる。彼女がそう望むのなら、とそんな事を思ってしまう。


「…うむ、分かった」

「はいっ」


嬉しそうにそう頷くと、なまえは女将達に向き直り「お茶を頂いてもいいですか?」と声をかける。女中達に用意させると女将が言うが「お茶くらい手伝います」と言って女将達と一緒に部屋を後にしようとする。

一度杏寿郎に振り返り、行ってきますとでも言うように会釈をするのが彼女らしさだ。


「なまえ」

「、はい?」


呼び止めて、手招く。不思議そうに杏寿郎の傍に寄ったなまえに笑みを溢すと、耳元にそっと唇を寄せた。


「次に俺が君を呼んだら、その時こそは話そう。本当ならば優先したいのは君だ、今この瞬間も」

「…っ」

「さあ行ってきなさい」


そう言って笑う。なまえはパチリと瞬きをして驚いて見せた後、緩く笑みを浮かべ今度こそお茶を取りに女将達の後を追い部屋を出た。


「…」


仕切り直し、とは言えど。中々うまく事が運ばないな、と眉を寄せる。彼女の言う通り今夜は一緒に過ごせる事が唯一の救いでもある。

一人部屋に残った杏寿郎はふと自分の手を見つめた。

先程は清菊から庇う為とはいえなまえの身体を自分の元へ引き寄せたが。なまえは見た目以上に、触れたらもっと細く感じてしまった。

なまえは自分のことよりも他者を大事にする節がある。今もそうだ。杏寿郎と話したいという気持ちを抑えて、食事の用意をした女将達の事を、そして何より任務後である杏寿郎を思いやった。

そういえば彼女から我儘など聞いた事がない。

自分の事よりも、杏寿郎を。それがなまえだ。


「あ、あの…杏寿郎様、お茶を貰って参りました」

「ああ!ありがとう、食事にしよう!」


なまえがこれ以上いらぬ不安を感じなくて良いようにするには、傷つかないようにするには。自分が出来る最善を考えた。


「お互い顔を見て食事をするのは久しぶりだな!」

「えっ、ああ確かに…そうでしたね」

「食事が君の料理でない事は少々残念だが!」

「私のよりきっと、ずっと美味しいですよ」


「ふふ」と微笑んだなまえを見て杏寿郎はホッと安堵する。そんな杏寿郎の視線に気付いたなまえもまた眉を下げて微笑む。

そうだ、彼女がそうやって微笑む瞬間は他には変えられないものだと気付く。


「そんな事はない。それに俺は君の作る食事がとても好きだ」


杏寿郎の言葉になまえは照れたように笑ってみせる。その表情を見ているとこちらも絆される。

逸るな。話しはできる、急くな。そう心の中で繰り返す。最善を尽くせ、彼女のために。



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