「なまえこちらにおいで」


食事をし終え、膳を片付けた後不意に名前を呼ばれた。広縁に座った杏寿郎がなまえを呼んだのだ。


「はい」


なまえは静かに返事をすると、杏寿郎の元へと歩み寄りすぐ傍に腰を下ろした。二人で同じ方向を向いて座った広縁。窓の向こうには月が見えており、すっかり夜もふけてしまった。

食事を優先して良かったかもしれないと思った。

少し時間を置いたからこそ、気持ちが落ち着く事ができた。どこかピリピリとしていた空気は無くなっていたように思えたからだ。


「…」


隣に座った杏寿郎をちらりと見上げる。月明かりが彼の髪に反射して、いつもより静かな煌めきがあるように見えた。少し胸が高鳴った。それは緊張していたのもある。これから二人で話す内容に。


「まず君に謝らせてほしい」

「えっ、」

「すまなかった」


そう言って杏寿郎は身体の向きを変えるとなまえに向かって深く頭を下げた

戸惑ったのはなまえだ。「杏寿郎様っ、やめてください」と言い慌てる。しかし杏寿郎が頭を上げる事はない。


「俺の不甲斐なさが君を傷つけた」

「私は何もっ」

「なまえ。君が清菊殿に会ったのは今日が初めてではないだろう」


杏寿郎の言葉になまえは押し黙る。

ゆっくりと頭を上げた杏寿郎は真っ直ぐになまえを見つめた。炎色の瞳は全てを知っているような色をしていた。前に清菊に会ったことも、彼女に頬を叩かれた事も。全て。


「それは…」

「話してくれて良かったんだ、遠慮などせず言ってくれて良かったんだ」


言い淀んだなまえの頬に杏寿郎は手を伸ばしそう言った。

するりと撫でたのは左頬。先日清菊から酷く叩かれた場所だ。優しく触れる杏寿郎の指に驚くが、それよりも彼が眉を寄せ辛そうに表情を歪めるものだからそちらに目を奪われてしまった。するりと何度もなまえの頬を撫でるその指先は暖かい。


「大丈夫です、…私は、本当に」

「なまえ」

「私よりも…杏寿郎様にそんな顔をさせてしまう方が、切ないです」


胸の前で両手を組み、必死に訴えてくる彼女の瞳に嘘は無い。そういうところだ。自分の事よりも、杏寿郎を。

彼女の言葉に杏寿郎は困ったように微笑むと頬に触れていた手を収め、また視線を月へと向けた。


「清菊殿、彼女の家はそれなりに名のある名家でな」

「…」

「彼女の祖父が鬼に襲われた際、それを助けたのが当時柱だった俺の父だ」


なまえは杏寿郎の言葉を黙って聞いた。


「父の技に大層感動された祖父殿は、自分の産まれたばかりの孫娘を煉獄に嫁がせたいと申し出たそうだ。当時俺はまだ幼く、千寿郎すら産まれていなかった年頃だ。そしてその孫娘というのが清菊殿だ」


杏寿郎の横顔を見つめながら、なまえの中でようやく清菊という存在が明確なものになった。華やかな出立ちだとは思っていたが、生まれも育ちもしっかりとした名家の出身。

自分とは天と地ほどの差がある。


「杏寿郎様は、その縁談を…」

「母が断った」

「え、」

「俺の相手は俺自身に決めさせるべきだと、そう言って断った」


驚いたように目を見開くなまえに杏寿郎は言葉を続ける。


「母が亡くなりそんな話し自体も遠い昔のものなっていたが、俺自身には僅かに記憶があった。だから鬼殺隊に入隊した後、清菊殿の家へは挨拶に行っていた。俺自身がしっかりと断りたかったからだ」

「…、」

「俺と会った祖父殿は申し訳ない、と笑っていたよ。あれは勢いで言った言葉だったと」

「では清菊さんは、なぜ…」

「彼女はつい最近まで知らなかったそうだ」

「えっ」

「幼い頃から今まで、俺の婚約者であると思っていたらしい。とうの昔に断られていた事も、俺が改めて断りに赴いた事も、何一つ知らず」


そうして初めて自分が杏寿郎の婚約者ではないと知らされた時、同時に屋敷に居るなまえ事も知ったのだ。婚約破棄の理由を説明して欲しいと、彼の住まう屋敷に自ら赴き、その時なまえの姿を見つけた。

この女のせいで自分は婚約を破棄されたに違いない。

そう早合点し、なまえの素性を調べ、そしてあの日声を掛けたのだ。


「つまり、清菊さんと、杏寿郎様は…」

「全くもって初対面だ」


清菊を見て「誰だ?」と呟いた意味がようやく分かった。

彼の弟である千寿郎が清菊の名前を知らなかった意味も、全てが繋がった。


「清菊殿にも申し訳ない事をした」

「ですが、杏寿郎様は何も…!」

「ああ…そうだな。間が悪かったと言うべきかもしれない事だ。それでも傷付けた事に変わりないだろう」

「…」

「…だが、そうだな。俺は申し訳ないと思ってはいるが、同時に彼女は悪くないとは思っていない」

「え…?」

「なまえにした事は許し難い」


とても強い言葉だった。

声を張ったわけではない。怒気を孕んでいる訳でもないが。それでもなまえにした行為を許さないと言う杏寿郎の言葉は、どんな力でも捻じ曲がる事のない芯を持っていた。

杏寿郎の言葉を聞き、なまえは清菊の事を思い浮かべた。

どんな気持ちだったのだろう。理由も分からず、自分の婚約は既に解消されていたと知らされ。その婚約者の屋敷には既に別の女がいると知った時。一体どれほど悲しい思いをしたのだろうか。そう思った。


「あの後…その、清菊さんは」

「彼女には全てを話した上で、なまえは何もしていない事も伝えた。婚約破棄の件には無関係だと。それから、もう今日のような事はしないようにとも伝えておいた」

「…ありがとう、ございます」


そう呟いたあと、なまえはきゅっと唇を噛んだ。今この瞬間。杏寿郎が全てを話してくれた今、自分も胸の内にずっと溜まっていたものを伝えなければいけないような気がした。


「杏寿郎様」

「何だ?」

「私はあの方に初めてお会いした時、自分はとんでもない事をしてしまっているのではないかと不安を感じました…」


私は、何かしてしまったのではないか。その言葉が全てだった。


「なまえ、」

「私は杏寿郎様に助けて頂いて、お屋敷にまで住まわせて貰って…その優しさの中で生きております。でも清菊さんと出会って、もしかして私は誰かの未来を踏み躙っているのではないか、誰かの不幸の上に成り立っているのではないか、とそんな風に思ってしまいました」


結局、今回の件については清菊の勘違いだったが。だがそれは結果論だ。もしも本当に彼女が婚約者だったならば傷付けただろう。自分があの屋敷に住まう事で傷付く人がいるのならば。それならば出て行くべきは、自分だ。

いつまでもいつまでも、その十分過ぎる優しさを享受している。秀でた物など何もない。返せる物だって何一つないというのに。

それなのに杏寿郎と清菊を二人に胸をざわつかせて。勝手だ。自分は勝手だ。


「私は、我が儘になったのかもしれません…」


杏寿郎は恩人で掛け替えの無い存在。そこだけは決して変わる事はない。


「杏寿郎様、もしも私が我が儘を言ったときは叱ってください…貴方を困らせてしまう時は、必ず諫めてください」

「…、」


胸が、痛い。それでも言わなければ、言わなくては。


「これから先、…わ、私を不要だと感じた時は、……っ、わたしは、屋敷を出る事も考え、」

「ッ、俺はそんな事は思わない!」


突然響いた大きな声になまえの身体がびくりと跳ねた。驚いて顔を上げると酷く真剣な顔をした杏寿郎と目があった。


「君を不要だと思わない!俺はそんな事を一度たりとも考えた事はない!」

「杏寿郎、さま…」

「君は自分を我が儘になったと言ったが、俺からしたら真逆だ!君は素直で濁りがない!そういう女性であると知っている!」


今まで静かに語っていた杏寿郎が途端に声を張りなまえと向き合う。真っ直ぐに投げ掛けられるその言葉に、なまえは何一つ返事をすることが出来なかった。


「これから先、不安を覚えた時は直ぐに俺に言ってくれ!屋敷を出るなどそんな事を考えるよりも前に!俺はこんな性格だ!君の感情の機微に気付けぬ事があるかもしれない!」


杏寿郎の言葉になまえはふるふると静かに首を振った。そんな事はないと。初めて出会った時、杏寿郎が自分の感情の機微に気付いてくれたから、死のうとしていたことに気付いてくれたからこそ、今もこうして生きているのだと。

そんななまえの様子に杏寿郎は笑みを一つ溢すと、声を落とし静かに語りかけた。


「なまえ、知っておいて欲しい事がある」

「はい…、」

「この旅館に来る時も言ったが、一つは俺はいつも君の身を案じている事。もう一つは、今言った事だ。俺は君を不要だとは思わない。これから先もだ」

「っ…」

「そしてもう一つ。俺は君が泣く事が何よりも痛い。君が辛いと感じる事が苦しい。忘れないでくれ」


そう言って微笑んだ杏寿郎になまえはコクリと頷き「はい…っ」と震える声で返事をした。その返答に満足したのか杏寿郎は「うむ!」と少し明るい声を返す。空気がどこか落ち着きを取り戻して行くような気がした。

ふと目が合うとなまえが眉を下げて微笑む。はにかむような笑みを見るとつられてしまい、杏寿郎も笑みを浮かべた。


「せっかくの機会だ。聞いてもいいだろうか」

「はい?」


少し、そわそわとした杏寿郎の様子になまえはキョトンとする。

なまえが杏寿郎と清菊の事で胸をざわつかせていたように、また杏寿郎も胸の内で落ち着かなかったことがある。

清菊の事を話すよりも、これを聞く方が緊張するような気がした。


「君は、……不死川と親しいのか?」

「不死川様、ですか?」


杏寿郎の質問になまえはコテンと首を傾げた。


「不死川様はお優しい方だと思っております。清菊さんと初めて出会った時も助け舟を出して頂いて」

「むっ…実を言うと君が清菊殿と前に会った事は不死川から聞いていた」

「そうでしたか」


「あの場に居合せましたから、ご心配をおかけしてしまったのですね」と微笑みながらそう溢すなまえ。心配を掛けた、と言う割には杏寿郎に掴みかかってきた時の実弥は勢いがあったと言うべきか。ただ心配をしていただけとは思えぬほどの気迫だった。


「ああ、いや…それだけではなくだな」

「え?」


二人が逢引きしていた、など。子供の戯言だと言われればそれまでではあるのだが。

言い淀む杏寿郎の様子をなまえはしばらく不思議そうに見つめていたが、ハッ!と顔を引き攣らせた。


「杏寿郎さま、あの、…ま、まさかご存知、なのでしょうか…?」

「?」

「私が、その不死川様に、その」


もごもごと言葉を濁すなまえの頬はどこか赤い。その様子に杏寿郎「よもや」と胸が騒つくのを感じた。まさか。いや本当に二人の間には何かあるのかと。胸をざわめかせた。

が、しかし。



「わ、私が先日不死川様に豆腐を掛けたこと…!」



その一言で胸のざわめきは一気に静まった。

豆腐?と今度は杏寿郎の方が首を傾げた。


「何の話しだろうか。俺は先日不死川と屋敷に居た事について何だが、」

「あの、ですからそれは私が不死川様のお顔に豆腐のお水を浴びせてしまったから、では…?」

「…」

「…」


お互いに沈黙。しばらく黙り込んだ後、なまえの顔が頬だけでなく耳まで赤くなっていくのが見てとれた。


「ま、まさか……ご存知なかった、のですか…」

「初耳だ」


その瞬間なまえが自分の両手で顔を覆い縮こまる。まるで恥を耐えるかのように小さくなっていく。


「ちっ、違うんです…決してわざとではなく…!」


「杏寿郎様のお屋敷に住まう私が、他の柱の方に無礼を働いてしまい申し訳ございません」としどろもどろに言うなまえ。

つまり、実弥が屋敷に居たのはなまえが豆腐を掛けたからで。あの少年はたまたまその場を見たと言う事だろうか。それはつまり。


「誤解、と言う事か」

「ご、誤解と言いますか…あの、豆腐を掛けたのは事実で、その、決して隠そうとしていた訳ではないのですが…!」


あわあわ、と言葉を探すなまえを見ていたら何とも言えず笑みが溢れた。そうか、誤解だったかと安堵すると同時に想像してしまった。なまえの溢した豆腐を顔面から受け止めた実弥を。


「くっ、」

「杏寿郎様…?」

「ははは!そうか!君があの不死川に豆腐を!そうか!」


楽しそうに声をあげて笑う杏寿郎を見てなまえはまた「うっ」と言葉を失い、ジリジリと頬に熱を持つ。


「そ、そんなに笑わずとも…っ」


羞恥ですっかり縮こまってしまったなまえが消え入りそうな声で呟く。

誤解だった。なまえと実弥の関係は深いものではなかったのだ。そう思うとどうにも笑みが溢れてしまう。あれほど悩んだと言うのに、まさかそんな顛末であったとは。


「すまない!想像したら面白くてな!」

「私こそ、黙っていて申し訳ありませんでした…!」


ひとしきり笑い終えて、杏寿郎はフウと息を吐いた。視線は窓の外の月へ。久しぶりに穏やかな夜だった。柱ともあろう者がと思われるかもしれないが、この瞬間の為に走り回り自分の管轄の地域の鬼を殲滅したのだと、そんな事を考える。


「君が、屋敷を出るか…」


なまえが先ほど言った言葉を思い出し、ふと想像してみようと目を閉じた。いつか出て行く日、なまえがいなくなりあの屋敷から人がいなくなる日。そんな日を想像した。

だが。その瞬間、杏寿郎はフッと笑みを溢した。


「想像出来ないな、俺には」

「杏寿郎様…」

「俺の当たり前にはもうなまえがいる。今更どう考えようと無理だ」


柔らかくそう言った杏寿郎になまえは顔を俯ける。彼女の頬は心なしか赤く火照るように染まっていた。


「杏寿郎様は、お優しいですから…」

「はは、俺は君が思うほど優しくない人間かもしれないぞ!」

「またそんな嘘にもならない事を仰って」

「本当だ。厳しくなる部分もある」

「そうなんですか?」


なまえは不思議そうに杏寿郎を見つめる。そんななまえの視線に気付き杏寿郎は眉を下げて微笑んだ。


「君の事になると、ままならない事がある…と言うだけの話しだ」


そう答えた杏寿郎になまえは少し照れ臭そうに、はにかんで見せた。






君には申し訳ない事をしたと思っている。

双方の家の事と言えど、婚約などと言う言葉で縛り、君の時間を無駄にした。その件については詫びても納得はいかないだろう。

だが。それを重々承知した上で、君に一つ言いたい。

もしも今後、なまえに今回のような仕打ちをしたならば、俺は君を許さないだろう。

覚えておいてくれ。



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