折角だから風呂に入り直してこよう。
と言って部屋を出て行った杏寿郎。どうやらこの旅館は遅い時間まで温泉を開けているらしい。折角の温泉旅館だ。杏寿郎には心ゆくまで満喫してもらいたいと思った。
なまえはと言うと一人部屋に残り、夜の支度をしていた。布団の用意をする、と言ってやって来た女将達が二人の布団をくっつけて敷こうとするのを何とか止めて、自分でやるから大丈夫と言ったのはつい先程の事だ。
奥のなまえの部屋と、手前の杏寿郎の部屋に布団を一組ずつ敷き終え、溜息を吐いた。
今日は忙しい日だった。
歩いて旅館に来た事も勿論あるが、何よりも清菊の事だ。あれだけ怖いと感じていた存在が今は怖いどころか、少し寂しさすら感じてしまうのは、杏寿郎が助けてくれたお陰だろう。
彼女にも彼女の事情があった。やり方は間違っていたが、自分に向けた感情は分からなくもないと思った。憤り、嫉妬、自尊心。それらが彼女を狂わせたのかもしれない。
広縁の窓辺の淵に腕を預け、頭を乗せる。こんなだらけた姿は杏寿郎様には見せられない、と心の中で考えた。
君を不要だと思わない!俺はそんな事を一度たりとも考えた事はない!
思い出した言葉。胸が少しむず痒さを覚える。あんなにも自分を肯定してくれる人がいる。ほんの少しの事で、あんなにも声を荒げてくれる人がいる。
「…」
出会った時は、死のう等と考えていた自分があの優しさの中で生きていくことを望んで良いのだろうか。屋敷にいる事を許してくれる。存在を当たり前だと言ってくれる。その優しさの中で。
俺の当たり前にはもうなまえがいる。今更どう考えようと無理だ
どこまでも優しい人。誰よりも力強い人。暖かい人。あの人の為ならば何にでもなれてしまいそうな、何でもしたくなるような、そんな気すらする。
きっと嬉しいんだ。今は亡き両親のように自分の存在を認めてくれる人が、まだこの世にいた事が。そんな人に出会えたことに、感動しているのだ。
なまえはホウと溜息を吐くと、目を閉じた。
杏寿郎様が戻ってくるまで起きていたい。待っていたい。先に休むことはしたくない。戻ってきたらきっと音で目を覚ますから、いまは少しだけ目を閉じよう。少しだけ。
・・・
なまえは自分が思っていた以上に不安定であると感じた。
自分の存在に自信がないように見えた。不要と感じたならその時は出て行くなど、冗談でも言ってほしくはない言葉だった。
フウと溜息を吐くと杏寿郎は浴衣を羽織り帯を締めた。夜更けに入る露天風呂とはなかなか趣のあるもので。考え事をするには打って付けだったと言ってもいい。静かな夜、月を見上げながら温泉に浸かり考えたのはなまえの事だ。
なまえの笑みは柔らかい。眉を下げてどこか照れ臭そうに。静かに優しく微笑んでくれる。
本当はそうやって笑うのだと知ったのはいつだったか。
初めて会った時は死を覚悟しており、静かで無機質、そんな悲しくなるほど綺麗な笑顔だったからこそ。本当の意味で彼女が微笑んでくれた時、自分が呆気に取られてしまったのを今でも覚えていた。
杏寿郎様の素晴らしさは他にあります…っ
決して盗み聞きをするつもりは無かった。
そんなつもりは無かったのだが清菊相手に必死に声を張り訴える、そういう彼女を見るのは初めてだった。きっと怖かっただろうに。元からそんな性格をしていないのだ。他者に対して強く言えるような、そんな性格ではないと知っているからこそ。
初めて彼女が声を張ってまで己の事を話すその姿に、胸を打たれてしまった。
「すまないなまえ、つい長湯をして、……」
部屋に戻り戸を開けつつ言おうとした言葉が詰まった。広縁にいる彼女が自分の腕に頭を預け、すよすよと寝息を立てていたからだ。
しばらく呆気に取られたあと、杏寿郎は静かに笑みを溢す。
きっと疲れていたのだろう。随分と歩かせてしまったし、今日は色々あった。先に眠っていても構わなかったと言うのに。
それぞれの部屋には既に布団が敷かれている。彼女は浴衣姿で、もう寝る支度も整っていた。それでもここで寝ているという事は、自分を待とうとしてくれたのだろうか。
「……前にも、あったな」
似たような事が前にもあった。
あの時は杏寿郎が他の隊士の訓練の為に外に出ていて、なまえは屋敷にいた。あの日、炎の羽織りを膝に乗せて眠ってしまっていた彼女と、今の姿が重なって見えた。
あの時の自分は訓練後で汗だらけで彼女をどこかに寝かせる事も、肩を貸す事も出来なかった。だが今日ならば。
そっとなまえへと手を伸ばすと身体を抱き寄せる。片方の腕は彼女の背に。もう片方の腕は膝の裏に差し込むとそっと抱き上げた。彼女の身体は驚くほど軽かった。自分と比べ、筋肉の無い細い身体だ。抱き上げても瞼一つ動かさないなまえの様子に眠りが深い事を察した。
「…、っと」
行儀が悪いのは承知しているが、なまえの部屋に敷かれた布団の掛布を足で捲り上げる。そこにゆっくりと彼女の身体を寝かせてやると杏寿郎は傍に腰を下ろした。
人の寝顔を盗み見するなど褒められたものではないな、等とそんな事を思いながらも。月明かりに照らされたなまえの顔を見つめてしまった。
共に過ごすようになってどれ程経ったか。
なまえの事をまだ理解できていないと実感する。清菊の存在を知って、なまえが自分の立場を不安に感じていた事は勿論。清菊に言い返すその姿も含めて、なまえという人間についてまだまだ初めて知る部分があるという事だ。
「君は知らないだろうな」
杏寿郎様の素晴らしさは…!例え煉獄の家名を取ったとしても、…両手から溢れ落ちるほど持っていらっしゃいます…っ!
震える声を必死に張って。あの言葉にどれ程驚いたか。どれ程、胸を打たれたか。
私はたくさん知っております!
どれ程、君を抱きしめてしまいたくなったか。
君がたくさん知っているとそう言ってくれるなら、同じように知りたいと思う。自信を持ち君を知っていると言い放てる日がくる事を望む。何一つ見落としたく無い。何一つ取り零したくない。どんな姿でもどんな思いでも、残さず知っていきたいと思う。
手放したくない。誰にも譲れない。譲りたくない。
お前、何の為になまえを傍に置いてんだ?
ふと浮かんだのは天元の言葉。あの時は言葉に詰まり何も返す事が出来なかった。死なせたくなかった、生きて欲しいと感じた。それらも嘘偽りの無い本当の理由だ。
だが今もなまえを屋敷に置いているのは。藤の家紋の家や、彼女の拠り所となる場所を探そうともしないのは。
…ああ、そうだ。もう気付いている。
そこまで疎くはない。この気持ちに気付かないほど馬鹿ではない。
俺は、そうか、俺は、
「俺は、君が愛しいのか」
いつから。初めて会った時か、それとも共に過ごす内にか。
いつもなまえを見ていると胸に込み上げてくる気持ちがあった。もどかしさにも似ているそれは時にはこそばゆく、時には焦げ付くように熱く胸に迫り上げてきていた。言葉にする事は出来なかったのだが。アレはこういう事だったのかと実感する。
ジワジワと広がり、胸の内を満たすようになったこの感情は。いつの間にか大きく膨らんで、重さすらあるこの気持ちは。
「なまえ、君の事を好いているのか」
彼女を恋しく、愛おしく想うからこそ。
笑っていて欲しいと思う。危ない目にあっていないか、泣いてはいないか心配してしまう。悲しい思いなどさせたくない。どんなものからも守ってやりたいと願う。
幸せであってほしい、幸せにしてやりたいと望む。
頼り無さげなその手を繋ぐ事が出来るのは自分だけだと、そう感じていたい。
「…儘ならない」
本当に参ったと、手を上げて降参を宣言したくなる。気付いてしまってはもう戻る事が出来ない。無かった事にはもう出来ない。気付いたら駄目だ。後には引けない、気持ちを抑えられなくなる。
君が好きだ、と今はまだ伝える事が出来ない言葉を。気付いたばかりの想いを胸の内で呟く。
こそばゆく、暖かく、切ない。そんな感情を。教えてくれたのは間違いなく彼女だ。
「…、」
立ち上がると杏寿郎は自分の袂に手を差し込み隠しておいた包みを取り出す。面と向かって渡す事は出来なかったが、こういう渡し方でも良いのかもしれないと思い、なまえの枕元にそっとそれを置いた。
気に入ってくれるだろうか。そんな事を考えながら隣の部屋へと移る。襖を閉める際、もう一度彼女の顔を見た。規則的な静かな寝息に穏やかな寝顔。ふっ、と笑みを溢すと今度こそ襖を閉めた。
大切にしたい。この感情の事は勿論、何よりも彼女を。
なまえは我が儘を言わず、自分の事を後回しにしようとする節があるからこそ。
なまえ自身が見落としてしまいそうになる感情を全て拾い上げ。
愛したいと、そう想う。