パチリと目を開けると窓の外から見える空はまだ暗かった。
自分の寝ている場所が広縁ではなく布団の上だと気付くとなまえは羞恥で縮こまった。誰がここまで運んでくれたのか聞かずとも分かってしまうからだ。
なんてお礼をすれば良いのか。運ばれた記憶が少したりともない。まさかただのうたた寝のつもりが自分の眠りがそんなに深かったなんて。はあ、と溜息をつく。
淡い菫色の空を見つめた後なまえは悩んだ。まだ時間はあるが起きてしまおうか、それとももう少し寝ていようか。いつもの屋敷ならば起きている。朝早くだとしてもやる事はあるからだ。けれどここは旅館でいつもの家事等する事はない。それに何かしようと思っても杏寿郎の眠る部屋を通らなければならない。
これは二度寝をしてしまっても良いのだろうか。
「…?」
まだ目覚め切らない頭でどうしようかと悩んでいたら、枕元に包みが置いてある事に気付く。
なんだろう、と不思議に思いその包みを拾い上げた。昨日布団を敷くときには無かったはず。そっと包みを開けると中を確認した。
「…きれい」
緋色の帯留めが一つ。べっ甲細工のそれは決して安物ではないだろう。
自分の枕元に置いてあった帯留めをしばらく見つめていたが、ハッと顔を上げた。目覚め切らない頭が一気に覚醒する。この帯留めが自分への贈り物であると気付いたからだ。そして送り主は他の誰でもない。
「杏寿郎、さま…」
彼以外はあり得ないということにも気づいた。
こんな素敵な物を用意されていただなんて。一体いつから。旅館までの道のりで、寄り道はしなかったし、杏寿郎は長期間任務に出ていた。
もっと前から用意されていた…?
「…っ」
じわ、と胸の内が熱くなる。鼻の奥がツンとした。こんなに優しくされては、こんな事をされてしまっては、どうしたら良いのか分からなくなる。彼に返せるものが何もない。何も持っていない。
それなのに、この贈り物は勿論。用意していてくれた杏寿郎の心も、何もかもが嬉しくてたまらない。
どうしよう、と心の中で呟く。この優しさに、あの人の心に報いたい。どうしたら返せるのか分からない。
許される限りお傍に居たい。
言葉にする事は出来ない願いを胸の内で噛み締める。
「…、」
同時になまえの頭を過ったのは、自分の目の前で鬼に殺されてしまった両親だった。
優しく掛け替えの無い二人。大切だった人。唯一無二の家族。その二人が血だらけになって死に絶えた姿。
なまえは帯留めを見つめたまま両親の事を思い出した。あの日、何故二人が自分を連れ出したのが。深夜だと言うのに日の出を待たず外に出たのは何の為の行動だったのか。今となっては知る術がない。事実として残ったのは両親の死だけだ。
そしてまるで、その死と引き換えるかのように杏寿郎と出会ったのだ。
許されるのだろうか。両親の犠牲の上に生き残った自分が、幸福を感じるなど。
先程のお話の際、なまえさんは『任務を終えた煉獄さんが屋敷に来る』と仰ってましたが
それは『帰ってくる』の間違いなのでは無いかと思いまして
以前、胡蝶しのぶに言われた言葉がなまえの頭の中に浮かんだ。
そうだ。いつもどこかで一線を引いていた。
杏寿郎の帰ってくる場所は、それは自分の元ではないと。彼には本当に帰るべき実家があり家族がいるのだから、自分はそうでは無い。以前までは迷いなくそう言う事が出来たのに。今はどうしてか胸の奥底でつっかえてしまって、苦しい。
「…杏寿郎、様」
小さな声で名前を呼ぶ。
優しくされ、生きる場所を与えてもらい、幸福を感じている。失くしてしまいたくない。許される限り傍にいたい。望まれるなら、こんな自分を望んでもらえるならあの人に報いたいと思うのに。
目を閉じると浮かぶのは自分を守り、鬼に殺されてしまった両親の姿。
「…っ」
杏寿郎の傍で生きていきたいと望みながら。そんな幸福を許す事が出来ないのもまた、なまえ自身だ。
きゅっと帯留めを胸で抱きしめなまえは暫く動く事が出来なかった。
・・・
「準備は出来ただろうか!」
「はい、いま開けますね」
スッと襖を開けるとなまえが顔を覗かせる。目が合うと柔らかな笑みを見せた彼女に杏寿郎もまた笑みを浮かべた。
「では行くか」
「あの、杏寿郎さま」
「うん?」
クッと杏寿郎の袂を引いた。「どうした?」と首を傾げる杏寿郎になまえは「あの、その」と少し言い淀む。それから意を決したように「これ、」と小さく呟くと自身の帯紐に通されたべっ甲細工の帯留めに触れた。
「あ、あの、ありがとうございます…とても綺麗で、その…早速付けてみたのですが」
「あの、その」と言葉を探しつつ、一生懸命お礼を紡ぐなまえの声を何一つ聞き漏らすことがないように杏寿郎は耳を傾けた。自分が贈った物を早速彼女が使ってくれた事。照れくさそうに僅かに頬を染めてお礼を述べるその姿に、つい笑みが溢れた。
「やはり、」
「え…?」
「君によく似合っている。これを選んで良かった」
にこりと微笑めばなまえは少し驚き、そして同じように笑みを返す。
「贈り物が初めてで、その…どうお礼をしたら良いのか…」
「礼はいらん。俺が勝手にした事だ」
「ですが」
戸惑った顔をしたなまえに手を伸ばすと、ぽんとそのまま頭を撫でた。見返りが欲しかった訳ではないし、ただなまえに贈りたいと思っただけだ。
「君が喜んでくれるなら俺はそれでいい」
なまえが笑ってくれるなら、喜んでくれるなら、それでいい。与えられるものは何だって与えたい。彼女にはいつだって幸福であってほしい。
だが、いくら杏寿郎がそんな事を言った所でなまえという人間はどうしても気にしてしまう性格をしているから。与えられるものに対してお礼をしてしまうような彼女だからこそ。
「だが、そうだな。どうしても礼をしたいと言ってくれるなら…」
悩んだフリをして見せるとなまえは杏寿郎を真剣に見つめてくる。まるで「何かお返しをしたい、お礼がしたい、何でもします」とでも言うような視線だ。こちらから贈り物をして、それに礼をされては贈り合いになってしまうだろう、と思うと可笑しくて。
なまえの人柄を一層愛おしく思えた。
「今度の食事には俺の好物を出してくれ」
「え…ですが、それならいつでも」
「うむ!ならばこの話は終いだな」
「杏寿郎様…っ」
「さあ行くぞ、帰りは何処かで甘味を食べよう!」
なまえの荷物をヒョイと奪い、歩き出す。焦った様子で自分を追いかけてくる彼女は「もっと何か別の事は」や「そ、それではお礼になりません」と言っているが杏寿郎は「ははは!」と全て笑って流してしまう。
与えられるものは全部与えてやりたいと思う。どこか不安定な彼女だからこそ、余計にそう思うのだろう。
・・・
「少しは満喫できましたでしょうか?」
そう問うたのはこの旅館の主人だった。出る前に主人に少し挨拶をしてくると言い、なまえには少し外で待って貰っている。
「充分に満喫させて頂いた!急な来訪に対応してもらい感謝する!」
「いえいえ、今度は是非ご家族もご一緒に」
「うむ、伝えておく!」
それから少し世間話程度に言葉を交わすと、改めて礼をし杏寿郎は旅館を出ようとした。
「杏寿郎様」
すると主人が彼を呼び止める。杏寿郎が振り返ると旅館の主人は少し申し訳なさそうに眉を寄せた。
「私の家内が、杏寿郎様とお連れの方の事を勘違いしていたようで申し訳ありません」
頭を下げられ杏寿郎はぱちりと瞬きをする。
この旅館の主人の妻、女将の事かと察する。確かにここの女将は勢いがあり、こちらが口を挟む余地もないほど言葉が早い。元気があると言ったらそれまでだが。
「妻はお二人を、その…そういう仲だと疑っておらず…御無礼があったらなんとお詫びすれば良いか」
「いいや、決してそんな事は、」
言いかけて杏寿郎は言葉を止めた。女将は確かになまえを杏寿郎の妻だと思っていたようだ。「それにこんなに可愛らしい奥方までお連れになられて!!」と言っていたから間違いない。
そして杏寿郎はそんな女将に対し「誤解がある」と言ったのだ。昨日の事をふと思い出す。
「妻の誤解はこちらで解いておきますので」
「……誤解、か」
「杏寿郎様?」
主人が不思議そうに杏寿郎を見やる。
旅館の扉の向こうには杏寿郎を待つなまえがいる。静かに佇んで、空を見上げ、風で少し揺れる髪を抑えて。まるで陽だまり。
そんな彼女を見つめ少し微笑むと杏寿郎は主人に振り返った。
「確かに俺となまえはそういう関係ではない。だが」
愛おしいと、好いていると気付いてしまった。
昨日までは「誤解がある」とお互いの関係を否定し訂正をする事が出来たが。もう気付いてしまっては、自覚してしまってはそれも出来ない。
「そういう関係になりたいと。大切に想う相手である事に違いは無い」
杏寿郎の言葉に驚き唖然としてしまう主人。「それでは、また!」と言って背を向けて去っていく彼をそのまま見送る。
扉の向こうで彼を待っていた彼女に声を掛けて。お互いに微笑み合いそのまま歩き出す二人を旅館の主人は呆然と見つめた。しばらくしてやってきた女将に「アンタ何をぼけっとしてるんだい?」と問われると、主人は独り言のように。
「本当に…大きくなられて」
とだけ呟いたのだった。