屋敷まであと半刻もしないうちに着く。それでもなまえは少し急ぎ足で帰路を急いでいた。あれもこれもと市場を見て回るうちに時間が過ぎてしまっていたのだ。

空が赤い。もう間も無く陽が沈む。そうなれば人ならざる者達、鬼達が動き回る闇がやってくる。ジワリと汗が滲んだ。走ったからではない、記憶に残る恐怖だ。

杏寿郎には何度か注意をされていた。時間だけは気をつける様に、空の色から目を逸らさないように、と。


「俺は常に君の傍にいる事はできない。だから俺がいない時は十分に気を付けて欲しい」


そう言われていたのに。



なまえの親は鬼に殺されて死んだ。なまえはその現場を見ていた。


何故あの日、親がなまえを連れて夜の山に入ったのか理由を知らない。覚えているのは親がなまえを安心させようとしていた事。繰り返し「大丈夫だから、急ぎましょう」と言って手を引いてくれた母。先を走る父は何度も振り返って「あと少しだ」と言ってくれていた。

先に殺されたのは父だった。

襲ってきた鬼からなまえと母を庇うようにして正面から引き裂かれた。なまえは腰を抜かしてしまったが母は娘を置いて逃げる事はせず、何度鬼に爪を立てられても、なまえを守るように最後の最後まで抱きしめていてくれた。


「はっ、…はっ、」


気付けば駆け出していた。

夕焼けの色に焦り、記憶が蘇る。恐怖を思い出してしまった。大丈夫、まだ陽の光はある。まだ大丈夫。

胸にしのぶから受け取った荷物を抱え。もう片方の手で食材の包んだ風呂敷を提げて。急がなければ、けれど心臓が騒ぎ立て、肺が苦しくなる。呼吸を整えて、急いで。考えれば考えるほど辛くなり、どうしてか、泣きそうだった。

その時、



「なまえッ!!!」



びりびりと響き渡る力強い声に名前を呼ばれ足を止めた。道の向こうからドンと音を立て強く地面を蹴り駆けてくる人影が見えた。息を切らし足を止めたなまえ。駆け寄る相手が目に映ったとき、目の奥が熱くなるような感覚がした。


「なまえッ、無事か!!」

「杏…寿郎、さま…」


両肩を掴まれ大きな瞳に見下ろされる。

ただそれだけで全身の力が抜けてしまう。手に持っていた風呂敷を落とし、膝がカクンと折れた。その瞬間すぐに手を伸ばし支えたのは杏寿郎で、地面に膝をつくとなまえの身体を自分胸へと預けさせるように引き寄せた。


「大丈夫か」

「杏寿郎さま、申し訳ございません…っ」

「謝らなくとも良い」

「ですが、時間も、約束も、」

「良いと言っている」


ぽん、と頭を撫でてやった。

杏寿郎はなまえが落とした風呂敷からサツマイモがゴロリと転がったのを見つけた。自分の好物だ。なまえが何の為にこんな時間まで買い物をしていたのか考えなくとも分かる。紛れもなく自分の為だったんだろう。そもそも怒るつもりなんて無かったのだが。余計になまえを慰めてやりたい気持ちに襲われた。


「早く戻って来れて良かった」

「あっ、そうです…!杏寿郎様、任務は…!」


ここに杏寿郎がいる事を今になって驚いたのか、なまえはパッと顔をあげる。相変わらず申し訳なさそうになまえの眉は下がっていた。


「うむ、当初の予定よりも早く済んでな!」

「ここまで走って来られたのですか…!」

「その通りだ!何にしても走ってきて良かった!」


間に合った、と言った杏寿郎になまえは泣きそうなほど眉を寄せ表情を強張らせる。

何に間に合ったのかなど、分かっていた。なまえが恐怖に飲まれる前に来れたことだと。


「無理に恐怖に打ち勝つ必要はない、物事には時を要する物もある」


そう言ってなまえの身体を支え立ち上がらせると杏寿郎は地面に転がった荷物を拾い集め始めた。

なまえもしばらく無言で杏寿郎を見つめていたが、我に返ると落としてしまった荷物を拾った。しのぶからもらった傷薬と綿紗が入ったそれを拾い、意味もなく胸に抱きしめるとそのままホウと息を吐き出した。

杏寿郎がいる。それだけで全身を支配していた恐怖が抜け落ちたような感覚がしたのだ。任務後に走らせて申し訳ないとか、疲れていただろうにとか、謝りたい事は沢山あるのに。今はこの漠然とした安堵感が心底ありがたかった。


「なまえ」


目の前に差し出された手。見上げれば杏寿郎がおり、にこりと優しく微笑んでいる。


「行こう」

「、はい…」
 

手を取ると優しく強く引き起こしてくれる。

立てば手は離される物だと思ったが杏寿郎はなまえが立ち上がった後も手は離すことはなく。それどころか握り直すとその手を引くようにして歩き出した。片方の手で食材の包んだ風呂敷を持ち、もう片方の手でなまえの手を包む。


「あの、杏寿郎様…」

「何だ!」

「て、手が」

「ああ!気にするな!こうしている方が俺が安心出来るというだけだ!」


溌剌と夕焼けに向けて声を上げる。安心する、それはなまえも同じだった。頼りのある手に繋がれ、引いてもらう。自分のなかの恐怖心や焦りと言った負の感情を拭ってくれるのだ。 


「……初めてお会いした時も、そうでしたね」


初めて、杏寿郎と出会った時の事を思い出した。あの時もこの手が自分を引いてくれたと。


「うん?どうした?」

「い、いいえっ…あの、屋敷に着きましたらすぐに湯を沸かしますね」


そう言って杏寿郎を見上げたなまえは笑みを浮かべていた。その笑顔を見て安堵した。先程走ってきた時に見えていた彼女の顔は今にも泣き出しそうな、恐怖に包まれた顔をしていたからこそ。

なまえの笑顔に、杏寿郎も同じように笑みを返した。


「そうか!それでは俺は夕餉の支度でも手伝おうか!」

「そっ、それはいけません!私の仕事ですっ」

「む!ならば風呂は俺がやろう!君は夕餉の支度をするといい!」

「どちらも私がやりますからっ…ただでさえ杏寿郎様は任務後なんです、身体を休めてくださいませ…!」

「だが君一人で支度をしていたら遅くなってしまうぞ!」


言われて気づく。もう空は日暮れ間近。なまえ一人で風呂も夕食も用意していたら月が登ってしまう。


「二人でいるのだから二人でやれば良い!」

「ですが…」

「そもそも当初の予定から早く帰ってきた俺も悪い!君の都合を狂わせてしまったからな!」


確かに元々は明日の予定だったのが今日になってしまった。今日は一人だし冷やご飯を茶漬けにでもして、と簡単に考えていたが杏寿郎がいるならそんな訳にもいかない。なまえ自身、杏寿郎には暖かく美味しいものを作りたいと常々思っているからだ。


「それは、違います杏寿郎様」

「うん?」

「早く帰って来て悪いなどという事はございません…私は…いま杏寿郎様がいらっしゃるから安堵しています」


一人だったらきっと恐怖に負けて泣いていた。予定よりも早く彼が帰って来てくれたから、走ってきてくれたから、安心する事ができている。

きゅっと、弱々しく握り返された手のひら。杏寿郎はなまえを見下ろす。控えめな彼女が精一杯握り返してくれた己の手。


「君は本当に、」

「…はい?」


言い掛けて止めた。

何といえば良いのか分からず、胸に込み上げたものを上手く言葉にする事が出来なかった。不思議そうに見上げてきたなまえに杏寿郎は誤魔化すように笑い返した。


「いや!気にするな!」


「行こう!」と誤魔化すように声を張ると紫色に染まった空の下を、二人で手を繋ぎ歩いた。

何と伝えれば良いのか分からない。けれど、手を繋ぐ事で感じる安堵感だけは事実だった。



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