今日は杏寿郎は任務に出ている。しばらく掛かるだろうと言っていたのでなまえは「生家にも足をお運び下さい」と一言伝えた。

帰ってくるなと言いたかった訳ではない。ただ彼にある僅かな休息の時間を自分のいる屋敷にばかり居ては生家にいる彼の弟も寂しがるだろうと思ってのことだった。なまえからの進言に杏寿郎は少し驚いた顔をして見せたがすぐに微笑むと「分かった」と一言、了承した。

しばらく杏寿郎が屋敷にはいない。それはなまえにとって絶好の機会でもあった。悪い事をする訳ではない。ただ料理の練習をする機会なのだ。成功すれば次の機会で杏寿郎に出す事が出来るし、失敗をしても誰に見られることも無く、自分がそれを食べればいい。

なまえにとって杏寿郎の留守とは料理の幅を広げる機会だった。


「あっ、とと…!」


そんななまえの手には桶が一つ。その中には豆腐がある。今日はこれを使って揚げ出し豆腐を作る予定だ。ちゃぽ、と揺れる豆腐に気をつけながら屋敷まであと少し。門が見えてきた所でなまえは、はたと足を止めた。

白い髪に背中には『殺』と書かれた短い羽織り。ちらりと見え隠れする腕には無数の傷がある。あの方は、となまえはにこりと微笑むとその名前を呼んだ。


「不死川様」

「あァ?」

「こんにちは」


振り返った瞬間は顰めっ面。だがなまえがにこりと笑って頭を下げると不死川は「おう」と返事をし、すぐにその顰めっ面を引っ込めた。

不死川実弥となまえの最初の出会いはお世辞にも良いとは言えないものだった。

なまえは杏寿郎が屋敷を構えるまでの間、蝶屋敷で過ごしていた時期がある。その時治療のために屋敷を訪れていたのが実弥だった。

初対面だった実弥になまえは挨拶をしたのだが、その瞬間鋭い眼光で睨まれたのだ。たまたま虫の居所が悪かった事もあり「何だテメェは」と強く言ってしまった実弥に驚きと恐怖で萎縮してしまったなまえ。

終いには「…申し訳ありません」と何もしていないのに、か細く小さな声で謝った彼女に狼狽えたのは実弥の方だった。

挙句たまたまその現場に居合わせた胡蝶しのぶに「初対面の女性を怯えさせるなんて、いけませんよ」と、ああでもない、こうでもないと釘を刺されてからというものの。


「…あ゛ー…よう」


実弥はなまえに対してとても丁寧になった。

実弥の鋭い眼光が無いとなまえも安堵したように微笑む。彼女のどこかふにゃりとした笑みを見ていると気が抜けるのか、実弥はハアと溜息をついた。


「今日はどうされましたか?」

「ああ、煉獄の野郎はいねえのか?」

「杏寿郎様でしたらしばらく任務に出られてまして、その後は生家にお帰りになる予定です」


なまえの言葉に実弥は「ンだよ、留守か」と独りごちた。


「何だお前暫く一人かァ?」

「はい」

「よくアイツがお前を一人にしたな」

「ふふ、私も子供ではありませんし、しっかりしてるんですよ。そうだ不死川様、任務が無いのであればせっかくですので中でお茶、でっ、も…っ!!」


お茶でもいかがですか、と言おうとした途端足がもつれ、あろうことか手の中の豆腐の入った桶を勢いよく放り投げてしまった。

バシャ、と嫌な音がした。


「…“しっかり”ねェ…」


流石柱と言うべきか。桶は受け止め豆腐も器用に拾ってくれた。が、しかし中に入っていた水分までは避けきれず。パシャリと顔面で受け止めた実弥の姿になまえは全身の血がサーッと引いていく音がした。


「もっ、申し訳、ございません…っ!!」

「…いい、気にすんなァ」

「し、不死川様、中で、あのすぐにっ!拭くもの!そうです拭くものを!!」

「オイ馬鹿、足元見ろテメェ」


バタバタと焦り始めるなまえに実弥はまた大きく溜息を吐く。どうしてこんなに彼女が相手になるとやりにくいのか。器用に拾った豆腐は崩れる事なくぷるりと揺れている。もう一度大きく溜息を吐くと、桶を片手に実弥は屋敷の門を潜った。



・・・



「これとこれと、あとこれも、足りなければこれも…!」


客間に通された後バタバタと走り回るなまえ。次から次へと出される手ぬぐいの山の中から一枚手に取ると実弥は両手で顔を拭ったあとそれ頭の上に乗せガシガシと拭いた。

別にお汁粉をかけられた訳ではない。言ってしまえば豆腐を持ち帰る為だけのただの水だ。そこまで汚れたと言うほどのものでも無いし、なんならもう乾き始めている。


「あの、不死川様!すぐにお風呂のご用意をしますので!!」


だと言うのに、顔面蒼白で焦るなまえ。実弥は一通り拭き終わると「オイ」となまえを呼び止めた。すぐにでも風呂の支度、それどころか薪でも割らん勢いの彼女を呼ぶと座るように促した。


「そこに座れ」

「えっ、ですが、あの…」

「いいから座れつってんだろ」

「は、はい…!」


びくっと背筋を伸ばしおずおずとその場に正座したなまえ。しゅんと俯くなまえに実弥は「あ゛ー」だとか「だからなァ」だとか、数回言い淀むと小さな小さな声で呟いた。


「怒ってねえよ」

「え…」

「怒ってねえ」

「でも、っ」

「だから!俺が何ともねぇって言ってんだからいいだろうがァ!」

「は、はいっ」


いつもいつも、怒鳴った後で後悔する。誤魔化すように手ぬぐいで頭を適当に拭きながら。なまえをチラリと盗み見れば、緊張したような、驚いたような、実弥の言葉の意味を解ってなさそうな、色んな表情を混ぜ込んで目をパチパチとさせている。


「……茶」

「はい、」

「…茶を出してくれるつもりだったんだろ」


せっかくですので中でお茶でも


「…早く淹れてこい」


なまえが本当だったら言いたかった言葉を実弥が言う。彼女がどんな反応をするのか不安になり、手ぬぐいの隙間から再び盗み見た。


「はいっ、淹れてきますね」


嬉しそうに、まるで花が綻んだように笑って見せるから実弥はそれ以上何も言えず。


「…オウ」


と小さく返答するのが精一杯だった。



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