まずは本人に話しでも聞いてみな

天元にそう言われたものの。何と切り出せば良いのか分からなかった。

屋敷にたどり着き戸を開けると、暖かな匂いが鼻をくすぐった。厨房の方から香ってくる美味しそうな匂い。なまえはいつも杏寿郎が戻る時には彼の好物を用意して待っていてくれる。この日も食事を用意してくれていたのだろう。

戸を閉めるとその音に気づいたなまえが奥から顔を出し「杏寿郎様っ」と自分の元に足早に駆けてくる。「ご無事で、」と言うその顔は心底安堵している様子だった。


「なまえ」

「お怪我はありませんか」

「ああ問題ない、大丈夫だ」

「生家はいかがでしたか」

「敷居を跨ぐな、と父に酒壺を投げつけられてしまった」

「え…!」

「何、どうという事はない。いつもの事だ」


さらりと言うとなまえは眉を下げてしまう。「大丈夫だ」と言って杏寿郎が笑って見せると幾分明るい顔になってはくれたが。そんな取り留めもない言葉を交わしながら自室へと向かう。

不死川の事を聞かなければ、と思うが言葉がうまく出て来ず。いつものようになまえに声を掛けるのが精一杯だった。


「君は変わりなかっただろうか?」

「はい。特には何も」


穏やかに言葉を返す彼女に「そうか」と呟いた。

あの少年の言う事が本当なのであればなまえは自分がいない間、この屋敷に実弥を呼び仲睦まじく過ごしていた事になる。いや、だがしかし、なまえは主人の居ない屋敷に男を招くようなそんな事をする人間ではない。実弥とてそうだ。

懐にしまってある緋色の帯留め。渡したいと思うのにままならない。


「なまえ、」

「はい?」


名を呼ばれた彼女が不思議そうに首を傾げる。

実弥との事を確認したい。帯留めを贈りたい。いやそれよりも、まず久しぶりに戻ってこれたのだから彼女との僅かな時間を過ごしたい。ぐるりぐるりと周り、どれも言葉にする事が出来なかった。


「杏寿郎様…?」


いつもと違う顔で押し黙ってしまった杏寿郎に不安を感じたのはなまえの方だった。

いつもなら溌剌とした声で言葉を返してくれる杏寿郎が煮え切らない顔をして押し黙っている。任務中に何かあったのではないか、それとも生家に帰られた時の事が尾を引いているのではないか。不安ばかりが込み上げ胸を覆った。

まさか自分と実弥の噂を気にしている等と、夢にも思わなかった。


「杏寿郎様、…お身体の調子が優れませんか?」

「いや、そうでは」

「少し失礼致しますね」


そう言うと、杏寿郎に歩み寄り彼の首筋へと手を伸ばした。ぺたりと触れた手に思わず目を見開く。静かな表情のまま杏寿郎の脈と体温を測ろうとするなまえを凝視してしまった。


「お熱は無いようですが、ご気分はいかがですか?……私は杏寿郎様のお顔が陰っていると心配になってしまいます」


首筋に置かれた彼女の手と、不安そうに呟いた言葉に、ザワと何かが背を駆け抜けていくような感覚がした。


「杏寿郎様?」


首筋に触れていた彼女の手に自分の手を重ね握りしめる。きょとり、と瞬きをしたなまえの瞳の奥に酷く熱を帯びた自分の顔が映っていた。

初めてなまえが居なくなる事を想像した。それも誰かの元に嫁いでしまって居なくなる事だ。

お前、何の為になまえを傍に置いてんだ?

天元の言葉が頭を回った。柔らかな手、白い肌、華奢な肩、細い腰。どこまでも自分と違う。鬼殺隊でもなく、自分よりもずっと弱い彼女はどうして傍にいるのか。どうして今も手放せないのか。

どうして焦燥感を覚えるのか。彼女が居なくなるかもしれないという、たかが想像に。


「なまえ、君に」


カァアア!カァアア!


「っ」


口を開きかけたとき聞こえてきた鎹鴉の声に杏寿郎はパッとなまえから手を離した。すぐに庭へと向かうと杏寿郎の鎹鴉が羽根を羽ばたかせていた。


西ニ複数ノ鬼ノ報告アリ
恋柱ト共ニ至急向カエ


鎹鴉の指示に杏寿郎はすぐに頷いた。屋敷に着いたばかりだが仕方がない。すぐに出なければ。何も珍しい事ではない。最近はなまえと過ごす時間がそれなりにあったが、逆に言えばそれが珍しい方だった。

耳を澄ますと「煉獄さーーん!」と大きな声が聞こえてくる。


「すまない!支度をしてくる!」

「はいっ、私は甘露寺様をお迎え致します…!」


早足に玄関へと向かうなまえの背を暫く見つめたあと杏寿郎も自室へと足を進めた。まだ戻ってきたばかりで隊服も羽織りも日輪刀も身につけている。支度という程の必要はないが、懐にしまっていた帯留め。壊すわけにはいかない、これだけは置いておきたかった。

棚へとしまうと、小さく息をついた。

先程まで彼女に触れていた手のひらをじっと見つめる。

帯留めも、話しも、彼女との時間も先送りになりそうだ。小さく溜息を零した。



・・・



「なまえさん本当にありがとうーー!!」

「いえいえ、大丈夫ですか?」

「私ものすごく走ってきて!前の任務が終わってご飯食べてる時だったから、でも残すのも失礼だし、必死でもう…!」


ゼエゼエと息をきらす蜜璃に水を渡し、背中を摩る。食べた後の運動ってお腹がびっくりしちゃうのね!と言いながら水を飲み干す蜜璃。


「あの、甘露寺様…」

「うん?」

「杏寿郎様とお二人で任務、…なんですよね」


不安気に眉を下げたなまえに蜜璃はキョトンと首を傾げた。


「ええ、そうだけど……なまえさん?」

「柱の方が二人も至急呼ばれる、という事は…危険な任務なのでしょうか」


なまえの感じている不安に気付いた蜜璃はすぐに「大丈夫!」と声を張った。


「たしかに状況は詳しく分かってないけど、柱が二人行くのは被害を最小限にする為の判断だと思うわ!」

「でも、」


不安そうにするなまえを見て蜜璃は堪らず両手をバッと広げるとそのままギュっと抱きしめた。

蜜璃はなまえの境遇を知っている。杏寿郎と出会うことになったキッカケを。彼女が鬼に対して感じる恐怖が大きい事も。だからいま彼女の感じている不安が大きい事も分かっていた。


「大丈夫!私も煉獄さんも絶対負けないもの!」

「はい、」

「なまえさんはいつも通り待っていて」


「ね?」と言う蜜璃の背にそっと手を回しコクリと頷いたなまえ。ポンポンと数回なまえの背を叩くと蜜璃はにこにこと暖かく笑いながら離れた。

それと同時に「甘露寺!待たせた!」という杏寿郎の声が響いた。


「今から走っていけば夜には現地の隊員達に合流できますね!」

「そうだな!気合いを入れて走るぞ!」

「はいっ!」


玄関を開け先に蜜璃が外に出る。杏寿郎も後に続こうとしたが、その前にふとなまえに振り返った。


「なまえ」

「はい、」

「君の料理を無駄にしてしまったな」


良い匂いが今も漂っている。今日自分が戻る事に合わせて、なまえが用意してくれていた食事の匂いだ。いつもなまえはそうやって杏寿郎を待っていてくれる。

杏寿郎の言葉になまえは少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んで見せた。


「そのような事、杏寿郎様は気にしなくてよいのです」

「だが」

「気付いてくれただけで、私はすごく嬉しいですから」


だから大丈夫です、と言って微笑んだなまえにつられるように杏寿郎も口元を緩める。そうだ。どれだけ彼女の事で思い悩んだとしても、そんな杏寿郎の思考を解してくれるのも、また彼女だ。見ていると絆されてしまうようなそんな笑みを見せてくれる。

ふと思い付くと杏寿郎は小指を立ててなまえへと向けた。


「約束をしよう!」

「約束、でございますか?」

「ああ!次に戻った時は君との時間を作る!」

「そんな!私との時間など、」

「俺がそうしたい!!」


なまえの言葉を遮るように声を張り、今度は少し力強く小指を差し出した。小指を見て、杏寿郎を見て、少し困惑した顔をしていたが眉を下げて微笑むと、なまえは控えめに自分の小指を杏寿郎の小指へと絡めた。


「では、約束ですね」

「ああ約束だ!」


目を合わせて今度はお互いに微笑んだ。


「杏寿郎様お気を付けてくださいませ」

「ああ!」

「どうか、御武運を」


祈るようななまえの声に杏寿郎は「うむ!」と力強く頷き手を離すと背を向け走り出す。

なまえも後を追うように外に出ると、二人の背中が見えなくなるまでずっと見送り続けた。



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