サッサッと音を立て箒で門の前の落ち葉を集める。掃き掃除は千寿郎の日課だ。
今日は千寿郎の兄、杏寿郎が任務から帰ってくる日だった。先日、兄の鎹鴉の要が訪れそう教えてくれたのだ。掃除を終えたら買い物に行かなくては。今日は食事の準備で少し忙しくなる。
ああそれから父にも声を掛けなければ。きっと父の事だから、ああだこうだと文句を言いながらも兄の帰りを迎えてくれるだろう。
誰もが口を揃えて言った。『最近の煉獄家は変わった』と。
母である瑠火が亡くなり父、槇寿郎は柱を辞して塞ぎ込んだ。兄である杏寿郎は鬼殺隊に入り炎柱の地位にまで上り詰めたものの父からは認められず。また弟の千寿郎は剣の才に恵まれず兄のように鬼殺隊に入る事も出来なければ、荒んだ父を励ます事も出来なかった。
どうしようもなく陰鬱としていた。柱達だけではなく、産屋敷耀哉も心を砕くほど。
けれど、そんな陰鬱とした空気が消えたのだ。一変したと言っても良い。煉獄家が変わるきっかけとなったのは他でもない。
「千兄さま!」
名前を呼ばれ千寿郎はふにゃりと表情を柔らかく緩めた。ててて、と走ってくる小さな姿。橙色の着物に背中で大きく蝶々結びされた赤い大きな帯。まるで金魚のような装いをした少女は千寿郎の前でピタリと足を止めた。
「なまえ、これからお出かけかな?」
なまえと呼ばれたその少女こそ、煉獄家を大きく変えた原因と言っていい。
千寿郎からの問いかけになまえはパアッと明るく笑うと「うん!」と大きく頷く。
「河原であそぶ約束してるの!」
「気を付けて行っておいで。お昼過ぎには兄上が戻ってくるから、それまでには帰ってくるんだよ」
「杏兄さま帰ってくるの!?」
目を輝かせて喜ぶなまえの頭を撫でてやった。
そもそものきっかけは人買いに捕まっていたなまえを解放するため、ゴロツキの男を杏寿郎がぶっ飛ばしてしまった事が始まりなのだが。
なまえを引き取る時は中々の騒動だった。他でもない父、槇寿郎が居たからだ。なまえが煉獄家に来た理由も、最終的に養子として引き取るまでの経緯も色々とあるのだが、それはまた今度話すことにしよう。
今では煉獄家の末娘として養子に迎えられて過ごしている。もちろんそれを許したのは槇寿郎だ。
「いってきます、千兄さま!」
「いってらっしゃい」
帯を揺らして走り出すなまえが転びやしないかと少し不安になったが、小さな背中が遠ざかっていくと千寿郎は眉を下げて微笑んだ。
さて掃除を終えたら買い物に行かなくては。そう思うと千寿郎は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出すのだった。
・・・
「千寿郎、なまえがいないのだが?」
そう言って台所に顔を覗かせたのは帰って来たばかりの杏寿郎だった。
日輪刀を外し羽織りを脱ぎ父に挨拶をしてから、ウロウロと家屋を歩き回ってみたがその姿が見えない。いつもならば杏寿郎が帰ってくると一目散に駆け寄って足に抱きついてくる可愛い妹だ。その姿が見えないだけで寂しさを覚えた。
「まだ帰ってきていませんか?」
「外に出ているのか?」
「はい。でも今日は兄上が帰ってくるからお昼過ぎには帰るように行っておいたのですが…兄上は休んでいてください。僕が少し見てきます」
千寿郎はそう言うと鍋に蓋をして玄関へと足を向けた。休んでいて欲しいと言われて大人しく休んでいる杏寿郎ではない。「俺が探しに行こう」と言い同じく玄関へと向かった。
「いないな」
「ですね…」
二人して門の前まで来て付近に目をやるがやはりなまえの姿はない。遊びに夢中になっているのだろうか?だがなまえは昼過ぎには帰ると約束をしておいてそれを破るような子供ではない。
普段屋敷にいる事が少ない杏寿郎だ。そんな彼の帰りを一番楽しみにしているのはなまえだと言っても良い。
さて、可愛い妹の姿が見えずいよいよ千寿郎の顔も曇り始める。まだ昼間だから鬼の危険はないと思うが。人攫いに遭っていたら、たまったものではない。
自分の鎹鴉にも探してもらうべきかと杏寿郎が要を探そうとした時。
「…おい、なまえは何処に行った」
家屋の中から聞こえた声に杏寿郎と千寿郎が振り返る。
「父上…!」
のそりと気怠げに玄関から出てきたのは煉獄家の大黒柱、槇寿郎だった。相変わらず着物も乱れているし髭も伸ばしっぱなしの姿ではあるが、だが酒の匂いは昔と比べかなり薄くなっていた。
「すみません、なまえがまだ帰ってきて居ないようで…!先に食事の支度を!」
「飯などどうでもいい。千寿郎、あれは何処に行くと言っていた?」
「あ、えっとなまえなら河原で友人達と遊ぶと、」
「河原か…」
そう一言呟くと門を潜り歩き出す父を「父上!」と杏寿郎が呼び止めた。
「河原になら俺が行って参ります!」
「…お前は家にいろ、俺が行く」
「父上の手は煩わせません!俺が行きます!」
「いいと言ってるだろ」
俺が、俺が、とやんわりと譲らない二人。そんな事言い合ってる間に二人の瞬足ならとうに迎えに行けるだろうと思ったが千寿郎は言葉を飲み込んだ。煉獄の家長と長男は末の子を大事にし過ぎている節は大いにあるのだが、それが時として厄介な時もある。
詰まるところ、両者ともなまえの事を迎えに行きたいのだろう。
「お二人は家で休んでいてください、僕が」
そこまで言いかけて千寿郎は言葉を止めた。門から真っ直ぐ道の向こうに小さな姿が見えたからだ。金魚のような装いをした末娘だ。
千寿郎の視線に気づいた二人もなまえを見た。ああ良かった何事もなく帰ってきたようだ。そんな安堵の気持ちを混ぜながら槇寿郎は溜息を吐き、杏寿郎は笑みを浮かべ「なまえ!」と妹の名前を呼んだ。
「きょ、兄さま…」
杏寿郎を見る。いつもならばパッと太陽のように明るい笑顔を浮かべて杏寿郎の元に駆け寄ってくるのだが。
「なまえ?」
今日は笑顔どころか、どんよりと暗い顔をしてピタリと足を止めてしまった。いつもとは違う妹の様子に煉獄の男達はそれぞれ怪訝な顔をした。
なまえはと言うとぎゅうっと自分の着物の端を掴んでいる。一生懸命何かを耐えたような、悲痛な面持ちを浮かべたかと思いきや父や兄達の顔を見た瞬間じわじわと涙を浮かべ「うわぁん!」と声を上げて泣き出してしまった。
「なまえっ、」
千寿郎が名前を呼び、杏寿郎が駆け出そうとしたその瞬間。誰よりも早く、風の如く駆け抜けたのは父、槇寿郎だった。
瞬きのうちになまえのそばに駆け寄ると軽々とその身体を抱き上げてやったのだ。
一瞬の出来事に言葉を失う兄弟。流石、元とはいえど柱だった人間だ。娘の為に駆けつけるその姿、悲鳴嶼あたりが今の槇寿郎を見たら涙を流して喜んだだろう。
「何だ、何を泣いている」
「うぅっ…とうさまぁ…っ!」
大きな瞳からポロポロと落ちる涙は真珠のように頬を滑る。ぐしぐしとそれを拭うなまえの手。「あのね、あのね」と必死に訴える声に槇寿郎は「泣いていたら分からんぞ」と返す。
言葉はキツく聞こえるが声音が恐ろしく優しい。ようやく兄弟達も父の元に駆け寄ると泣き声を上げるなまえを心配気に見つめ、杏寿郎はその小さな背中をさすってやった。
「あのね、ひっく…こた、湖太郎くんがね、」
(千寿郎、湖太郎とは誰だ?)
(町に住んでいる子でなまえがよく遊ぶ友人の一人です)
小声で会話をする兄弟を他所になまえはまたぼろぼろと涙を溢れさせた。
「なまえのね、父さまや、兄さま達のことね、…に、ニセモノって、言ったの…!」
「ニセモノ?」
「なまえはね、血がつながってないから、だから本物じゃないんだって…!」
ほーう。
確かになまえは養子だが、そうか、なるほど。
わんわん泣き出す幼いなまえを見つめ槇寿郎は「そうか」と呟き背中をぽんぽんと撫でてやった。
「良いかなまえ。お前も煉獄の苗字を持つならそんなに泣くな。お前が泣いたら向こうの勝ちになってしまう」
「うぅっ、父さまぁ…っ」
槇寿郎の言葉になまえはグッと歯を食いしばり涙を堪えようと頑張って見せた。
千寿郎はなまえをあやす父の背中を羨望の眼差しで見つめた。あれだけ塞ぎ込んで杏寿郎や千寿郎を見ないようにしていた父が、なまえを慰めている。
なまえと住むようになってから兄弟に対する態度も少しずつ緩和されていたのだが。昔とは別人のような父の姿に千寿郎は(母上、見てますか?)などと思い天を仰ごうとした。
しかし。
「そんな下らん事を言う糞餓鬼は、父が切り捨ててやろう」
それはあかん。
天を仰ぎかけていた千寿郎はギョッとして父を見る。父の顔はガチだった。仁王を彷彿とさせるような父の顔に千寿郎の背にはヒヤリと汗が伝う。
「あ、あの!父上!流石にそれは!子供の戯言ですし…それになまえ、他が何と言おうと僕達は家族だから」
優しく優しく。なまえに声をかける。妹が泣き止むように。これ以上、この場が悪化しないように。それだけは避けたい。
「ねっ、そうですよね兄上!」
まるで助けを求めるように杏寿郎を見た。兄の事だ、きっとこの空気を察してなんとかしてくれるだろう。父を宥めてくれるだろうし、なまえの事もあやしてくれる。兄ならば、杏寿郎ならば、この場を悪化させるような事はしない。
「うむっ!千寿郎の言う通りだ!父上、どうか怒りを鎮めてください!日輪刀は鬼を斬る物!怒りに任せて子供に向けるものではありません!」
やはり流石兄上だ。この場を悪化させる事なく収めようとしてくれる。杏寿郎の言葉に千寿郎がホッとしたのも束の間。
「なまえ!酷い事を言った子供は何処に住んでいる!俺が父に代わり、どっせいをしてやろう!!」
悪化した。
どっせいは駄目だ。どっせいは。兄の腕力でやったら地面にヒビが入る。それでつい先日ひょんな事から兄にどっせいされた冨岡義勇が全治二週間になったのは記憶に新しい。そんなものを近所の子供にするなど、たまったものではない。
「さあ相手の顔を見に行こう!」とお礼参りをするが如く。怒りのオーラ全開で歩き出す父と兄を千寿郎は慌てて止める。
左手で父の着物の帯を。右手で兄の隊服の腰のベルトを掴んで引き止めるも千寿郎の腕力ではズルズルと引き摺られていく。
父に抱き上げられたままのなまえが「千にいさま…?」とキョトンとした顔で見下ろす。ああ、その顔はとても可愛らしいがこの事態のキッカケは彼女である。
「父上!兄上!洒落になりませんから…!!」
「そうだな!だが安心していいぞ!千寿郎!」
「何に対して安心しろと…!?」
「騒ぐな、相手の顔を見てやるだけだ」
「それでお二人の怒りが収まるのなら僕はこんなに必死になってません…!!」
ああっ誰か!この二人を止める事が出来る誰か!助けてほしい!!
れんごく家!
結局なまえの「おうち、帰る…」という鶴の一声で踏みとどまり千寿郎は心底安堵したのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2021.06.10