煉獄家には、いや煉獄槇寿郎には不得手とする相手がいる。

その者は緩やかな春の風のように煉獄家を訪れ甘い蜜のような言葉でなまえをそそのかし、そして隙あらば連れて帰ろうとするのだ。

槇寿郎はその相手がとことん苦手だった。酒に溺れて酷く堕落していた頃の自分の事を知っている。それだけではなく何よりも問題だったのは、なまえがその相手に懐いていることだ。それも物凄く懐いている。

その相手とは他でもない。


「こんにちはぁ」

「あっ!天女さま!」

「あらあらなまえちゃん、こんにちは」


花柱、胡蝶カナエである。

にこにこと万人から好かれる優し気な笑みと、柔らかな声音で煉獄家を訪れたカナエ。彼女の声が屋敷に響いた時、槇寿郎はびくりと身体を震わせた。ハッと我に返りなまえを呼び止めようとしたが、ててて!と走り出した愛娘は止まることを知らない。


「天女さまだー!」

「こんにちはなまえちゃん」


玄関から響き渡る声に槇寿郎は奥歯をグッと噛み締めた。これでは逃げようがない。「花柱様、ご無沙汰しております」と千寿郎の声まで聞こえてきてしまいハァと溜息をつくと腹を括り玄関へと足を向けた。

なまえはカナエの事を天女さまと呼ぶ。なまえにとってカナエとの出会いはそれ程までに衝撃的だったのだ。

見た目の麗しさと、優雅な立ち振る舞いに気品のある言葉遣い。にっこりと微笑んだカナエに初対面だったなまえは驚きのあまり硬直し「天女さまって本当にいるんだ…」と呟いたのだ。


「天女さま今日はどうしたの?杏兄さまはいないよ?」

「今日はね、なまえちゃんに用があったのよ」


よく言う。今日は、どころか。いつもなまえにしか用がないカナエである。

最初こそ同じ柱である杏寿郎に用が、という口実の元なまえに会いに来ていたカナエだが、最近では「美味しいお菓子をもらったの」だとか、「なまえちゃんが怪我した時用の塗り薬を持ってきたのよ」だとか。ありとあらゆる理由を付けてなまえに会いに来ている。

花柱だろう。任務に行け、任務に。
もしくは患者の面倒を見ていろ。
と槇寿郎は思うがそれを言葉にする事はできない。槇寿郎がカナエに強い言葉を使うと彼女にとことん懐いているなまえが悲しむからというのも勿論あるが。カナエは槇寿郎が酒浸りだった頃を知っている。

なまえを引き取ると決めるまで、槇寿郎がなまえに対して興味を示さなかったのも、それどころか邪険に扱っていたのも知っている。負い目がある。弱い所を把握されている存在。


つまりネグレクトをかましていた頃の槇寿郎を知っているのだ。


カナエは槇寿郎が再び育児放棄をしていないか、なまえや千寿郎が困っている事はないか心配しているのは確かだ。
確かだが、


「ねえなまえちゃん、よかったら今度蝶屋敷に遊びに来ない?」


隙あらばなまえを蝶屋敷に連れて帰ろうとしてるのも確かだ。


「天女さまのお屋敷?」

「ええそうよ、なまえちゃんよりは少しお姉さんだけど歳の近い女の子達もいるのよ」

「わあぁ!」

「勿論、千寿郎くんも一緒にどうかしら?」

「ぼ、僕もですか?」

「千兄さまも一緒にいいの!?」


まずい。なまえの目がきらきらと輝いている。

煉獄の家は男所帯だ。なまえからしたら自分と歳の近い女の子というのは、珍しく魅力的にも感じるだろう。


人買いに連れられていた女の子よね。あらあら、それは是非蝶屋敷に来るべきだわぁ!だってカナヲと一緒なんですもの!


いつだったか。両手を合わせ嬉々として、そしてさも当たり前のように言ったカナエ。

いや確かにそうかもしれない。身寄りのない女の子で人買いに連れられていたなど、蝶屋敷にもってこいな設定と人材であるのは間違いないのだ。

あの時はカナエの言動に狼狽した槇寿郎。なまえは言葉の意味が分からずキョトンとしていたが、そんな様子を見てカナエの妹である胡蝶しのぶが助け舟を出してくれたのだが。


駄目よ姉さん。なまえが戸惑ってる。無理強いをするべきじゃないわ。
今は。



今は。とそう言ったのだ。あれを助け舟と呼んでも良いものか非常に怪しいところである。

何にしてもなまえを蝶屋敷で引き取ろうとする胡蝶姉妹は槇寿郎の天敵と言っても過言ではない存在だった。


「天女さまのお屋敷!たのしそう!」

「素敵なお誘いだね、なまえ」


待て待て待て待て待て。
待て千寿郎、待て。

一見素敵な誘いに聞こえるかもしれないが、それは違う。なまえを蝶屋敷という場所に慣らす為の第一歩に過ぎん。

カナエの思惑を察しながらも口を挟む事が出来ずにいると、槇寿郎はふとカナエと目が合った。その瞬間にっこりと微笑んだカナエ。他者が見たら魅了されるような美しい笑みだろう。だが槇寿郎にとってその笑みはどうにも含みのある微笑に他ならない。

ぐぬぬ、と槇寿郎が歯を食いしばっているとなまえが「あっ」と小さく呟く。


「でもね、天女さまごめんなさい。なまえ行けないや」

「え?どうして?」

「なまえと千兄さまが行ったら父さまが一人になっちゃう。だから、ごめんなさい」


うちの子は天使か何かか??


なまえの言葉を聞いて槇寿郎は思わず目頭を押さえた。そんな槇寿郎に対しカナエは「あらあら」といつものように微笑みながらも、スッと目を細めた。

悔しかろう悔しかろう。これに懲りたらなまえの事は諦めるのだ。と槇寿郎が一瞬勝ち誇った顔をして見せたのだが。


「だから天女さま、もっとなまえに会いに来てね!」


待て。それは違う。

槇寿郎が否定の言葉を紡ぐよりも早くカナエが「まあ!嬉しいわ!」と言い放つ。


「ならもっとなまえちゃんに会いに来ようかしら?」

「うん!なまえも天女さまに会いたい!」


きゃっきゃっと笑うなまえを自分の膝に乗せ、まるで宝物のように抱きしめるカナエは正しく天女そのものだ。そのものだが、彼女の目がどうにも『この子を諦めませんから』と言ってるように見えてならない。

この感じでは、一週間と待たずに襲来しそうだな等と思い槇寿郎はなまえに気付かれない程度にため息を吐き出す。「来るな」という思いは口に出さないように胸にしまった。



襲来、天女さま


「煉獄くん、こんにちは」

「胡蝶姉か!久しいな!」

「そうねえ、煉獄くんとはそんなに顔を合わせないものねえ」

「先日もなまえに会いに来てくれていたそうだな!妹が喜んでいた!」

「そのなまえちゃんのことなんだけど」

「渡さんぞ」

「あらあら、私まだ何も言ってないわ」

「顔を見れば分かる。なまえは渡さん」

「あらあら」


炎柱と花柱。どちらも後輩に慕われ、話しかけやすく、人望もある二人だが、この日の二人を見たものは口々に「お二人とも目が全然笑っていなかった」「殺伐とし過ぎていた」「体感温度が真冬並みだった」と言い怯えた顔をしたそうだ。



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お気付きかと思いますがこのシリーズは、大体どいつもこいつも生存ルート決めてきます。

花柱が生存していると言うことは、蟲柱の性格はツンツンです。

2022.01.26



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