黒曜石が佇む地下教室は、今日も今日とて冷たい空気と薄暗い気配で満ちていた。
此処は、年若い彼女の執務室としては異質なのだろう。
ホルマリン漬けが並び、釜が怪しげな破裂音を立て、奇々怪々と表するのが相応しいだろう魔法薬の材料が壁一面に沿ってずらりと並ぶ棚で埋め尽くされた、黒一色と言って差し支えのない闇色の空間。
闇色が嘗て居た頃と何ら変わりのないこの場所こそが、彼女がこの世界に生きる理由であり、縋る場所でもあった。



(小さな箱庭)
(少女の縋る、追憶の欠片)




「 ─── 新一年生の皆さん。まずはご入学おめでとう御座います。今年一年、皆さんに魔法薬学を教えるリン・ヒムロです。」

緊張をめいっぱいに浮かべた表情で、それでも物珍しげに周囲を見渡すのは新入生には当たり前の光景で。嘗て自分が「初めて」此処に来た時もそうだったと、遠い追憶の日々に想いを向けたリンは、それを咎めるでもなく瞳を細めた。

「皆さんたち新入生ににとっては、ここの全てが物珍しい物ばかりでしょう。先生もそうでしたから解りますが ── 授業中です。注意は一度だけ。次からは減点しますよ」

小さく、けれど冷たくとても通る声で囁くように告げられ、生徒たちは一斉に口篭った。薄ら寒い空気の中に、一気に緊張感が漂う。かの英雄と同級であり、魔法薬学どころかほぼ全ての教科に於いて主席を取り、ホグワーツ功労賞までも獲得したホグワーツ始まって以来の五指に入る超天才児として、リンは有名だったからだ。
魔法界という場所は広いようでいて狭い。
家同士の繋がりが濃く、特にリンの所属していたスリザリンともなればそれは他寮の比ではない。だから、親兄弟から自分の事を聞かされている生徒も多いのだろうと、リンは然程気にしてはいなかった。

「 ─── よろしい。さて。皆さんが学ぶのは果てのない可能性を秘めた崇高な学問です。私の授業では杖を振り呪文を唱える事は滅多にありません…魔法薬という物が持つ無限の可能性、私が教えるのはそれのみです」
「……先生、魔法は使わないのですか?」
「使いません。とはいえ、魔力を篭めねばならない魔法薬も存在しますが……それは皆さんが上級生になってから学ぶものですから」
「作れるようになりますか?」
「皆さんが努力と勤勉を怠らず、私の授業について来る事が出来たのなら、出来る様になるでしょう」

緊張感、だろう。
張り詰めた空気は何処か鋭さがあるもので、それを切り裂く様に響くリンの声は抑揚も温度も感じられなかった。それに加え、最年少教授であり東洋人であり、何よりも超天才児と呼ばれた彼女の授業はどれほど高度なのだろうと、新入生たちの心境は内心穏やかではなかったのだ。それでもリンとしては教科書にある以外の事を教えるつもりはなかったし、誰にでもわかりやすい授業をする心づもりでいるのだが。

「………さて。それでは今日は最初の授業ということもありますし……魔法薬というものがどういう物で、魔法薬学とはどのような学問であるのか。まずはそれから皆さんに教える事にしましょう」

嘗て闇色が演説した時の様に、とは行かずとも。少しでも心を動かせれば良い。恍惚さえ孕んだあの時の闇色の演説は、記憶に焼き付いている。それに心打たれ、闇色が教鞭を執る科目だからという事を差し置いても、自分は魔法薬学にのめり込んだのだから。

「 ─── 故に、私が皆さんに教える事は、名声を鋳造し、栄光を瓶詰めにし、 ── 死にさえ蓋をする方法であるのです」

闇色の言葉を借りて、あの時の闇色と同じ様に恍惚と喜色を孕んだ声でリンは言葉を紡ぐ。この場に立てた喜びと、この世界で闇色に寄り添い生きていく事を決めた彼女は、今この時、改めてそれを強く誓った。嘗て自分がそうであった様に、自分の教え子たちが魔法薬学に陶酔してくれればいい。

「……先生、そんなことが可能なのですか?」
「えぇ。とても難しい……私でも完成させるのが難しい様な魔法薬ではあります。けれど、確実に存在するのです。その方法が。流れていく大河の様に、流れる水が淀み貯まる事のない様に、魔法薬も一様に留まる事はない。それこそ果てのない可能性を秘めた物、それが魔法薬です」
「教科書に載っている魔法薬も?」
「一年生で学ぶ物は基礎中の基礎ですから、まずはそれができなければ話にもなりませんが、ね。基礎を熟知し、洗練し、そして初めてスタートラインに立てる物だと覚えておきなさい」

抑揚なく、それでいてどこか情熱を孕んだ透き通る声は、冷え切った地下牢教室に良く響く。それがどれだけの生徒の心を震わせたかを、彼女は知らない。けれど確実に、少なくとも生徒たちが抱いていたであろう未知に対する恐怖は、少なからず興味へと変わっていた。

「 ─── さて。それではまず理論を学びながら簡単な調合から初めて行きましょう。教科書15ページを開いて ── おできを治す薬、初歩中の初歩、基本的な作業を学ぶのに最適な魔法薬でもあります。難易度は低いとはいえ、危険な事に変わりはない…手順を間違えれば大爆発、なんて事にもなりかねない。慎重に調合する為に、まずは理論と調合方法から学んでいきます。宜しいですか?」

リンの合図で一斉に教科書を開いた生徒たちは初めて見るそれらに釘付けになった。
干しイラクサ、砕いた蛇の牙、茹でた角ナメクジ、山嵐の針………これらがどの様に、魔法薬と呼ばれるモノに変わるのか。本当に自分にも出来るのか、魔法薬学は難しいと聞いた事もある。不安だらけだったが、それでも教壇に立つ年若い教授は、長い歴史を持つホグワーツでも最も優秀な生徒だったと聞く。
それならば、彼女の授業をしっかりと学べば、平気だろうか。
不安と興味と期待が綯交ぜになった、そんな複雑な心境。それは嘗てのリンにも言えた事、寧ろ、知識として記憶として知っていたとはいえいざ現実となってみれば不安でしかなかったリンと比べれば、幼い頃から魔法界で育った子供の多い今の生徒たちの方がいくらか不安は軽いのではないだろうか。それを告げるつもりはないが、彼女はせめて不安を抱く生徒のそれを払拭しきってやろうと、真剣な表情で教科書に目を落とす生徒たちを見ながら改めて決意したのだった。


* * *


「なかなか様になっていたではないか」
「、まだまだですよ。初授業ですし、緊張し通しで……って、聞いていたんですか」

授業を終え、緊張をほぐす様に大きく息を吐きながら隣接する自室へと戻ったリンに声を掛けたのは闇色だった。カウチに腰を降ろし、文献から目を上げた闇色は笑いを噛み殺していた。そんな闇色に視線を向けながら、リンは無言で杖を振る。施錠し、耳塞ぎの呪文をかけるために。

「あぁ。 ─── 随分と懐かしいセリフでしたな?一字一句違わず覚えていたとは」
「う……っだ、だってあの言葉を聴いて魔法薬学にのめり込んだんですよ、私……それに、あの時の教授、かっこよかったですし……何百回も聞いていれば、さすがに……」
「 ─── 、まぁ、及第点だろう。君の理論は相変わらず解り易い。あれならば新入生もすぐに呑み込めるだろう」

地雷を踏んでしまった。
気落ちした様なリンの声を聞いた闇色は気まずそうに話題と視線を逸らす。及第点どころではない、新人の、それも二十歳になったばかりの教師としては満点以上の授業だったのだが。それでも素直に褒めてやれないのが、不器用極まりない闇色である。それを知っているリンも、穏やかな笑みを闇色に向けた。

「教授の及第点という事は、満点に近いということですね。よかった」
「、都合の良い解釈ですな」
「実際そうじゃないですか」
「……敢えて言うのなら、甘すぎる。褒めるばかりでは伸びん」
「叱る時は叱りますよ。真剣に学んで、魅力に気付いて欲しいですしね」

闇色に背を向けたまま教科書や材料など授業で使った物を杖を振りあるべき場所へと戻していくリン。いつの間にこんなにも完璧な無言呪文を使える様になっていたのだろうか、と、ふとそんな疑問が闇色の脳裏を掠めた。だが、それも数百を繰り返した時の積み重ねに縒り合わされた魔力の賜物だろうと即座に納得し、言葉に出す事はしなかった。リンはどこか、その部分に触れられる事を嫌っている節があるからだ。

「今日はこれで終わりかね」
「そうですねえ……先ほどの授業のレポートの採点をしなければいけませんが、それまでは授業もありませんし…在庫の確認と手入れでもしようかと」
「そうか。君に限ってないとは思うが、抜かりなくやりたまえ」
「貴方が居るのに手を抜く訳がないでしょう?大丈夫です、ちゃんとやりますから。貴方の後継ですもの」
「 ─── ふ。ならば良い」

そして闇色は、自分の為だけに数百の七年間を繰り返したリンの事を、柄にもなく大事に思っているのだ。それは今も、そして恐らくはこれからも、リンが与り知らぬ事ではあるのだが。羊皮紙に眼を落とし、真剣な表情で羽ペンを走らせる黒曜石に眼をやり、穏やかなこの空気を甘受する。決して触れられはしない、触れることは永久に叶わないが、それでも、リンと過ごす時間が、闇色は好きだった。真っ直ぐすぎるリンの想いに、あるいは絆されたのかもしれない。それでも、好ましいと思う自分は確かに此処に在るのだからと、闇色は一度目を伏せて再び手元の文献に目を落とした。



玻璃の箱庭
(………教授、グランバンブルの糖蜜って必要だと思いますか?)
(……君が担当するのは低学年だろう?憂鬱症にかけたい人間でもいるのか。それとも身近にヒステリー持ちの人間がいるのかね?いないであろうが)
(……ですよね)
(見たところニワヤナギとカノコソウの根が足らんな。授業で使うのなら倍は用意しておきたまえ。失敗はつきものだ、特に低学年はな)
(あ、はい)


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初授業、のおはなし。
このあと授業を重ねるうち解り易い授業をしてくれる教授として生徒に慕われる様になるものの、壁を作りっぱなしのリンは誰も傍に寄せなかったりとか何とか。
ある意味、スネイプと同じ感じ。孤独主義というか、スネイプだけがいればいいって部分は昔っから変わってないというか。
それでも無碍にはしないから、少し気難しい人だっていう認識に落ち着く。と思われる。

デレるのはスネイプの前でだけ、みたいな。
教室と自室、寝室は隣り合わせ。
自室は誰も入ることがないから遠慮なく絵画まみれになっている、とか。

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