スターレスが襲撃を受けてから数日後、作業の手を一旦止めた名前は空腹だったことを思い出してアトリエを出ることにした。
「あ、名前さん」
バタバタと引っ越しの作業が進むレストランの中を歩いていると、背後から物腰柔らかそうな声で名前を呼ばれ振り向いた。
声の主はダンボール箱を両脇に抱えたカスミであった。彼は舞台に立つスターレスのメンバーの中で唯一名前を敬称込みで呼ぶ人物だ。
恐らく彼がここへ来る頃には名前がすでに裏方へ回っていたのが理由の一つだろう。
小走りで寄ってくる彼は珍しいものを見たような表情を浮かべた。といっても前髪で目元を隠しているからその表情も判り難い。
「アトリエから出てくるなんて、なにかあったんスか?」
「私だっていつも引き篭もってるわけじゃないよ」
「ん〜……あまり説得力ないスね〜」
カスミが知る限りでは、名前がアトリエから出るのはキャストがステージに上がる直前に行う衣装の最終チェック時と、モクレンのレッスンに付き合う時と、ソテツに強制的に連れ出されている時くらいだ。
それ程珍しいことだと認識しているのだから、引き篭もりじゃないという言葉には申し訳なさそうに笑うしかない。
対する名前は目の前の男の反応に心外だと言わんばかりに肩を竦めながら息をそっと吐いた。
「少しお腹が空いたから出てきただけさ」
「ちなみに最後に食べたのはいつッスか?」
──はて、いつだったろうか。昨日の夜、いや昼……朝だったかもしれない。だが記憶にないからもしかしたら昨日は何も食べてないのかもしれない。
記憶を探るように目を細めて顎に手を添える姿は真剣味を帯びていて、この人本当に自分のことには無頓着なんだなぁと苦笑を漏らした。
「ちゃんと食べないとまたソテツに怒られるッスよ」
「それは勘弁願いたいね」
「そうだ。あとで引っ越しの作業をしにアトリエへ行くので荷物の準備しておいてくださいッス」
「ん、分かったよ」
ダンボール箱を抱えたカスミと別れ目的の場所である厨房を目指していた名前だったが、ふと気になっていたフロアの方へと足を進めた。
今、このレストランがどんな状況になっているのか、アトリエに出入りするパフォーマー達から聞き及んではいるが実際に自らの目で見るのは初めてになる。
引っ越しの作業を進めていく中である程度は綺麗にされた廊下を歩きながら、壁に開けられた穴や捲られた壁紙を指で撫でていく。
数ある傷の中には以前から残っている懐かしい跡もある。その一つに触れて「これ……黒曜とソテツが喧嘩した時のやつか」と一人呟いた。
あちらこちらに染み付いた思い出に浸りながらフロアへの扉を開けると、あの輝いていたステージはもうどこにもなかった。
静かに近づくとライトが全て落ちてしまっていてステージ上に散らばっているのが分かる。大きな穴も空いているようだ。
スターレスに来たのは数年前。最初はこのステージの上にパフォーマーとして立っていた名前は、あのスポットライトに照らされた日々を思い出す。
自分から居場所を捨てて、彷徨って、途方に暮れてた自分に居場所をくれたのがこのレストラン、スターレスだった。
なにもかもが輝いて見えたステージが今では見る影もない。残された照明の光を反射させて輝くのはただのガラスの破片だ。
眉を寄せながらその破片に手を伸ばす。しかし、触れることはできなかった。
「この手は大事な商売道具だろう」
名前の手首を温かく骨張った手が掴んだ。
一瞬、いつも世話を焼いてくれる男が隣に立ったものだと錯覚したがすぐに違うことに気付く。掴まれた手は彼よりも指が細く、白い。
「貴様にはこれから働いてもらわねばならん。こちらとしても怪我をされては困る」
耳に響いた声も初めて聞く声だった。低く威厳を持ったその声にあの男のような優しさはない。
鼻先を掠めた甘くそしてどこかスパイシーなオリエンタル系の香水の香りに誘われて視線を向けると、力強い蒼い瞳と目が合った。
目の前の男がリンドウや銀星が語っていた人物像と少しずつ重なっていく。
「……あぁ、君が噂のケイか」
「どうやら自己紹介の必要はなさそうだな」
強く掴まれていたわけではないが解放された手首をなんとなく撫でる。
「早速本題に入らせてもらう。先日メンバー入りしたリコの基礎レッスンを貴様に任せる」
「それは、デザイナーの仕事に含まれていないよ」
「貴様がパフォーマーだったことは知っている。その実力もな」
まず第一に、名前には新しく入ったリコという人物が誰だか分からない。
ステージに上がるから衣装を作れと言われれば黙して自慢の衣装を贈ろう。だがどこの誰とも知らない奴の基礎レッスンをしろ、というのは異議を申し立てたい。
なにせ今の名前にはあまり時間がない。新店舗への移動、オープンまでの日数、チーム構成の変更、その上メンバーが増える。
スターレスが新店舗を構えて心機一転するというのならファッションデザイナーである名前も全ての衣装を一から作るつもりでいるのだ。
「君がチームを作ったという話は聞いているよ。だから今は新チーム用の衣装デザインを考えるのに忙しいんだ」
「もちろん本業を優先して構わない。レッスンの間は報酬も上乗せしよう」
「なかなか諦めてくれないね」
リンドウから聞いていた通りかなり傲慢な男のようだ。名前は困ったように眉を下げた。
しかしこちらがどんな反応を見せようがケイの意思は変わらないのだろう。蒼い瞳は一度も逸らされずにこちらを捉えたまま。
どんな言葉を並べても「YES」か「はい」しか受け取ってもらえそうにない状況にそっと息を吐く。
「君のパフォーマンスを見せてほしい」
彼がどのような男で、なんの目的でここへ来て、どんな想いでこのスターレスを救うと言ったのか、それはまだ誰にも分からない。
元パフォーマーとして、皆のパフォーマンスを裏で支える者として、ケイの歌を聴けば、ダンスを観れば、彼のことが解るような気がした。
それに要望を受け入れる対価としては充分だろう。
名前を見下ろし色つきのレンズの向こうにある金色の瞳を見つめたケイは口端を釣り上げてステージへと登った。
必要な荷物を粗方運び終えた室内を見渡し、額に浮かんだ汗をハンカチで拭った運営は傍に立つカスミを見上げる。
「荷物さっきので最後ですね」
「あー実はまだあるんスよ……こっちッス」
後ろ髪を掻きながら申し訳なさそうに案内するカスミについて行くと、どんどん店の奥へと進んでいく。
店の入り口から一番遠いと思われるその部屋からは一定のリズムで軽い機械音が聞こえてくる。そこは初めてくる場所であった。
「ここ……なんの部屋ですか?」
「スターレス専属デザイナーのアトリエみたいなもんスね。名前さーん、入るッスよー」
数回ノックをした後、返事を待たないまま部屋へと入っていくカスミに続いて運営も未開の地へと足を踏み入れた。
そこは足の踏み場もないほど散らかっており思わず踏み入れた足を一歩引いてしまう運営をよそに、器用にも床に落ちている布類を避けながらカスミはこちらに背を向けてイスに座る人物へと近寄っていく。
丁度ミシンの音が止んだところでカスミはその肩を優しく叩いた。
「名前さん、忙しいスか?」
「ん、少しね。それで、なにか用?」
「なにか用? じゃないッスよ〜。全然片付いてないじゃないスか。引越しの作業やるって伝えてありましたよね?」
「あー……ごめん。あの後いろいろあってね、忘れていたよ」
眉を下げながらそう言いつつも視線をカスミから手元の衣装に戻した名前にはもう慣れている。こうなっては仕事から離すことはできない。
唯一彼をこのイスから引き剥がすことができる人物は荷物運びとして新店舗へ向かっていて今はいないのだ。
「しょうがないッスね。運営くん、自分たちでやっちゃいましょう」
「は、はい」
ドアの前で成り行きを見守っていた運営は恐る恐る一歩を踏み出した。僅かに見える床だけを踏むよう慎重に。
部屋を見渡すといくつものマネキンが置いてあり、デザイナーというのがファッションデザイナーであることだと理解する。
カスミから空のダンボールを手渡されたが、床にある物のどれが必要でどれがいらない物なのかさっぱり区別がつかなかった。
頭が混乱するのに加え芸術に疎いから尚更全てが必要な物のように思えてくる。
「あ〜運営くん。床のほうは自分がやるんで、あっちにある衣装をまとめてもらっていいスか」
「すみませんカスミさん……」
「気にしなくていいんスよ。初めは誰だって戸惑うッスから」
苦笑しながらあっち、と指差された方にはハンガーラックにずらりと並ぶ衣装があった。
黒を基調としながらも華やかで洗練されているデザインはどれもこれも普通のお店では置いていない特別な服だ。
その中から一つを手に取ってみた。レザー特有の光沢にシルバーの細かい装飾がいくつも飾られている。
「これ、全部名前さん手作りの衣装ですか!?」
「そうスよ〜」
「わぁ! すごいですね! 僕、手先があまり器用じゃないのでこんな繊細な作業できないですよ」
どのような工程で作られたのか運営には想像することもできなかったが、想像できないからこそすごいということだけは確かに理解できた。
目を輝かせながらあれもすごい、これもすごい、と引越し作業そっちのけで衣装を見る運営に対してカスミは口元に笑みを浮かべる。
「運営くん、運営くん。名前さん、服だけじゃないくて女性が喜びそうな小物も作れるッス」
「えっ! そうなんですか!?」
作業をしつつも二人の会話に耳を傾けていた名前はイスを回転させて期待を寄せる瞳を見返した。
「まぁ、一通りはね。それよりも、なんでカスミが自慢気なんだ」
「だって自慢したいじゃないスか〜。うちのデザイナーはすごいんだ! ってアピールしたいんスよ〜」
口を動かしながらもテキパキと作業していくカスミのおかげで綺麗な床が顔を出す。何度もこのアトリエを掃除してきたため、捨てる物と残す物の仕分ける動作に迷いがない。
スターレスに来た時には名前はすでにデザイナーとして働いており、影から皆を支えようと努力していた。その姿を見ているうちにカスミは自然と尊敬するようになったのだ。
もちろん、本人には内緒である。自分に対して無頓着な名前にはストレートにぶつけるよりも、彼の作品を褒めたほうが効果的だとこれまでの経験で熟知している。
ふと、カスミはあることを思い出して作業の手を止めた。
「そういえば名前さん。ちゃんとご飯食べました?」
もちろんその問いに対して良い返事がないのも、経験上お見通しである。