ふと、手縫いをしている視界に影が落ちて顔をあげる。まるで女性を愛でる時のような甘いマスクが、鼻先が触れるほど近く、そこにあった。
伏し目がちな目元は普段の野心的で小生意気な印象を捨て、情欲的で美しい。
薄く半開きになった唇は吸い寄せられるように己の口元へと近づいていく。乾燥を防ぐために塗られたリップで潤った唇を目で追うようにして名前の瞼も少しずつ落ちていった。
二人の距離が限りなくゼロに近づいた時、影はあっさりと離れていってしまう。
「嘘に決まってるじゃん。もしかして本気にした?」
そう言って笑ったリコはくるりと体を反転させた。気まぐれにアトリエへやって来た彼を構いもせず放置していた罰だろうか。
撫でて欲しくて擦り寄ってきたのに、いざ触れようとすると逃げていく。まるで猫のようだ。
作業途中の服を作業台に置いて部屋を出て行こうとするリコの腕を掴んだ名前は、そのまま片隅にあるソファへと彼を座らせた。
「なに、怒ってるの?」
人の反応を面白がるリコを見下ろしながら眼鏡を外し胸ポケットへと仕舞うと、ソファの背凭れに片手をつき先ほど彼がしたように顔を近づける。
顔が命の元ホストであるその素肌は十二分にケアされているのか撫でるととても肌触りがよく気持ちがいい。
「いいかいリコ。君は人を揶揄うと痛い目を見るってこと、知った方がいいよ」
「は、……ッ」
猫の顎を撫でるような手つきで頬を這う温もりに、リコは体を強張らせた。余裕の表情は消え失せ、見開いた瞳で迫りくる名前を見つめるばかり。
我に返って体を突き放そうとした時にはもう遅く、二人の唇は僅かな隙間もなく重なっていたのだった。
軽く重ねられただけの口付けは、ゆっくりと、静かに、離れていく。
至近距離から爬虫類のような金色の瞳に見つめられたリコは頬に熱が集まるのを感じたが、すぐに焦りの表情を浮かべ名前の肩を押し退けた。
「ばっ、あんた、ふざけんなよ!! なんでオレが、男とキスなんかしなくちゃいけないんだ!!」
「仕掛けてきたのは君のほうだろう?」
「だから冗談だって言ってるじゃん!」
名前はそっと息を吐いて焦りながらキレるリコの喚く声を抑えるように指先でその唇に触れる。じんわりと指先へ熱が移った。
「君、冗談を言ってる目つきじゃなかったよ」
目を瞬かせる年下の彼が可愛く思えてしまい口元に小さく笑みを浮かべた名前は、そろそろ作業に戻ろうと背を向けるが片腕を掴まれてしまう。
「待ってよ」
その声とともに腕を強く引かれ、せっかく背を向けた体はまた向き合うことになった。しかもそれだけに止まらず、リコは自分の膝の上に名前を座らせたのだ。
余裕の笑みでも焦りでもなく不満を募らせた表情を浮かべながら、さらには逃がさないとでも言うかのように名前の腰を引き寄せた。
「やられっぱなしのままとかムカつくんですけどぉ」
「男とキスするのは嫌なのだろう?」
「あんたは別」
見上げた名前の表情は穏やかで、胸を騒つかせているのは自分ばかりだと察したリコは苛立ちが隠せない。自分は好かれる側だ。それは絶対。相手を自分の虜にする、それが快感なのだ。
──なのに。
「ねぇ、責任取ってよ」
名前の後ろ髪を撫でたリコはそのまま顔を引き寄せて、薄い唇に噛み付いた。