クラベル

 まるで図書館のようなエントランスホールの三階から階下を見渡すように一人の生徒が手摺りに寄りかかっていた。彼はよく一人でそこにいる。きっとお気に入りの場所なのだろうと微笑ましく思っていたのはつい最近までのこと。無知は罪なり。これほどまでに胸に痛い言葉はないだろう。
 深く呼吸をし、眼鏡のブリッジを指で軽く押し上げたクラベルはその生徒に歩み寄った。

「少々よろしいですか」
「俺は何も知らねぇっすよ」

 こちらを振り向かずに素っ気なく答える態度も今では仕方がないと素直に受け入れることができてしまう。
 彼は──ナマエはこのアカデミーにおいて少々変わった存在であるとクラベルは認知していた。身なりや教師に対する態度を非難する者がいるのは確かだったが着目したのはそこではない。彼の経歴に違和感を覚えたのだ。校長を始めとした教職員が総入れ替えした時期と、彼が生徒会を辞め風紀部を立ち上げた時期が重なっていた。だから、もしかしたら何か知っているのでないかと僅かな希望を抱いたのだ。しかし返された言葉はたった今、彼が口にしたものと同様の答えだった。

「えぇ、そうでしたね。なので……今回はあなたにご相談をしてもよろしいでしょうか」

 けれどもクラベルはもう無知ではない。
 アカデミーは問題を抱えていた。それは校長として赴任した時から存在しているスター団と名乗る集団のことだ。彼らは全員アカデミーの生徒で数々の問題行動を起こしている。さらに一部の生徒たちは長期間の無断欠席が続いており、学則違反の件を含めて教職員の間では適切な処分が必要との声も上がった。つまり退学させる、ということだ。
 クラベルはスター団の生徒たちに処分を与えるのは必要であると思う一方、その判断が本当に正しいことなのか見極められていなかった。なぜ彼らが不良行為に及んでいるのか。なにか理由があるはずだと長らく考え続けていた。だから校長としての立場を隠し直接スター団に会うことを決め実行に移したのだ。
 そうして明らかになったのは過去に起こった深刻ないじめの問題。スター団のボスたちが最初から望んでああなったのではないと確かに知ることができた。だからこそ彼らの処遇については慎重に検討しなければならない。

「相談?」
「はい。ここではなんですから場所を変えましょう」

 怪訝な面持ちで振り返ったナマエに一つ頷き、さすがに多くの生徒が利用するエントランスで話すような内容ではないため彼を伴って校長室へと向かった。
 アカデミーの風紀や規律を取り締まることを活動目的として部を立ち上げたナマエは一見するとその真逆の印象を第三者に与えてしまう。元からそういった性格なのか、それとも一年半前に起こった事件が原因なのかは解らない。ただ一つ確信を持って言えるのは彼が過去を後悔していること。
 校長室に入り、クラベルはいつも自分が使用している椅子には座らずに立ったままナマエと向き合った。これは対等な立場にいることを相手に示すためだ。

「さっそく本題に入りましょうか。スター団の解散および退学処分について、あなたの意見を聞かせてください」
「……そういうのって職員会議とかで決めるもんっすよね」
「生徒の意見も参考にしたいと思いまして。我々教師だけでは見えていないこともありますから」
「なんで俺に?」
「あなたは風紀部ですからね」

 理由付けが少し強引すぎたのだろうか、不審がるようにナマエが眉間にシワを寄せた。だが決して尋ねる相手を間違えたわけではない。彼自身が立ち上げ、彼一人が所属する風紀部。生徒会があれば機能する現状のアカデミーでは必要性を感じない活動だ。あるとすればスター団に対してなのだが、強引な勧誘を注意はすれど彼らの活動自体には積極的に関わろうとはしなかった。

「どうして、あいつらを気にかけてくれるんすか」
「どんな事情があれど彼らもアカデミーの大切な生徒に変わりありません」

 それは嘘偽りのない本心からの想いだ。じっと見定めるようなナマエの視線をクラベルは真向から受け止めた。失った信頼を取り戻すのは容易ではない。元に戻すことは不可能だろう。ならば新しい信頼を誠意を表して築かなければならない。
 
「私は決して目を背けません。逃げずに彼らと向き合っていきます」

 覚えのある言い回しだったのだろう。力強く向けられた言葉にナマエは驚いたように目を見開いた。そんな彼の姿を見つめながら思い出すのは数日前にアカデミーの前校長であったイヌガヤから聞かされた一年半前の出来事。彼の名前が出てきた時には驚きと同時にやはりそうかと一人納得した。

『逃げるのがあんたらの答えなのか! あいつらと向き合わないのが正しいことなのかよ!』

 おそらく今と同じようにこの場所で彼は悲痛な想いを吐き出したはずだ。怒りや失望を色濃く含んだその訴えに応えられなかったとイヌガヤは深く後悔している様子であった。
 そして目の前にいるナマエもまた後悔している。友人を救うことができなかったと。

「知ってたんすね」
「えぇ。イヌガヤさんから伺いました。そして理解できました。あなたが風紀部を作った理由も」
「校長、あんたが思うほど大層な理由なんかないんすよ。俺はただ、何もできなかった自分を誤魔化してるだけだ」

 生徒を守らず、助けず、問題から逃げてしまった教師たち。ナマエはそれを目の当たりにしてしまった。だからそんな大人たちには頼らずに己のみで行動し、生徒たちに同じ過ちが繰り返されないよう見守ることを選んだ。それは、いつか離れていってしまった友が戻ってくる日のために。例えそれが自分のための罪滅ぼしだとしてもクラベルは立派なことだと誉めるだろう。行動に移すのは誰にでもできることではない。大切な友人を想い、アカデミーの生徒を思う心こそが彼の原動力となったに違いない。

「私はあなたほど彼らを理解しているとは言えません。なのでもう一度聞きます。あなたは彼らをどうすべきだと考えますか」
「あいつは……あいつらは被害者だ。退学処分は間違ってる。でも、スター団のやってることは咎められても文句は言えねぇ。それに相応の処分がなきゃ他の生徒にも示しがつかない。けど……」

 そこで言葉を切ったナマエが僅かに俯いた。床を睨みつけるように眉を寄せて目元に力を入れているが、決して怒りからくる感情ではないことを察することができる。まるでそれを自分が言ってもいいのかどうか悩んでいるようであった。床を見ていた視線がこちらに向けられクラベルは静かに、そして促すようにゆっくりと頷いた。

「解散させるのは反対です」
「理由を伺っても?」
「スター団はあいつらが自分たちの手で掴み取った居場所。それを奪う権利は誰にもない」

 そう言うとナマエはそれまで外すことのなかったマスクを顎下まで引き、姿勢を正して深々と頭を下げた。

「だから、だからあいつらから奪わないでください。お願いします」

 やはり彼に聞いてよかった。ほんの少しでも信用してくれたのだと、心の内を明かしてくれて嬉しく思う。クラベルは両手を握りしめたナマエの強張った肩に優しく手を乗せて微笑んだ。
 スター団のアジトを回りボスたちの真意を知っていく中で導き出した彼らのこれからについて。それにようやく最後のピースがかちりとハマった。



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