ピーニャ

 いた。思わず出そうになった声を咄嗟に押し止める。ドアで体を隠しながら教室を覗き込めば、窓際の席に目的の人物は座っていた。昼の授業はもう終わっているため教室に残っている生徒は少ない。ナマエくんは何やら手元のプリントを見つめて悩んでいる様子だった。声をかけてもいいのかどうか迷ってしまい一度教室に背を向けてドアに寄りかかる。
 また拒まれてしまったらどうしようかと考えては怖くなる。無視されることはなくなったが、寮の部屋で彼の想いを打ち明けられてからは声を掛けることに一層の躊躇いが生まれた。今日こそはと思い学年の違う教室へやってきたのだがあと一歩が踏み出せない。不安になってきて持っていたノートパソコンをぎゅっと抱えると、ポケットの中でスマホロトムが震えて飛び出してきた。画面にはメッセージアプリが表示されていて、そこには「がんばって!」というスタンプが並んでいる。
 そうだった。皆に背中を押してもらったじゃないか。落ち込むボクにビワちゃんは励ましの言葉をくれて、シュウメイはどのあくタイプのポケモンを育てるのがいいのかを彼に聞いてくれた。オルティガとメロコもちょっと素直じゃなかったけど心配してくれた。優しい皆の気持ちを無駄にはしたくない。それに、とまた教室を覗き込む。
 あの頃のようにキミの隣で、キミと笑い合いたい。
 よし、と意気込むようにキャップを被り直して教室に踏み込んだ。迷うことなく真っ直ぐに彼の席まで向かい、机を挟んで前に立った。

「ナマエくん」
「……なに」

 影の落ちた手元のプリントに視線は向けられたまま返事がされる。こっちを、ボクを見てほしい。お願いだから。

「ナマエくん」

 鬱陶しいかもしれない。それでも話がしたくてもう一度キミを呼んだ声は少し震えていた。するとペンを遊ばせていた指がピタリと止まり、ゆっくりと顔が上げられる。渇望したキミの瞳にはどこか自責の色が滲んでいた。

「……うん、どうした?」

 ボクがまた泣いてしまったと思ったのだろう。先ほどとは違い柔らかな声音だった。大丈夫、泣いてないよ。だけどキミの声があまりにも優しいから涙を堪えるのに喉の奥がちょっと痛い。それを誤魔化すように口元に笑みを作って向かい合うように空いていた席に座った。

「ボクが作った曲、聴いてくれないかな」
「スター団のために作ったやつだろ」
「! 知ってたんだ!?」
「噂で聞いた。仲間内じゃ評判いいみたいだな」
「うん、ボクの自信作!」

 褒められたのが嬉しくて口角が上がる。一方でナマエくんの表情はなんだか曇っているような気がした。あの頃と変わらずマスクをしていて目元からでしか感情を読み取ることができないけれどボクには解る。あれ、もしかして皮肉だったのかな。そうなら一人で勝手に喜んで、浮かれて、恥ずかしい。
 羞恥心を誤魔化すようにキャップの鍔を少し下げた。

「えっと、約束したっしょ」
「覚えてたのか」
「当然! 一番最初にキミに聴かせるって──!」

 自分の言葉にハッとしていつの間にか俯いていた顔を上げるが、目が合うとそっと逸らされてしまう。忘れてない。だって曲が完成した時に思ったんだ。ナマエくんに聴かせなきゃって。けれどその約束は果たすことができなかった。だってこれはスター団のために作った曲で、ボクたちがボクたちであるために用意した曲で、きっとキミが求めていたものとは違うんじゃないかって勝手に思い込んでズルズルと今日まで来てしまった。キミはずっと待っていたかもしれないのに。
 それなのに相手の気持ちも考えず、ただ聴いて欲しいという衝動だけで行動していた。なんて独りよがりで自分勝手なんだろう。

「お前のせいじゃない」

 謝ろうとして先手を打たれてしまった。唯一気持ちを表す瞳は伏し目がちなままで、それでもキミは今自分を責めているのだと察することができたのはきっとあの日押し込められていた想いを知ったから。でもね、キミに聴かせるという選択を選ばなかったのは結局はボクだったんだよ。だから。

「キミのせいでもないよ」

 なんでこんなにもボクたちは不器用なのかな。笑って欲しいだけなのに。なんでこんなにも難しいのだろう。余程情けない顔をしていたのか小さな笑い声が耳に届いた。机の上には彼の手元から離れたペンがコロコロと転がる。

「約束、したもんな」

 俯けていた視線を前に向けると眉尻を下げながらもこちらを見ているナマエくんの目元は細められていた。


 ヘッドホンを逆さまにして装着するのが彼の癖だったな、とノートパソコンを弄りながら盗み見る。教室にはもうボクたち以外誰も残っていなくて静かだった。時々ポケモンの鳴き声や人の話し声が聞こえるけれどキミの耳にはきっと届いていない。片手でヘッドホンを抑えながら目を閉じて曲の世界に没入しているからだ。スター団の皆に初めて聴いてもらった時よりも緊張しているのが自分でも分かるくらいドキドキしていた。
 リズムに合わせて活発に動いていたオーディオビジュアライザーが落ち着いていき曲の終わりを知らせる。暫く余韻に浸っていたナマエくんがヘッドホンを外すのを見計らって声をかけた。

「どう、だった?」
「……嫉妬しちまうな」

 ポツリと零された言葉に驚く。ナマエくんは嬉しそうに、でもどこか泣きそうに笑った。

「こんな最高の曲作れるなんてお前はすげぇよ。つーか、お前はずっと前からすごかったんだよな。俺はそれを知ってたのにさ……ほんと、スター団の奴らが羨ましい」

 悔しさを滲ませながらも笑みを絶やそうとしないキミを見つめながら、ボクは一人戸惑っていた。一年半。あっという間に過ぎてしまった時間だけれど、とても長い時間だったと今ひしひしと感じる。あの頃のナマエくんは自信に満ちていて、頼れる友人で、憧れだった。隣に立って彼を一番理解しているのは自分だと自負していたんだ。なのに、初めて見る顔ばかりで、初めて向けられる感情ばかりで、心がざわついて落ち着かなかった。

「あいつらがピーニャの傍にいてくれたから、この曲が生まれたんだな」
「うん」
「なら、嫉妬なんかする前に感謝しねぇと。イカした音楽、聴かせてくれてサンキュー」

 そう言いながらヘッドホンを机に置いたナマエくんの手を咄嗟に掴んだ。このまま去って行ってしまいそうだったから。

「……ナマエくんもいたからだよ。スター団の皆だけじゃない、キミの存在もあったから。だってキミはボクの大事な友達だもん」

 スター団の皆がいたからこの曲が作れたのは紛れもない事実。そして趣味程度に止めていた曲作りにのめり込むようになったのはキミがいたから。嘘偽りのない純粋なキミの言葉がなければ自信を持てていなかったかもしれないんだ。そんなボクの声を素直に受け取って笑って欲しい。

「やり直そうよ。もう一度、最初からさ!」

 あの頃に戻るのが無理だと言うのなら新しく始めればいい。それだけのことなんだよ。難しく考える必要なんてない。ボクらはこんなにも不器用なんだから。

「俺は……無理だ。またお前から逃げるかもしれねぇ」
「大丈夫。今度はボクが絶対に離さないから。ポケモンの技だと、くらいつく的な?」

 ちょっとニヒルな笑みを浮かべながら掴んだ手を強く握ればナマエくんの瞳が僅かに揺れた。
 あの日、ボクが泣いてしまった理由をキミは知らない。きっと自分のせいだと責めているんだろう。そりゃあ友達じゃないなんて言われて悲しかったけど、それ以上にボクのことを大切に想ってくれていることが嬉しくて。どうしてそんなひどいことを言うんだと怒りたくて。いろんな感情が押し寄せてきて涙が溢れた。何より、キミがとても辛そうだったのが苦しかったんだ。キミが傷つけたくないようにボクだって大事にしたい。
 ナマエくんは詰まった息を吐きながら机に突っ伏してしまった。思わぬ反応に慌てていると体勢はそのままに顔がこちらに向けられ、少し涙で濡れた瞳で見つめられる。印象深い力強くて余裕のあるものとは違うそれにドキリとした。

「あのさ、ワガママ言っていいか?」
「……いいよ」

 本当に、今日は初めて見る一面ばかりでキミと過ごせなかった時間を早く取り戻したくて仕方がない。
 口元のマスクが顎まで引き下げられナマエくんの口元が露わになる。獣の爪痕が残る唇が薄く開いて、躊躇うように閉じてしまう。急かすことはせず黙って彼のワガママを待っていると意を決したように上体を起こして正面から視線を送られた。

「俺は……一番がいい。宝物じゃなくていいから、ピーニャの一番でいたい。ダメか?」
「だ、めじゃない! 全然OK! むしろ歓迎、みたいな?」

 告げられた言葉を飲み込むよりも先に、考えるよりも先に、椅子から立ち上がってそう口にしていた。自分で自分の行動に驚いて、恥ずかしさに顔が熱くなり俯く。離さず握っている手も少し汗ばんでいる気がした。気持ち悪くないかな、とそっと顔を上げればはにかむ様にナマエくんは笑っていた。
 あぁ、ようやくキミの笑顔が見れたよ。


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