ピーニャ

 窓から入ってくる穏やかな風が机の上に広げられた教科書のページをペラペラと捲っていく。頬杖をつきながら風に遊ばれるページを押さえたナマエは隣に座るピーニャへ視線を向けた。勉強を教えてくれと頼まれたのはつい昨日のことだ。長くアカデミーを離れていて授業も受けていなかったことを考えれば断る理由もない。むしろ助力を求められるのは嬉しいことだ。
 しかしピーニャは元々成績優秀な生徒であり性格も勤勉かつ真面目である。ナマエに教えを乞うたのは勉強会を始めた最初の十分程であり、その後は一人すらすらと課題を進めていった。時折会話は発生するが、そのほとんどは一往復で事足りてしまうような内容ばかりだ。

「なぁ。俺いる意味なくね?」

 だから構ってもらえない子供のように拗ねた様子でナマエがそう言ってしまったのは仕方がないことなのかもしれない。ピタリとノートに走らせていたペンを止めたピーニャは驚いたように顔を上げた。

「え、なんで? すごく助かってるよ」
「俺なにもしてねーじゃん」
「大丈夫、先生役務まってるよ! 質問への答えも的確だし解りやすいもん」
「それお前の理解力がいいだけだろ」
「あと、ナマエくんから勉強教わるのってなんか新鮮だからつい聞きたくなるんだよね」

 まるで悪戯が成功した時のような笑顔を向けられ、そういえば質問を受ける時は必ず「はい先生質問!」と声をかけられていたことを思い出す。それからさほど難しくもない、それこそ教科書を読めばすぐに答えは導き出せる程度の問題ばかり尋ねられていたことも。むしろ何故そのことに自分は気付かなかったのかと呆れてジトっとした視線を返した。

「面白がってるだけじゃねーか。あーもう終わりだ終わりー」
「先生が途中で授業放棄するのはダメっしょ。まぁボクもちょっと浮かれてたけどさ」

 不貞腐れながら机の端に退かされたナマエの教科書を回収したピーニャが風で捲られたページを課題範囲の箇所まで戻す。そして重要な部分に引かれたマーカーを指で撫でて少しだけ目元を細めた。

「学校でまた勉強できるようになったのそんなに嬉しいか?」
「うん。それもあるけど、キミと一緒に勉強するのが久しぶりでマジで楽しいんだよ。もっとこの時間が続いて欲しいくらいにね」
「お前なぁ……」

 恥ずかしげもなく素直に気持ちを口にする友人を横目に聞いてるこっちが恥ずかしいとナマエは軽く息を吐いた。二人の関係が拗れる前まではよくこうして一緒に勉学に励んでいたことを忘れるはずがない。あの頃は勉強が苦手でついていくのが精一杯だったから楽しいと思っていたのはピーニャだけかもしれない。けれど、今となってはあれは眩しい思い出だったのだと認識できる。

「……ったく、ほらさっさと続きやるぞ」
「嬉しいアンサーサンキューね!」
「あ、数学だけは聞くなよな」
「今でも苦手な感じ? なら、またボクが教えてあげるよ」
「俺はもうずっと先の授業を受けてるんだけど?」
「んー大丈夫っしょ。ボク数学は得意なほうだし、予習も兼ねて勉強しとく」

 任せて、とでも言うようにピーニャがグッと親指を立てる。

「そりゃ頼もしいねぇ」

 自信に満ちたその顔に目を瞬かせたナマエは気が抜けたかのように肩を竦めながら笑みを浮かべた。それからペンを握り直して再び課題に戻った友人の邪魔をしないようにとポケットからスマホロトムを取り出して弄り始める。やはり暇なものは暇なのだ。
 勉強会なのだから科目や授業範囲は違っていても一緒にノートを広げて勉強をすればいいのにと第三者なら指摘するだろう。しかし生憎とナマエはそこまで勉学に対して真面目ではなかった。
 動画アプリを起動しお気に入り一覧から動画を選んで再生させる。もちろんピーニャの勉強の妨げになるので音は出さず、いつ声を掛けられてもすぐに反応できるようにイヤホンもしない。その必要がないくらいにはもう何度も動画で流れている人物の曲は聴き込んでいたし、映像を観るだけでも満足感はある。

「それって哀愁のネズ?」

 ピーニャがナマエのスマホロトムを覗き込んだのは動画のお気に入りリストが半分ほど進んだ頃合いだった。あれから質問らしい質問はせず一人で本日の課題を終わらせてしまったのだ。結局のところ勉強会というのは二人の時間を取り戻すためのただの口実だったのかもしれない。
 スマホロトムの画面にはマイクスタンドを抱えて熱唱するガラル地方では有名なアーティストが映し出されている。

「そ。これは去年のチャンピオンカップ後のライブ」
「SNSで話題になってたやつだよね。せっかくだから音も楽しもうよ」

 そう言って首元にかけていたヘッドホンを外したピーニャは片方だけを自分の耳に当てた。その意図を汲み取ったナマエは座っているイスを少し引きずるように隣に寄せてヘッドホンの空いているもう片側を掴んで耳へ近づける。スマホロトムとヘッドホンを無線で繋いでから音量を上げるとライブ特有の爆音サウンドが二人の鼓膜を揺らした。
 頭の中で想像するだけでは補えないリアルな音にナマエの口元は緩く釣りあがる。

「やっぱネズの声やべぇー。シャウトがエグい」
「だよね。このサウンドも超イカす」

 気付けば机の上では指で、机の下では足で二人はそれぞれリズムを取っていた。

「ライムのライブも最高だけど、いつかネズのライブも行ってみてぇな」
「生でネズの歌声聴いたらナマエくん倒れちゃうんじゃない?」
「うっ、否定できねぇ……興奮しすぎてどうにかなりそうなの自分でも想像つくわ」

 その言葉にピーニャは思わず声を漏らして笑った。ナマエが地元で人気のアーティストであるライムと並ぶほどかそれ以上にネズの熱狂的なファンであることを知っているからだ。寮の自室に飾られているたくさんの音楽ディスクもそのほとんどが二人のアーティストで占められているし、ネズのサイン入りポスターが貼られていることもよく覚えている。なので実際に本人を目の前にした場合の反応は想像に容易いのだ。
 それもあってピーニャはナマエの音楽の趣向をよく理解していると自負していた。

「ネズは最高だよ。でも、俺はピーニャが作った曲が一番好きだな」

 だから不意を突くように告げられたその言葉にリズムを刻んでいた体がピタッと止まってしまう。ピーニャ自身もネズのファンでありライムをリスペクトしていた。自作した曲もそれらのアーティストの影響を少なからず受けている。曲調やテイストだけで言えばナマエが好みそうなものだと作っている途中でもう気付いていた。けれども、だ。まさかネズの曲を差し置いて一番だと言われるなんて想像もしていなかった。
 思い返せば曲の感想を貰ったことはあれど、好きだと言われたのは初めてになる。ピーニャはヘッドホンから伝わるサウンドのテンポに合わせて自分の鼓動も早くなっていることを自覚した。



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