ニシタカユキと大学生

 酒に溺れた父親の拳から逃げるようにして家を出た。仕事を終えたサラリーマンもすでに帰宅したであろう時間帯の夜道は静かで、やさぐれそうになっていた気持ちが凪いでいく。そしてほんのりと感じる寂しさと孤独さが適度に自分を酔わせた。こんな自分を、学校の皆は誰一人として知らない。勉強ができても、スポーツができても、他人より顔が整っていても、全てが恵まれているわけではないのだ。本当に欲しいものは未だに指先ですら触れられないままで、それはまるで夜空に手を伸ばしても届くことはない星々と同じだった。
 そう自嘲気味の笑いを漏らし空へと向けていた手を下ろして再び歩み始めた。今夜はどこへ行こうか。この時間ではもうゲームセンターに行っても追い出されてしまう。駅前の本屋だって閉まっているだろう。ならばクラスの女子が噂していたガード下にでも行ってみようか。噂が真実なのか、嘘なのか、そんなことには大した興味もないけれど、もしかしたらムラセに声をかけるネタが新しく手に入るかもしれない。そう思うと足取りも軽くなりそうなものだが、本音ではあいつと一緒に行きたかったという想いのほうが強い。あぁ。せっかく穏やかになってきた気持ちがまた腐りそうだ。

「そこの少年」

 誘いを断られてからまだ半日も経っていない出来事を思い出しては面白くない気分になりかけていた時、知らない男の声に呼び止められた。それが自分に向けられたものだとすぐに分かったのは周囲に他に人がいなかったからだ。見渡せばいつの間にやらボロアパートの建ち並ぶ通りにまで来ていたようで、無意識にムラセの家にでも向かっていたのかと馬鹿なことを考える。
 一度だけ、今夜と同じような時間に訪ねたことがあった。自分でも非常識な行動だと自覚している。それでも心のどこかでムラセなら受け入れてくれると期待していたのだ。

「おーい少年。聞こえてる?」

 また声を掛けられた。どうやら気のせいでも幻聴でもないようだ。振り向いて少し見上げるとアパートの二階のベランダに男が一人立っていた。煙草を口に咥えながら、だらけるように手摺りに寄りかかり頬杖をついている。防犯灯に照らされた顔には人当たりのいい笑みが浮かんでいた。

「こんな夜遅くに出歩くなんて、お兄さん心配だなぁ」
「あー……塾の帰りで、家、すぐそこなんで」
「そっか。ここらは外灯も少ないから気を付けるんだよ」

 ゆらゆらと手を振る親切だがどこか怪しい男から視線を逸らしてすぐに背を向ける。逃げていると悟られたくなくて速足になりすぎないように意識しながらその場を離れた。咄嗟に嘘を吐いてしまったが多分あの男にはバレているのだろう。なんとなくそんな気がした。いや、よくよく考えればすぐに見破られる嘘なのだ。普段からこの道を自分と同じくらいの子供が通っているのなら、わざわざ男が声を掛けてくることもない。見知らぬ子供が夜遅くにふらふらとしていれば心配されるのも当然だ。だからとこちらも見知らぬ大人に「家に居たくないから」などと素直に言えるわけがないのもまた当然のことではある。
 腕時計を見ればそろそろ父親も酔って眠ってしまっている頃合いだろう。交番のお巡りさんに補導される前に今夜はこのまま家に帰ることにした。


 ニシタカユキには人望がある。僻みや一方的なライバル視をしてくる生徒はいるがそれでも男子には一目を置かれ、女子からの好感度は高く淡い想いを寄せられることも少なくはない。学校内では常に周囲に人がいて、わざわざ出向かなくても相手からやってきてくれるほどだ。とんだ変わり者でもない限り皆が彼と接点を持ちたがる。けれど他人に染まるわけでなく、集団に混ざるわけでなく、常に一歩引いた一匹狼的な存在でもあった。
 とはいえ実際に多くの友達がいるのは事実。休み時間にはクラスの女子と流行りのアーティストの話をしたり、昨日観たテレビの話題で盛り上がったり、ユアサたちと街の不可思議な噂話を冗談混じりに語り合ったりして過ごしているのだから。放課後や休日に遊びに行くことだって普通にある。誘われることはもちろん、誘うことも少なくはない。ニシ自身もそこを否定したりはしない。彼らを友達かそうでないかと問われたら素直に友達と答えるだろう。別に楽しくないわけではないのだ。
 しかし二人だけでの遊びの誘いや家に居たくないと思う夜に気軽に家へ訪ねていけるような、そんな気を許せる程の友達はいなかった。嫌われるのも距離が近すぎるのも何かと面倒だと思っているからなのか。それとも、もっと大人になれよとどこかで見下してしまっているせいなのか。

「よう、ムラセ」
「ニシ君。ゴメン、ジャマしちゃったよね」
「気にしなくていいって。それよりムラセは知ってるか?」

 付かず離れず、平等に周りと接している時点で望む友人関係が築けるわけもない。ある程度その自覚は持っているからこそ唯一友人として親しくなりたいと、心を開いてもいいという相手には積極的に自分から歩み寄っている。なにより休み時間を女子たちとの退屈なお喋りで過ごすよりもムラセと言葉を交わすほうがよっぽど唯意義だ。

「────ってことらしいんだ。放課後、一緒に見に行ってみようぜ」
「あ、今日は塾があるから」
「終わるの待つよ?」
「悪いよ。遅くなっちゃうし」

 けれどムラセナオキは一向に振り向いてはくれなかった。もっと強引に近付けば優等生の少年は受け入れざる負えないだろうとずるい策略を立ててみるが、もし拒絶されたらどうするんだという恐れも抱いてしまう。そう感じてしまうのは彼が初めてで、きっとこの先そういう相手には滅多に出会えないのだろうことも解っていた。理由は定かではないけれど特別だということは確信している。
 またくだらない噂話でも探しに行くのか教室を出ていく後ろ姿を見つめながら女子たちの話に適当に相槌を打っては聞き流した。
 そうして楽しい時間はほんの僅かな退屈な一日は過ぎていき、太陽が沈んだ。今夜も酒の注がれたグラスを傾ける父親から顔を背けて部屋に戻るフリをして家を抜け出した。綺麗なはずの星空は厚い雲に覆われどんよりとしており、湿った空気が肌にまとわりつく。おかげで気分はちっとも晴れやしない。
 
「今日もあいつらと散歩してんのかなー」

 そう声に出してみたものの、さすがに女子二人をつれてこんな遅くまで犬の散歩などしているわけがないと肩を竦める。自分なら夜中だろうが朝までだろうがいくらでも付き合えるのに、と。
 どれだけ周りから慕われていようが皆が見ているのは上辺だけ。知っているのはほんの一部だけ。けれど不思議とそれには寂しさを覚えない。解る奴に解ればいいのだから。そうなると、いや、だからこそなのか、ムラセには振り向いてもらいたいという欲が出る。興味を引かせたい。関心を寄せて欲しい。シイナクルミに向けているような心の壁のない笑顔が見たい。ただそれだけのことなのに何故自分は許されないのか。どこが違うというのか。考えれば考えるほど沼にハマっていくようで虚しさと苛立ちが腹の底に募っていった。

「なぁ、ナオ。オレのどこがダメなんだ、よッ」

 八つ当たりするように近くの電柱を足の裏で蹴ると元々劣化していたのか防犯灯がチカチカと数回点滅する。小さな子供のような振る舞いをすれども頭の中はもう子供ではなくて、感情任せに物に当たるとかオヤジと同じじゃないかと自責の念に駆られては乾いた笑いを零した。

「やぁ少年。勢いあまって蹴り倒してくれるなよ。ボロアパートが潰れてしまう」

 耳に届いた記憶に新しいその声にハッとして周囲を見渡せばそこはボロアパートのある通りだった。またここへ来てしまっていたようだ。あの時のようにアパートの二階を見上げれば煙草を口に咥えた男が手摺りに寄りかかり頬杖をついた体勢でこちらに視線を向けていた。ということは見られていたのだろうか。聞かれていたのだろうか。羞恥心から顔が熱くなるのを感じて、それを隠すように顔を背けた。

「倒せるわけないだろ」
「どうだろう。若者のエネルギーは計り知れないからね」
「……なんかその言い方、おっさんみたい」

 無視をすればいいのにあまりに素頓狂なことを言うものだから思わず反応してしまった。普通に考えて人の力だけで電柱を倒すなんて無理に決まってる。そういう意味も込めて呆れた視線を送れば、男はきょとんとした後に肩にかからないくらいのロン毛をかきあげて笑った。
 よく観察してみると話し方からイメージするよりも見た目はまだまだ若い。煙草を吸っているから成人はしているのだろうが、でも社会人かと言われたら少し違和感が残る。大学生というのが一番しっくり来るのかもしれない。本当のところはどうかも解らないけれど。

「どれ、悩みがあるならお兄さんが聞いてあげよう」

 笑いの収まった男──仮に大学生と呼ぶことにしよう──は口元から煙草を外し、人差し指と中指の間にそれを挟んだまま頬杖をした。ヒトの良い微笑みを浮かべているがそれが却って怪しさを生んでいる。

「……あんたには関係ないから」
「そりゃあね。でも関係ない相手だからこそ言えることも世の中にはたくさんあるのさ」

 自分のことを知らない相手なら気軽に言えることもあるのは確かだ、と危うく納得しかけてしまう。言葉にすればはすっきりするのだろうか。解決にはならなくとも気持ちは軽くなるのだろうか。そんなかもしれないばかりが浮かぶのは少なからず自分でも楽になりたいと思っているから、なのかもしれない。喉元まで出かかっている鬱屈な想いを抑え込みながら再度大学生に視線を向ける。見ず知らずの赤の他人に抱えているものを吐露するのはやはり抵抗があった。

「やっぱ、いい」
「そう」

 大学生は指に挟んでいた煙草を口元に寄せて一拍置いてから曇り空へと向かってゆっくりと煙を吐き出した。緩やかな夜風に流された煙はすぐに消えてしまう。

「誰かに聞いてほしくなったら、またここへおいで」

 それが別れの合図だと察して大学生の住むアパートの前を通り過ぎると湿ったアスファルトの匂いが鼻を掠めて空を見上げた。もうすぐ降ってきそうだ。ふと、後ろを振り返ってみたくなる。だが煙草の煙と同じようにそこに何もなかったら、と考えてそのまま振り向かずに歩き出した。
 全てを見通したかのような怪しくも優しい声が妙に頭に残っていて、家に帰るまでの道中、眠りにつくまでの曖昧な意識の中、何度も去り際の言葉を繰り返した。


 誰かに話そうと思ったことは一度もない。そういう機会もなかったし、相談できる相手もいなかった。そもそも誰にでも打ち明けるような内容ではない。ムラセと仲良くなりたいんだけどどうしたらいいか、なんてことを学校で口にしたらどうなるか判らないわけがないのだ。ユアサたちはそんな必要ないと言って彼の悪口ばかりを向けてくるだろう。女子たちは話の趣旨を理解していないのか私と仲良くしようなどと擦り寄ってくるに決まっている。どうして皆、そんなにガキなんだ。
 たまには一人になりたい休み時間もある。トイレに行くフリをして教室を出て、廊下の窓から昨夜の曇天が嘘のように晴れ渡った夏空を見上げた。いつも涼しい顔をしているニシタカユキがたった一人の男子生徒を相手に日々悩んでいるなんて誰も知らない。きっと知ろうともしないのだろう。

「ニシ君、なんか元気ないね。どうしたの?」

 やはりムラセだけは違う。こういう時、気付いてくれるのはいつも彼だけだ。それが嬉しくもあり遣る瀬なくもあった。一体誰のせいでこんなに悩んでいると想ってるんだよ、と勢いに任せて言ってしまいたくなる。

「なんでもないよ。ところでムラセ、今日は暇? この前言ってたバンドの曲聴きにウチ来ねぇ?」
「……ゴメン、今日も犬の散歩があるから」
「つれないなーほんと」

 心底残念がるように言えばムラセは困ったように後ろ髪をかいてから教室へ戻っていった。
 どうせ気付くならもっと踏み込んできてくれたらいいのに。噂の真相を突き止めるように赤裸々に全部暴いてくれたらいいのに。いや、もっと簡単に、ただ仲良くしてくれたらいいのに。今よりももう一歩が欲しいだけなのに。こちらは心を開いているのにどうしてムラセは頑なに鍵を開けてはくれないのだろう。何故自分ばかりが欲しがって求めているのか、自分に何が足りないのか、どんなに会話を重ねても答えは返ってこない。
 短い休み時間が終わり授業中も教師の声を聞き流しつつ考えに耽っていればあっという間に放課後だ。ユアサたちから遊びに誘われて気分転換に乗ってはみたが、心の中では早く夜になればいいのにと何度も呟いていた。今の心理状態でシイナやヒラウチたちと犬の散歩をしているムラセなど見たくはなかったからだ。自分以外の奴と楽しそうに笑っている姿を見たくはない。早く、陽が沈めばいいのに。夜が深まれば皆も家に帰ってくれるから何も気にせず一人でいられる。

「やぁ、こんばんは」

 そう思っていたはずなのに、いざ暗闇の空に星の広がる時間になったら足は自然とボロアパート通りまで進んでいた。大学生は変わらず二階のベランダに佇んでいて、目敏くこちらに気付くと咥えていた銘柄も分からない煙草を指で挟んで親し気に挨拶をされる。反射的に返事をしようと口を開くが、夜風に靡いた髪をかき上げる至って当たり前の動作につい目を奪われて一瞬だけ声の出し方を忘れてしまった。

「…………どうも」
「煙草の匂いは平気? そっちまで届いてる?」
「別にへーき。てか、今更気にすること?」
「今夜はそっちが風下だからね」

 言われると確かに風に乗って仄かに苦い匂いを感じる。普段なら眉を顰めたくなる臭さだけれど、これだけ空気に薄められたら気にならない。それにしても配慮の姿勢を見せながらも煙草の火は消さない辺り本心で気遣っているのかは疑問だ。他の大人たちと同じように夜遊びをする未成年を心配する様子を見せるから悪い人ではないのだろう。一方で他の大人たちと同じように家に帰れと諭さないあたり良い人でもない。

「それじゃあ、初めましてから始めようか。悩める少年」
「別に、話を聞いて欲しくて来たわけじゃない。ただの暇つぶしだよ」
「そうかい。なら好きなだけお喋りをしよう」

 不思議な感覚だ。干渉するけど踏み込みすぎない。それをどこかムラセのようだと感じて心臓のあたりが締め付けられた。けれど、どうしてかそれが心地好かった。
 この日はすぐに立ち去ることはせずいろいろなことを話した。まともな自己紹介もないまま始まり今の中学生はどんなことをして遊んでいるのか、いつもこの時間はベランダにいるのか、夜の散歩は落ち着くだろうね、など繋がりのない話題を好き勝手にお互いが投げかける。ほとんど中身のない会話だ。けれど出会って三度目にして男が大学生であるということが判明した。自分の観察眼は間違っていなかったと少しだけ得意気になったのは内緒だ。
 そんな中で相談とも言えない程の内容だが誰にも打ち明けることのできなかった友達への欲を吐き出した。周りの連中はバカばかりだけどあいつは違う、とか、逆にあいつはもっとバカなことをした方がいい、とか、そんなニュアンスで。もっと心の奥底にあるモノには蓋をしたままだったが、気を抜けば濁流のように溢れ出てしまいそうで何度か言葉に詰まる。自分が惨めになるから言いたくない、でも誰かに聞いてほしい。その矛盾が時折固く口を閉ざした。

「また来てもいいよ。俺は暇な大学生だからね」

 沈黙が続くと大学生はこちらのことを見透かしたかのように人当たりの良い微笑みを浮かべてそう言うのだ。そしてこれが今夜の別れの合図。この奇妙な時間を名残惜しいとは思わず、むしろ考えが渦巻いてきた頭に冷静さを取り戻したくなったからタイミングが良かった。それも相手には筒抜けだったのかもしれない。
 また来てもいいという大学生の言葉を鵜呑みにしたわけではないけれど、この交流を境に家にいたくない時やムラセに遊びの誘いを断られた日の夜はボロアパート通りへやってくることが増えた。いつの間にやらこの場所に来ることが、大学生との会話が、唯一の息抜きになってしまったようだ。それもそうだろう。気を遣わなくてもいい大人の存在は貴重で、こちらに踏み込みすぎないところも好ましいと思っている。何より相手を見ているようで見ていない優しさのベールに覆われた微笑みが怪しくて、興味をそそられるのだ。
 何故そこまで大学生に惹かれるのか。何故会いに来てしまうのか。ニシ自身も知らないその答えは意外にも相手から提示された。

「俺はね、君が見ている、感じている世界の外側の人間なんだ。だから新しい発見の連続で退屈しない。それに心も満たしたくなるだろう? 君がここへ来るのはそれが理由さ」

 つまりはただの好奇心で此処へ来てるということだろうか。この二人だけの空間を心地の良いものだと感じているのも、相手を知らないからこその一方的なものだとでもいうのか。でも否定はできなかった。確かに自分の中にそういう一面はあるのだろう。そこでふと、もしかしたらムラセに対してもそういう理由で親しくなりたいと思っているだけなのかと気付いて頭が冷えた。いや、違う。彼とはただ普通に、シイナやヒラウチたちよりも近い距離で仲良くなりたいだけだ。
 無自覚のまま気難しい表情になってしまっていたのか大学生は軽く笑いを零して、一呼吸置くように煙草を吸った。

「さて、ここで一つ君に問いかけよう。満足感を得て、退屈を感じてきたら、君にとっての俺はどうなると思う?」
「どうって……そうだな……興味がなくなる、とか?」
「君は聡明だね。そう、晴れて君の世界の内側の人間となるわけだ」
「それ、イマイチよくわからない」

 もっと判り易く教えて欲しい。そう思えど、直接的な答えよりも抽象的な物言いのほうが怪しい大学生らしさがあると納得してしまう。それに自分自身、心のどこかでは解かりかけている感覚もあった。
 大学生はベランダの手摺りに頬杖をついていた体を起こして遠くを見つめるように星空を見上げた。

「当たり前になるとは、そういうものさ」
「じゃあ、いつかあんたもそうなる?」

 それは嬉しいようで、悲しいようで、勿体ないような気さえする。期待や不安が入り混じった声からそれを察したのか大学生は再び手摺りに頬杖をついてこちらに視線を戻した。

「君次第だ。それを喜びと捉えるか、後悔するかも君次第。さ、今日はこのくらいにしよう。気を付けて帰るんだよ」

 今夜はこれ以上のお喋りは不要だと言わんばかりに煙草を口に咥えてしまったのを見てボロアパートに背を向ける。大学生の言葉を自分なりに解釈するのであれば、いつかはこのボロアパート通りを歩かなくなる日が来るのかもしれない。そう思うと途端に寂しさを覚える。当たり前のようにそこに居て欲しいと願ってしまう。これはムラセに対するソレと似たものだ。
 これまで別れの合図をした後に振り返ったことはなかった。過ごしていた時間は夢幻で、現実ではないのだと突き付けられたくないから。けれど今夜だけは勇気を持って、いや、もしかしたらただ無謀なだけの行動かもしれない。歩みを止めてボロアパートの二階のベランダを振り返ってみる。

「あのさ!」

 そこにまだいる人影に安心して無意識に声を出していた。大学生の顔がこちらを向いて不思議そうに軽く顔を傾げたのが見える。

「明日も来るから。ちゃんと、そこにいてくれよな」

 言い逃げの如くそのまま背を向けて走り出した。きっと大学生は薄く微笑みを浮かべて了承の意を示すようにゆらゆらと手を振っているに違いない。そう、ムラセのように断られることはないと解っている。解っているからこそかもしれない。拒絶の答えを聞くのが今では心底恐ろしい。
 ニシタカユキには人望がある。男子には一目を置かれ、女子からの人気も申し分ない。勉強もスポーツも人並み以上に器用に熟せる自覚がある。けれど本当に欲しいものには指先すら届かない。その虚しさと孤独感を誰よりも抱えている。だからようやく見つけた心の拠り所を失いたくはないと、防犯灯に照らされる夜道を全速力で駆け抜けてた。





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