高杉と隠し刀

 片割れとの決着を付けた後、薩摩の屋敷で行われた談判が無事に終えたことを知った隠し刀は勝海舟の邸に戻るべく馬を走らせていた。日ノ本の行く末を大きく変える会談の結果を皆も早いところ知りたいだろうと。そうして暗い夜が明けた朝日に照らされる江戸を馬で駆けていたのだが、暫くした後ふと思い立ったかのように進路を変えた。向かった先は長州藩の下屋敷。確信はなかったが待ち人がそこにいるような気がしたのだ。
 屋敷の門の前で馬から降りれば微かに三味線の音色が聞こえた。どうやら天賦とは言わないまでも相応の勘は自分にもあるようだと小さく笑みを零す。その音を追うように屋敷へ上がり奥の部屋まで進むとこちらの気配を感じ取ったのか、それとも丁度曲の終わりだったのか、弦を弾く撥の動きが止まってしまう。邪魔をしてしまっただろうか。遠慮気味に和室へと踏み入れば待ち人である高杉が口端を僅かに吊り上げながらこちらに顔を向けた。

「よぉ。ちゃんと俺の元に帰ってきたな」

 まるでそうであることが当然だと言わんばかりの自信を含んだ笑みを浮かべる男を目の前にして気が緩んだかのように体から力が抜けた。畳に片膝を付いてしまうほどの有り様に自分でも驚いてしまう。戦場であればこのような隙は見せないのだが、こうなった理由には無論心当たりがある。そして異論はない。
 そうした隠し刀の心情など知らぬ高杉が三味線を脇に置いて立ち上がり、傍へ寄ってきては体を支えるように肩に手を置いた。療養の身でありながら京より駆けつけてくれたこの男は勝の邸で見送りをした後、こうして片割れとの決着を付け戻ってくるまで眠らずに夜通し三味線を弾いて待っていてくれたのだろう。そう思うと途端に愛おしさが込み上げてくるものだ。故郷はなくなってしまったが帰るべき場所は彼の元なのだと強く感じる。

「おい大丈夫か。深手を負ってる様には見えんが」
「大した怪我はしていない。ただ……お前の顔を見たら安心してしまった」

 その想いも込めてこちらの様子を伺う瞳を見返しながら伝えると、虚を突かれたような顔をした後に高杉は声を上げて笑った。

「嬉しいことを言ってくれる。あんたが無事に戻って来ただけでも充分だというのに、それ以上の驚きをくれるとはな」

 やはりあんたは面白い、と続けながら差し出された高杉の手を借りて立ち上がる。おそらく戦場でも滅多に見せることのない気の抜けた姿を晒せるのは片割れとこの男の前でだけだ。今となってはたった一人に限られてしまったが敢えてそのことを口にはしない。多くを聞かれないのは、つまりはもう気付いているということだ。五体満足で帰ってきたことが何よりの答えだろうとお互いに解っていた。
 それを裏付けるように高杉は腕を組むと隠し刀の顔をじっと見つめ、ふっと目元を和らげた。

「その様子じゃあ、あんたのほうも決着は付いたんだろう」
「あぁ。もう大丈夫だ」
「そうか。これでようやく、よそ見をされる心配もなくなった」

 勘の鋭さだけでなく人を見抜くことにも長けているこの男に隠し事は難しい。最後の己が決めた片割れへの選択すら見透かされているのだろう。それでもこちらを試すように顔を覗き込まれ、侮れない男を好いてしまったようだと思わず笑みを零して頷いた。
 一時は賑やかだったこの下屋敷も久坂を失い、多くの犠牲を払った戦を経て、随分と静かになってしまった。自覚していなかったが懐かしさを覚える程に馴染んでいたらしい。今でも奇兵隊が出入りしているようだが屋敷で奏でられていた三味線の音に遠慮したのかもしれない。縁側に向かい空を見上げる高杉に続き、その隣に立ち並ぶ。太陽はすでにすっかりと昇っていた。

「日ノ本はこれから大きく変わる。俺は国許で新たな奇兵隊を作るつもりだったが、その必要はもうなさそうだ」
「いいのか? 弱った体に鞭打ってまで大業を為そうとしていただろう」
「倒すべき幕府はもういない。今の奇兵隊も伊藤や山縣らが新たな形で導いてくれるだろうさ。それに労咳が完治したわけではないからな、無茶はできん。ま、腐った連中が出てくれば黙ってはいられんがな」

 命を投げ打ってでも同志の元へ馳せ参じようとする気概を持った男がこのまま大人しくするとは到底思えなかった。病に倒れて以降は行動を控えるようになったが最後に出たのが本音であろう。本来なら旧幕府軍との戦にも参戦してほしくはなかったのだ、放っておいたらまた無理をしかねない。

「せっかく救った命だ、無下にされては私も困る。どうしてもという時は私が相手になろう」
「ははは、それもいい。さて、俺の命を拾ったのはあんただ。この命、どう使ったもんかねぇ。あんたの隣で面白い事を興すのも悪くない」
「お前ならすぐにでも為すべきことを見つけられる」
「随分と俺を買ってくれる。そうだな……この身が持つならば、今度こそあんたと共にことを為したいものだ」

 不安を煽るような物言いだが、命を賭けても、と口走らないあたりこの男も変わったのかもしれない。志半ばで一度は倒れてもこちらを見つめてくる瞳には未だに焔が宿り続けていた。その瞳を、熱を、想いを受け入れるように見返せば高杉は目元を細めて小さく笑うと軽く俯く。そして柱に背を預けてから湿った空気を仕切り直すかのように顔を上げた。

「それで、あんたはこれからどうする」

 問われ、少し目線を下げながら腰帯に差した刀に触れた。いつかこの手が刀を握らなくなる日がくる。人を斬る必要のない新たな世がくる。刀を手放すのはそう遠くはないのかもしれない。思い起こすは片割れが置いていった地面に突き刺さる一振の刀。それは幼き日より記憶に刻まれていた遺恨から解き放たれたことを象徴していた。同じ場所で日本の行く末を見れずとも新たな一歩を踏み出したその証は、自らもまた新たな道へ進んでいいのだという許しのようでもあった。
 隠し刀は静かに微笑んで高杉へと顔を向けた。

「この国の夜明けを見ながら、ゆっくり考えるさ」
「あんたが何をするのか楽しみだ。だが、まずは松陰さんと久坂に唄の一つでも届けにいかんとな」

 和室に置いてきた三味線を取りに戻る男の背中を見つめ、そして瞼を閉じる。
 国の体制が変わっても人が変わるわけではない。今もどこかで弱き者が虐げられている。それを見過ごせるような性分ではなくなってしまったが故か、これから選んで進む道は決して楽なものではないのだろう。けれど、藩命のために育てられ生きてきた自分を変えてくれた者たちがいた。どんなに険しく厳しい選択をしたとしてもその道には共に歩んでくれる者がいる。
 ゆっくりと瞼を上げれば三味線を背負った高杉がこちらへ戻ってきた。この男と一緒ならば、臆することなくどのような生き方もできよう。




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