高杉と隠し刀

 杯に注がれた酒を空にしたのは何度目か。程よく酔いも回り頬が火照ってきた頃合いで隣に座る浪人を見やる。涼しい顔をしながら女中から酒を注がれているが、飲んだ量は自分と同等、いやそれ以上だろう。高杉は宴会が始まってからそれほど時も経たないうちに場を盛り上げようと杯の代わり撥を握っていた。その間も水の如く酒を流し込む浪人は坂本らと酌み交わしていたのだから。
 横浜で出会ってからこれまで、何かと理由をつけては設けられた宴会の席には幾度かこの浪人も同席していた。しかし一度も酔った姿を見たことがない。

「これだけ飲んでも顔色一つ変えんとは、腕っぷしだけじゃなくて酒にも強いんだな。薩摩の連中とも渡り合えそうだ」
「強い、わけではないんだ。過去にいろいろとあってな」
「ほう、あんたでも酒で失敗したことがあるのか。それは興味深い。酒の肴に一つ語ってくれてもいいんだぜ」
「面白い話ではないが……」
「構わんさ」

 促すように酒を注いでやれば浪人は困ったように眉尻を下げながら杯の中で揺れる酒に視線を落とした。こちらには踏み込んでくる癖に自らの過去はとんと語らない流れ者が一体どんな話を紡いでくれるのか、楽しみで仕方がない。高杉は口元に笑みを浮かべながら己の杯を傾ける。

「……あれは潜入の任を受けた時だ」

 語りかける、というよりは記憶を手繰り寄せて声に出しながら思い出す、といった様子で浪人が口を開いた。周囲の活気づく同志たちの声に遮られ聞き逃してしまわぬように耳をそばだてる。

「私はどうも周りに合わせて飲んでしまう質のようでな。酔った勢いでうっかり標的と意気投合してしまった」
「なんだ、そこは今も変わってないんじゃないか」
「痛いところを突いてくるな。この話はここまでにしておこう」
「悪かったよ。もう邪魔はしない」

 お前が話せと言ったのだろう、と酒を煽る姿のなんと可愛らしいことか。鋭い眼光で敵を斬る剛勇さとは真逆のまるで拗ねた子供のようだ。これも酒の席でしか拝めないものなのだろうか。であれば、もっと晒してみたい。そうした下心を持ちながら、両手を上げて詫びの姿勢を見せてから顔を軽く傾けて続きを促した。

「私はそいつを……斬れなかった。当然だが任務は失敗。自制ができんのであれば常に気を張っていろと怒られたものだ」

 そう言って浪人は自嘲気味に笑うが、情の移った相手をなんの感情も抱かずにばっさりと斬り捨ててしまうよりは躊躇いが生まれる方がまだいい。そう思うのは味方として隣にいるからだろう。出会った頃はいつ敵になるのではないかと恐れていたものだが、存外、無慈悲になりきれず甘いところがあるとこれまでの付き合いで知れたのは大きい。例え敵対したとして我ら同志を斬り捨てるのは浪人にとっても難しい選択だ。むしろこいつが相手であれば斬られても悔いはないのだが。
 ともあれ、これまで隠されていた一面を覗けるのは嬉しいものだ。しかしたまの冗談はあれど普段は無駄なことを話さない浪人が滑るように語るではないか。酒が回れば口も回るようだ。このまま根掘り葉掘りと暴くこともできるかもしれない。そうして上機嫌になりながら自らの杯に酒を注ぐ高杉の隣で感嘆の声が漏れた。

「あぁ、そうだった。あれ以来、酒での失態は片割れの前で以外したことがないな」
「へぇ……」

 片割れと聞いて浮かれていた気持ちが一瞬にして地の底へと落ちていく。相変わらず空になった杯に視線を落としたままの浪人だが、随分と楽し気に過ぎ去った時間に想いを馳せている。緩んでいた頬も引き締まり無言で注器と杯を御膳台に戻せば、丁度向かいに座る伊藤と目が合った。美人の女中を前にだらしなく緩めていたであろう顔が引き攣っている。無理もない。酒の影響があるとはいえ今にも刀を抜いてしまいそうなほど高杉の目は据わっていた。
 けれどこのまま勢いに任せて刀に手をかけるほど酔っていなかったのは伊藤にとって、いやこの場にいる全員にとって救いだろう。
 高杉は気持ちを落ち着かせるように静かに息を吐いた。浪人がずっと一人の侍を追っていたことは最初から解っていたことだ。そして、その事情を承知の上で懸想し、相手も自分を選んでくれた。ならばこの場はいい方向に考えようではないか。胡坐をかいていた姿勢から片膝を立ててそこに頬杖をつくと顔を隣に向ける。

「つまり気心知れた相手の前でなら、あんたも酒に飲まれることがあるわけか。それなら、どうしてあんたはまだ気を張っているのかねぇ」

 こちらばかりが振り回されているのはごめんだと、仕返しのつもりでちょっと意地悪をしてみることにした。いつものように直球に言ってしまえば照れたような困った顔の一つでも見られるのだろうが、口周りの柔らかくなった今なら普段は聞けない本音を引き出せそうである。ここはひとつ賭けてみよう。

「そう、か? 気にしたこともなかったな。もう癖になっているのかもしれない」

 遠回しに自分にはまだ心を許していないのだな、そう伝えてみたのだが果たしてちゃんと届いただろうか。相手は鈍感なこともあればそうでない時もある。いい返事がなくとも今夜は運がなかったと諦めるしかない。収穫は充分にあったのだ。
 高杉が肩を竦め気分を変えるため一曲奏でようかと考え始めた一方で、浪人は考える仕草をすると空の杯を膳に置いて向き合うように姿勢を変えた。酒のせいか、それとも羞恥のせいか、頬がほんのりと染まっている。

「あるいは……お前と二人であれば、どうなるか私にも分からない」

 そうして律儀に導き出した答えを口にする浪人の期待の込められた瞳を真っ直ぐに受けた高杉は人知れず衝動を抑え込んだ。酔った勢いで半裸で踊る桂のいる宴会の場でなければ情緒もなく事に及んでいたに違いない。

「おっと、そいつはいいことを聞いた。さっそく試したいところだが今夜はやめてこう。俺のほうが先に酔いつぶれちまいそうだ」

 したがって努めて冷静に、相手に悟られまいと口を挟む隙を与えずに言葉を尽くした。これは賭けに勝ったと思っていいだろう。すました顔をしておいて内に燻るものを秘めていたとはなんとも嬉しい誤算だった。伝えた言葉とは裏腹に今すぐにでも酒に飲まれる姿を晒してほしいものだが、残念ながらここは人目が多い。高杉は密言をするように浪人へ身を寄せると、耳元に顔を近づけた。

「あんたの酔う姿がどんなものか、逢引の際にゆっくり拝むとしよう」

 今よりも饒舌になるのか、猫のように甘えるのか、はたまた想像もできないような一面を見せてくれるのか。一体どんな姿を拝めるのやら、楽しみが増えてしまった。もちろん、それを眼にできるのは情人である自分だけだ。




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