高杉と隠し刀

 長屋に戻って来たのは明け方になってからだった。足となってくれた愛馬の首回りを労うように撫で、慣れないことをしたおかげで凝り固まってしまった肩を揉みながら戸に手を掛ける。中に人の気配を感じたが、ここを訪れてくる知人は多いため今更警戒することもなかった。とくに身構えることもなく長屋へ入ったせいか、隠し刀は少々間抜けな面を浮かべてその場に立ち止まってしまう。

「やっと帰ってきたか」

 長い時間待ちわびていたことを示す挨拶を放ったのは囲炉裏の傍に座っていた高杉だ。何事もなければ留守にしていてすまないと軽い謝罪をするところだが、男の纏う空気の中に殺気に似たものを僅かに感じてただいますらも返せなかった。さすがに土間で立ち止まったままというわけにもいかず、いつもより慎重に居間へ上がる。そして定位置ともなっている囲炉裏の前までいくと、男から発せられる圧に負けるようにして腰を下ろした。もちろん正座で、だ。

「どうしてそう改まる? いつものように寛げよ」
「いや……」

 間違いなく高杉は怒っている。口調も表情も一見穏やかに思えるが、むしろその取り繕っているであろう仮面が恐ろしい。何より目が笑っていないのが確たる証拠。しかし非難されるような理由が思い当たらなかった。借りた金を使い賭場で大損した時でさえ笑って慰めてくれた男だ。生死の境を彷徨う程の大怪我を負ったのなら理解はできる。だが、古傷はあれど真新しい怪我などしてはいない。ならば原因は一体なんだと言うのか。
 片膝を立て頬杖をついたままの高杉は戸惑いの表情を浮かべ黙りこくってしまった隠し刀に深く溜め息を吐いた。

「最近、遊郭に出入りしているだろう」
「なんだ気付いていたのか」
「ほう……悪びれる様子もなし、か」

 それがどうしたと言わんばかりの反応を返してしまったせいだろう。こちらを咎めるようにすうっと細められた目元に改めて自身の行動を振り返った。高杉の言葉通り遊郭へ出入りしているのは本当だ。各地で猫を見つけては無事に戻っているだろうかと様子を見に行くのは最早恒例となっている。それ以外でとなれば、別の用事で通う回数が増えたことだろうか。朝方になって長屋へ帰ってきたのも昨晩もそこで過ごしたからで────そこで隠し刀は短く声を漏らした。なるほど、事情を知らぬ者からすれば確かに咎められてもおかしくない状況だ、と。
 その間の抜けた声に怒りを通り越して呆れた様子を見せた高杉が徐に立ち上がった。このままでは訳を説明する暇もなく出ていかれてしまうと慌てて男の手首を掴んだ。振り払われないことに安堵する間もなく引き留めるために縋りつくように口を開く。

「待ってくれ、誤解だ。疾しいことは何一つしていない」
「それを信じろと? お人好しのあんたが困っている太夫に手を貸していることなんざ端から承知している。退屈しのぎに坂本さんたちと飲みに行くのも結構。だがな、太夫と一晩を共にしているのなら話は別だ」

 たった一晩、されど一晩。信頼を失うには充分な時間だ。こと今回に関しては数日もの期間を要しているのだから疑いを持たれるのも無理はなかった。しかしここで全てを明かしてしまうのは少しだけ躊躇いが生まれてしまう。己だけでなく太夫の助力あっての隠し事なのだ。
 言葉に詰まる隠し刀を見下ろした高杉は膝を曲げると悲痛な表情を浮かべて再度確かめるように目前の瞳を見つめた。

「なぁ、あんたの気持ちはもう俺には向けられていないのか」

 問い詰めるものではなく希望を探るような声音に息が苦しくなる。そんなことはあり得ないと言いたい。決して情人を蔑ろにするような愚かな事はしていないと、胸を張って言ってやりたい。疑惑の念が晴れるのならばいくらでも言葉を尽くそう。だが、どれほどの想いが己が発する言葉で伝わるのか不安があった。信頼を失いかけている今、それだけでは不十分なのだ。
 であるならば行動に移す他に方法はない。愛しい人を苦しめ悲しませるくらいなら、未熟故の秘め事をうち明かすことなど些細なこと。元よりこれは高杉のためにと励んできたことなのだ。なんの憂いがあろうか。隠し刀は意を決したように口元を引き締めた。

「三味線を貸してくれないか」
「別れの唄すら弾かせるつもりはないって?」
「頼む。お前に、伝えたいんだ」

 今更どんな弁明をするつもりなのかと高杉は僅かに苛立ちを覚えつつも、必死さの中に真摯な気持ちを感じて仕方ないと背負っていた三味線を手渡した。そして促されるままに先ほどまで座っていた場所に腰を下ろす。さて言い訳を聞こうかと隠し刀へ視線を戻して、驚きに目を見張った。
 縁側では猫が眠る静かな朝の長屋に三味線の繊細な音が鳴った。時折聴こえてくる芸者顔負けの演奏ではなく、拙くも懸命で赤子のような初々しい音色。それを響かせるのは日頃から高杉の奏でる音を耳にするだけで満足だと言っていたあの隠し刀だ。弦を抑える指を目線だけではなく顔でも追う姿は初心者そのものだが、撥の扱いは随分と様になっている。得物を扱うばかりの浪人が遊郭へ通い始めたであろう時期を顧みれば、まずまずの出来だろう。
 この時点でおおよその事情を把握し、許しを与えてもいいと口元を緩める高杉に更なる驚きが齎された。
 ────貴方は私の愛しい人。その命を我が物にしたいと欲するほどに。この想いは何があろうとも決して変わることはない。命が尽きたその後も。
 そうした意味の込められた詩を奏でる音に乗せるように隠し刀が唄う。まだ弾き語りが充分にできるほど上達はしていなかったために途中で三味線の音が途切れるが、想いが込められた唄だけは綺麗に紡がれた。
 最後に弦が撥で強く叩かれて曲が弾き終わる。余韻に浸る心情もなく恐る恐る視線を高杉へと向けると、合点がいったのか安心したように、それでいて嬉しさを噛み締めるように下唇を軽く噛みながら口元に手を添えて頬を緩める男と目が合った。途端に恥ずかしさが込み上げて誤魔化すように三味線を抱え直す。

「唄は即興で上手くまとまらなかったが、私の気持ちだ。……お前のことだ、私が遊郭へ行っていた理由はもう察しているのだろう? 黙っていてすまない」
「まったくだ。まさかこの俺をここまで振り回してくれるとはな。こいつは一本取られた」

 そう、隠し刀が遊郭へ通っていたのは遊女に懸想していたからではない。猫探しをした見返りとして薄雲太夫から三味線を教わっていたのだ。偏にそれは想い人へ捧げるために。風流の嗜みがあるわけではなかったため、聞き苦しくない程度の腕前になるまでは周囲にも伏せておくつもりでいた。長屋で練習するわけにもいかず、かといって人気のない場所で一人練習していても上達は遠い。そこで遊郭の一室と太夫の時間を間借りしたというわけだ。皆が目の前の遊女や密談に夢中になる場では拙い三味線の音など気にも留めない。人知れず芸を身に着けるには最適の場所だった。それが裏目に出てしまったわけだが。
 暴いてみればなんともいじらしい秘密が隠されていたものだ。高杉は情人の移り気を疑った自分に苦笑した。

「良い意味でも悪い意味でも、あんたはいつも俺を驚かせてくれる」
「その、要らぬ懸念を抱かせてしまったこと、許してくれるか?」
「さて、どうするかねぇ。俺のためにと密かに頑張ったあんたの健気さに免じてやるのもいいが、それではつまらん」

 困ったように眉尻を下げる隠し刀の傍らへと近づいた高杉は密着する程に身を寄せると撥を握る手に触れた。手の甲から指先まで肌を擽るように撫でていき、そして熱が重なり合う。

「俺の嫉妬心を煽るなんてやはりあんたは性格が悪い。罰として、もうやめてくれと言うまで俺が手取り足取り教えてやろう」
「……お手柔らかに頼む」
「そいつはできん相談だ。こう見えて余裕はないんでな。あんたのおかげで俺の心は大忙しさ」

 掌から伝わる体温と吐息混じりの囁きに誘われるようにして隠し刀は顔を傾けてゆっくりと瞼を閉じていく。さながら呼吸を奪うが如く唇が重なり、覚悟しろとばかりに肩を引き寄せられた。そうして後ろから抱きしめられ、棹を持つ手も同様に捕らえられてしまう。果たしてどんな音色が奏でられることか。気付けば縁側で寝ていた猫の姿はどこにもなかった。
 その後、隠し刀の三味線の腕が上がったかどうかは高杉のみぞ知る。




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