高杉と隠し刀

※片割れ死亡√

 呼吸をするように刀を振り下ろす。抉った肉の柔らかさ、断ち切った骨の硬さ、柄から伝わるそれらの感触は生々しい。じわりと広がった鮮血はすぐに腐敗し血生臭さが嗅覚を刺激した。足元に転がるのは幼き頃より一対となるため生活の全てを共にし、血の繋がった家族よりも深い絆で結ばれた片割れの亡骸。何度も繰り返しあの日の光景が、こびりついた記憶が、夢の中で再現される。望まれはしたが、望んだ結果ではなかった。
 息苦しさに目を覚まし冷たい水から這い出るように歩き出す。両手には感触が、鼻腔には血の匂いがまだ残っていた。

「今夜も眠れないのか」

 夢と現実の境目が曖昧な朦朧とした意識の中で辿り着いたのは愛しい者の温もり。犯した罪でさえ全てを許そうとする柔らかな声音に誘われて、三味線を構える男と背合わせになるように身を寄せた。

「……すまない」
「あんたのためならいつでも奏でてやるさ」
「私はこんなにも、脆かったのだな」
「そう自分を責めるなよ。親しい人を失う気持ちは俺にも解かる。己の手で斬ったんだ、尚更辛いだろうこともな」

 慰めの言葉に甘えるように隠し刀は瞼を閉じる。半身とも言える存在の片割れを失った苦しみは身を引き裂かれる程のものだった。どうして斬ってしまったのかと後悔ばかりの毎日で、夢の中でさえ救えず喪失感が増すばかりだ。会いたいと願えば幻として現れ、もういないのだと自覚すれば己の手で斬る。いつしか眠るのを恐れたけれど会えぬのは寂しいもので、つい、追ってしまうのだ。そして決まって何も変えることができないまま目を覚ます。
 寄り添うように優しい響きが鼓膜を撫でる。眠れぬ夜には高杉の奏でる三味線の音が子守歌となっていた。


 西郷隆盛と勝海舟の会談が成就し旧幕府軍と新政府軍の江戸決戦が回避された後も、隠し刀の元へはその腕を頼りに様々な依頼が来ていた。要人の護衛やお尋ね者の捕獲討伐、困っている町民の手助けなど内容は様々だがここ数年でやってきたことと然程変わりはない。荒事はなくならず侍の世が終わろうとしている時代の境目であっても未だ刀は手放せないでいる。
 今回もまた穏便に事は済みそうになかった。
 
「辻斬り?」
「あぁ。最近ここいらに現れやがってもう何人も斬られている。幸い死人は出ちゃいないが、時間の問題だろうな」

 勝に呼ばれ訪ねてみれば、江戸の町ではかつて幕府の命で禁止とされた辻斬りが出没しているようだ。決まって夜更けに現れては男女関係なく無差別に襲い、金品を盗むわけでもなく立ち去ると言う。目撃者が少ない上、夜間の出来事ということもあり容姿に関する情報もなく正体は不明。見廻りの数は増やしているが犠牲が出るばかりで成果は得られていないことに困っている、というのが今回の依頼のきっかけだ。

「体制を立て直そうって時だ、人手が足りてねぇ。毎度頼っちまってすまねぇがお前さんの力を貸してほしい。噂じゃ相当の手練れって話だ」
「分かった、手伝おう。江戸中となると私一人ではまだ足りないな。こちらでも知人に声をかけてみよう」
「悪いな。詳しいことは奉行所の連中に聞いてくれ。頼んだぜ」

 こうして町奉行と顔見知りの道場から腕利きの者たちを集め麻布、渋谷、目黒、と江戸の町を隅々まで巡回することとなった。
 依頼を受けてから数日経ったが任された地域を見廻っても怪しい人影はなく、騒ぎの声もない。他の者たちからも同様の報告が上がっているようで、奉行人たちは警備が強化されたことで辻斬りが慎重になったのだろうと話していた。被害が出ていないのであればそれに越したことはないが、警戒を緩めて惨事が起こっては意味がない。事態が収拾するまでは手を貸すことが得策だろう。いずれにしても結局は寝るに眠れずいたのだ、静まり返った夜の江戸を歩くのは刻を潰すには丁度よかった。
 空が白み始めた頃、少しずつ町の中には人の声もするようになっていく。今夜も件の辻斬りは現れなかった。帯刀した柄を撫で、これでは腕が鈍ってしまうと迂闊に考えてしまったのは連日の寝不足により思考力が落ちたせいだろう。払拭するように頭を振り、長屋に戻ったら寝起きの高杉に一曲頼んでみようと思案しながら報告のために奉行所へと向かった。


 何度も経験すれば夢の始まりと終わりが解かってしまう。けれども自覚はできるが目覚めることはできなかった。心と記憶に戒めを刻み終わるまで。
 夢の中で片割れはいつも同じことを言う。お前の手で終わらせてくれ、と。あぁ嫌だ。その頼みは決して聞き入れたくはない。また肉を抉るのか。骨を断ち切るのか。腐敗する血の匂いを嗅ぐのか。やめてくれ、と一体自分は誰に向かって叫べばいい。抗うこともなく体は動き、あの日と同じように刀を上段に構えて跪く片割れ目掛けて振り下ろすのだ。
 そうして胴体が崩れ落ちて夢は終わる────はずだった。
 激しく鋭い刃音が鼓膜を震わせ、柄を握る両手へ伝わる痺れに目を見開いた。
 
「そろそろ目を覚ましたらどうだ」

 これまで無抵抗であった片割れが己の得物で受け止めたのだ。押し返される刀を受け流しながら後ずさり、立ち上がって柳生新陰流の構えを見せる相手に戸惑いが生まれる。何が起こっているのかまるで理解が追い付かない。どうして片割れは生きている。何故夢は終わらない。目を覚ましたいと願っているのは他でもない自分自身だ。
 認めたくはないが終わらせる方法は知っている。隠し刀は奥歯を噛み締め、一度刀を鞘へ納めると腰を落として柄を強く握った。

「私は、斬らなければならない。何度も、何度でも、繰り返さなければ。それがお前の命を終わらせ救えなかった、私への報いだ」
「あんたに斬られるのなら本望だ。でもな、道を見失いかけてる想い人を一人残して冥途へは旅立てねぇのさ」

 そう言って口元に笑みを浮かべる片割れに対して地を蹴り距離を詰めながら素早く抜刀し斬りかかる。さすが共に訓練に励んできた相手だ。そう簡単に体勢を崩せることもなく捌かれてしまう。迫る切っ先を避け、矢継ぎ早に斬り上げるも同様に避けられる。懐に入り込もうものなら蹴り飛ばし、斬りかかれば鍔迫り合いが起こった。
 そうして一進一退の激しい攻防を繰り返しながら、また戦わねばならないのは何故なのかと胸が痛くなる。後悔している選択をやり直せとでも言うのだろうか。いや、一度犯した過ちは消えることはない。なかったことになどできはしないのだ。この苦しみは命尽きるその日まで幼少の頃からの思い出と共に抱えていかねばならない。
 双方が刀を押し合い間合いが空く。隠し刀は構えを解き苦悩に染まった表情を浮かべて対峙する片割れを見つめた。

「何故お前は終わらせてくれと頼んだッ。復讐の念を抱きながらも私と二人で生きられる世を望んでいたのだろう? 犯した過ちなど私はいくらでも背負った!」

 これほどまでに感情を剝き出しにした姿をおそらくは誰にも見せたことがない。それこそ研ぎ師に救われ隠し刀として育てられて以降は。それ故か構えたままの片割れは眉を顰めた。責めるような瞳から逃げるように視線を落とし刀を握っていない方の掌を見つめれば僅かに震えている。そうだ。この手が奪ったのだ。二人で生きたいと望んだ明日を、我が半身を、永遠に亡くしてしまった。

「何故私は……お前を斬ってしまったんだ。我らは二人で一対。それを忘れるなど────ッ!」

 不意に覆うように影が迫り、思考するよりも先に体が動いて刀で重い一撃を受け止めた。

「あんたが自分を否定するのなら俺が肯定してやる。何も間違えちゃいやしない。選んだものは正しかったとな。だからこれ以上、妬かせるなよ」

 いつも己を咎めるためだけに繰り返される夢とは明らかに違う、いや、それ以前に記憶にある片割れとも似つかわしくない物言いに動揺が生まれた。その上、刃が打ち当たった衝撃によるものだろうが片割れの姿が一瞬だけ別の誰かと重なって見えたことがさらに追い打ちをかける。

「いい加減に俺を見ろ。あんたが剣を交えているのが誰なのか、その目でしっかり見定めな」

 何を言っているのだと困惑しながら相手の刀を押し返す。見ろ、と。見定めろ、と。言われずとも目を逸らしたことは一度もなく、自らに課せられた罰から逃れようなどと思ったことはない。だというのにそれでもまだ足りないのか。どうして立ち向かってくる。過ぎ去った刻を取り戻せないように、希望など与えられても無駄なことではないか。ただ苦しみが積み重なるだけのこの夢を早く終わらせてしまいたい。
 鍔迫り合いを続ける刀を払い退けて、相手の体勢が整う前に懐に潜り込むため大きく一歩踏み出す。刀を逆手に持ち替えて肩から腕を引くように胴斬りの構えをすると片割れは口角を吊り上げて笑った。

「やれやれ、強情なやつだ」

 面白いとも困ったとも取れる親しみのあるその表情に目を見張る。これは片割れではない。そんなはずはない。構えた刀を、振るった腕を、夢の終わりへと導くはずの一振りを止めることはできなかった。切っ先が相手の胴を走るのに合わせて霧のように幻影が斬り割かれる。現れたのは高麗納戸色の見慣れた装い。刃が通ったことを示すかのように乱れなく布が裂かれており、その奥には赤い線が滲み出した。
 胸元を押さえて膝を付く男の姿に短く息を吸い込み呆然とする。重さに耐えきれず血の付着した刀が震える手から滑り落ち、地面へと転がった音で我に返り駆け寄った。

「高杉……っ!」
「ようやくお目覚めか。死して尚もあんたを独り占めするなんざ、隠し刀の繋がりってのは厄介なもんだぜ」
「喋るな、傷を見せろ!」
「あんたの太刀筋はよく知ってるつもりさ、これくらい大したことはない。まだ死ぬわけにはいかんからな」

 平気そうに言うものの指の間からは血が伝っている。どれほど深く斬り付けたのかは定かではなかった。だが、これが現であると気付くのが遅れていれば容易く命を奪っていたに違いない。すぐに楢崎の元へ向かおうと高杉の腕を肩に回して急ぎつつも慎重に歩き出す。
 報いを受けるための夢路だと受け入れて何度も繰り返した行動は全て実態を持って行われていた。人を斬った感触も血の匂いも本物だったというわけだ。自覚できぬほど片割れの死に囚われていたのだろう。目を背けていないつもりだったのだが、実のところは最初から見ないふりをしていただけ。己の弱さのせいで無関係の者にまで被害を出してしまった。

「辻斬りは私、か。滑稽もいいところだな」

 しかし自分には似合いの末路なのかもしれない。死人が出ていないとは言え辻斬りは死罪だ。幕府に故郷を焼かれ、黒洲藩によって"隠し刀"として育てられ、藩命のためと言えど多くの命を奪ってきた。迎える最期として文句の付け処もないほどに相応しい結末と言える。
 そうして自嘲気味に笑う隠し刀の横顔を見つめていた高杉は静かに視線を外して前を向いた。まだ丑三つ時の頃合いだろう。町全体が眠りについており、物騒な噂もあってか人っ子一人出歩いてはいない。件の辻斬りがこの浪人であると知っている者もまたいないのだ。

「いっそのこと、江戸を離れて二人旅でもするか」
「……それもいいかもしれないな」
「冗談で言ってるわけじゃない。俺だってな、好いた相手の過ちくらい背負う覚悟でいる」

 それは因縁によって得られた信頼を捨て、逃げてしまおうというものだった。驚いて高杉へと顔を向けるが当の本人は首を垂れてしまっている。

「なぁ……俺では駄目か。あんたの欠けた一部を埋めるには俺では足りんか」

 独り言を零すように告げられた想いに隠し刀は困ったように眉尻を下げて暗い空を見上げた。
 片割れはもう一人の自分のような存在だった。例え最期の願いを受け入れて納得しても、欠けてしまった心の一部はこの先もずっと空洞のまま。誰かで補えるわけではないそれは夜空に浮かぶ月のようにまた満ちることもないのだ。だが、欠けたままでも構わないのではないか。補えることも埋めることもできないが全てを包み込んでくれる者が近くにいるとどうして気付けなかったのだろう。

「あんたが俺だけを見てくれるってんなら、こんな弱音も吐かないさ。ま、相手は死人だ。分が悪いのは解ってる」
「そんなことはない。お前がいなければずっと夢に囚われ続けていただろう。目を覚まさせてくれたのは他の誰でもないお前なんだ、高杉」
「こっちは体を張ってんだ。目覚めてくれなきゃ困る」
「珍しく察しが鈍いな。私をこの世に留めてくれるのはお前しかいないと伝えたつもりだったのだが」
「……どうも血を流しすぎたせいかもしれんな」

 すると高杉が足を止め俯いたまま動かなくなってしまい慌てて顔を覗き込もうとした。その時、身を屈めた動作に合わせるかのように肩へ回していた腕に強く引き寄せられる。尚且つ足も払われてしまい転がるように地面に背をつけた。あまりに突然のことでまともに受け身もとれず、ただただ焦りと驚きの入り混じった情けない表情を浮かべ唖然とするしかない。
 そんな隠し刀を見下ろしながら高杉は喉を鳴らすように笑って膝を曲げた。

「ははは、油断したな」

 差し出された手を借りて上体を起こした隠し刀は丁度目線の高さになった胸元に目を向ける。血で濡れてはいるが危惧していた程に傷は深くないようで、それほど流血しているわけではなさそうだ。安堵の息を吐いた後、いきなり何をするんだと高杉に視線を向ければ呆れたように肩を竦められた。

「意地の悪いことを言うからだ。俺はな、連れ戻せない時のことも覚悟していた」

 そして切なさを滲ませた微笑みを浮かべると血に濡れた手で頬に触れられる。ここにいることを確認するように撫でる指先の些細な仕草と温もりが擦り減った精神に染み込んでいくようだ。

「あんたには俺しかいない。信じていいんだな?」
「あぁ。お前は私の一部で、全てだ。もし……もしまた私が道を誤ってしまっても、見捨てないでいてくれるか?」
「分かり切った答えを言わせる気か? あんたこそ俺を信じろ。行く道が地獄でも二人でなら極楽さ」

 頬を撫でる手に顔を押し付けるように擦り寄ると隠し刀は瞼を閉じた。自分の選んだ道が間違いではないと高杉が信じてくれるのなら、片割れの最期の願いも受け入れられる。もう目を逸らすことも、夢を見ることもなくなるだろう。
 だからと罪が清算されるわけではない。現実は変わらないのだ。
 隠し刀は辻斬りの被害に遭った者たちへと薬を届け、持ち得てる全ての銭を与え、回復を見届けた後に江戸を離れた。死罪を免れたのはこれまで結んできた因縁のおかげであったが失った信頼も多い。けれど、元には戻せなくとも別の形で少しずつ良くしていくことはできるだろう。それを教えてくれた高杉と共に旅に出たのは逃げるためではなく新たな一歩と贖罪のためであった。




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