※不器用な話の続き
「郷四郎ちゃん、ちょっとこの書類あの子に届けてくれないかしら?」
含みのある笑顔で中村さんはそう言うと、一つの封筒を俺に差し出した。あの子というのがナマエのことだというのは容易に理解できたが、わざわざ俺に行かせる魂胆が分からない。訝しげながらも承諾すれは、中村さんは意味深な笑みを浮かべながら「それじゃ、頼んだわよ」と言い、仕事に戻っていった。
ここ一カ月の間にお奉行が切腹し、青戸組が壊滅したこともあり天原奉行所は多忙を極めていた。そのため多くの同心は俺と同じように奉行所に籠り激務に従事し、ナマエは町民内での混乱を防ぐため町に入り浸りになった。「町民での問題は任せておけ」と言い切っただけのことはあり、町は奉行が亡くなったのにもかかわらず大きな混乱もなく、治安も保たれたままだった。――その代り、ナマエはめっきり奉行所には来なくなったが。
***
夕暮れ時、仕事がひと段落ついたこともあり書類を渡すべくナマエの家に上がらせてもらう。「おいナマエ、」と名前を呼んでも返事が返ってこない所から、きっと留守なのだろう。一瞬、天原から去ったのではないかという考えが頭をよぎったが、すぐさま頭を振って否定する。幸いもう少しで日が沈む、そうなれば流石に帰ってくるだろう。それまで暫く部屋に居させてもらうと思い立つと同時に、ふと、背後からにわかに花の香りが鼻孔を燻った。
(花の香り…?)
匂いを辿るように振り返れば、そこには俺に意味深に腕を伸ばし、驚いた表情をしたナマエが居た。いきなりのナマエの登場にこちらも驚かずにはいられなかったが、俺に伸びている手を見て思わず眉を寄せた。
「…おい、この手はなんだ」
「あー……、何でも、ないぞ」
途端にバツが悪そうに視線をそらす様を見れば、大方予想通りのことをしでかそうとしていたことが分かる。「嘘を吐くな、この阿呆め。俺を驚かそうとしただろう」と顔を顰めて言えば、ナマエは驚かせなかったことがつまらなかったのか、不本意そうに口を尖らせた。
顎に手を当て暫く考えた後、ナマエは真面目な顔で「ひとつ聞きたいのだが、何故分かったのだ。元忍びの者として、主に絶対見つからない自信はあったのだが」と此方に詰め寄った。珍しくムキになる姿に「何をそんなムキになっているのだ」と返せば、「ムキになどなっていない」と眉を寄せる。
ナマエが近づいたせいか、再度花の香りが鼻孔を燻った。そう、この匂いは確か---
「金木犀だ」
思い出すと同時に、言葉に出していたらしい。おかげでナマエは言葉の真意が分からないのか首を傾げていた。
「お主から、金木犀の香りがするのだ。だから後ろに立たれたときも、花の香りがした」
一通り説明したあと、本心からか「良い香りだな」と思わず零れでた。
珍しいことを言う俺の姿に驚いたのか、ナマエは目を点にした。そして先程驚かせなかった仕返しにか「どうだ、もっと香りを嗅ぐか?」と片頬を上げながら、からかい口調で言った。
いつもの俺ならば、「戯けが」とでも言いながら眉を寄せただろう。しかし一ヶ月という期間は、どうやら俺に変化をもたらすのに十分な時間だったようで。俺が先程の”からかい”に乗って正面から抱きしめると、ナマエは驚いたのか体を硬直させた。「お、おい郷四郎…」と動揺の色を隠しきれないナマエに、「花の香りを嗅いでるだけだ」とナマエにも、自身にも言い聞かせる。顔に熱が籠る感覚に歯がムズムズする。ええい、慣れない事などしなければ良かったと人知れず後悔するのだった。
***
どれくらい抱きしまれたまま時間がたったのだろうか。夕日も大分沈み、辺りは仄かに闇を帯びてき始めていた。しかしながら、らしくないことをする、などと郷四郎の胸の中で思う。
そんな私の心情を読み取ったかのように、郷四郎は私を抱く腕の力を強めた。
「…本当は、些か不安だったのだ。お主が天原から消えたのかとではないかと、何度か思ったことがある。この天原に、お主を繋ぎ止めるものは何も無いような、そんな錯覚にみまわれる」
「__私は、御奉行の介錯をしたあの時から、腹を決めている」
「…分かっている。ただ、こうでもしないと実感が湧かないのだ」
よく鼻の効く男だと、つくづく思う。青戸組を壊滅させた後、もし御奉行が生きていたなら、私は今度こそ天原を去ってただろう。今の天原に私は必要ない存在だと何度も考えたことだってある。ただ、そうしないのは奉行の願いを任された責任感と、郷四郎の存在が大きい。私は、郷四郎を好いているのだろう。現にこうして抱きしめられて、悪くないなどとさえ思っている。
「…なぁ、郷四郎。私はな、今まで誰かに依存したことなど、なかったのだ。だが、きっと今の私は、お主に依存してきている。こんな言葉を信じろとは言わぬが、その不安心を和らげさせることはできないか」
「…ふっ、どうだか。忍びは口が上手いと聞くからな」
「なっ…!」
癪に障るその一言に、思わず顔を上げ抗議の言葉を上げようとした。が、顔を上げた先には、酷く優しそうな顔をした郷四郎が居て。しまった、先程の言葉は釣り文句だったのだと理解すると同時に、お互いの唇が触れ合った。最初の時より長い口づけに、思わず顔に熱が籠る。
「こ、この痴れ者め…!阿呆!」
耳まで真っ赤になりながら叫ぶその姿はまるで初心な生娘同然だっただろう。その羞恥心から阿呆者、馬鹿者と郷四郎に投げかけたが、残念ながら郷四郎の耳には入っていかなかった。
翌日、やけに嬉しそうな中村さんに郷四郎が質問攻めされたのは言うまでもない。
(20121028)
中村さんは郷四郎から香る金木犀の匂いに気づいた時点で全てを悟りそう。
因みにタイトルは金木犀の花言葉から