良い子の崩壊


いつも真面目で誠実に。
なんて、そんなバカな話があるわけない。どんなにいい子でいたって、悪いことの一つや二つ、無意識的に働いていることだってあるものだろう。
まぁ、わたしのこれは間違いなく意識的なものなんだけど。

中庭の隅。
誰の視界にも入らない安置場所が必ず何処かに一つはあるものだ。この高校の場合はそれがこの隅っこ。
ここは誰の目も届かず誰も見廻りに来ない絶好の場所だった。

わたしの、秘密の場所。

肺に吸い込んだ煙を細く吐き出せば、宙に溶けて煙が消えていく。白く長い一本を指で挟み込んだこの姿は、誰にも絶対に見せられない。
今は昼休み。
ご飯も一人で今日は食べた。その後も、わたしは一人でこの場所でタバコを吸っている。


根が真面目、というのは往々にして損をする役回りなのかもしれない。わたし自身が不器用であるということもあるかもしれないけれど。
Z組唯一の優等生のレッテルは、わたしにとって多大なプレッシャーでしかなかった。
答えられるかどうかもわからない周囲からの期待、見えない将来への多大な不安。
勉強は、そこそこ好きだったはずなのに。今となっては、それすら好きか嫌いかわからなくなってしまっている。

溜まっていくストレスを発散させる為に、手を出してしまったこの不健康そのものの一本は、わたしにとって無くてはならないものになりつつあった。
この一本を吸う為に日頃生きているようなものだ。
大袈裟と言われるかもしれないけれど、わたしにとっては大袈裟でもなんでもない。

吸い込んだ煙のメンソールが口の中に溶ける。
これを吸い終わったら、ひたすら自分にファブリーズをかけまくった上でブレスケアも充分に済ませて、ガムを噛む。
それがわたしの――優等生の、唯一の不良行動。

こんなのバレたら、停学か――最悪退学かな。まぁそれもいいか。なんてお気楽に考えながら、細長く煙を吐き出した。

ぼうっと空を眺める。
空は相も変わらず憎らしいほど青く澄んでいて、わたしは顔を顰めた。

その時のわたしは、完全に油断していたのだ。ここに見廻りに来る教師なんて一人も居ないと。
だから、まさかこんなところに、自分の担任が来るなんて思わなかった。安物のサンダルを踏みしめる音なんて、全く聞こえてなかったのだ。

「あ、やっぱ居た」

呑気な声が耳に届いて、わたしは思わず弾かれたように声の主を確かめた。
見慣れた白衣に、見慣れた白髪頭。力無い瞳がわたしをしっかり捕らえて逸らさない。

嘘だろ、と思った。思いたかった。
だけどこれが現実で、座り込むわたしの目の前まで歩いてきた担任は、間違いなく夢でもなんでもなくて。

「ぎ、銀八」
「よォ、優等生。タバコはどうだい」

今更急いでタバコを揉み消すのももう遅い。現行犯で見られたこの行為に、わたしの終わりを早くも告げられているような錯覚に陥った。

「ど、どうとは?」
「旨いか?……味わかんのお前」
「さ、さぁ……」

紅色の瞳から目を逸らすことが出来ないでいるわたしに、ただただ無表情で突っ立っている担任。
わたしはこの瞳が苦手だった。
なにもかもを見透かすような、わたしの現状すらも心境すらも見透かされているような。そんな気がして、苦手だったのだ。
ジリジリと火だけが進んでいき、灰が伸びていく。携帯灰皿に捨てることも出来ず、尚も硬まる身体。

終わった、これ、終わった。
わたし停学だ。
しかもよりによって担任に見られるなんて。
あばよ、高校生活。華の女子高生もここで終わりか。

「まさかお前がこんな事してるなんてなぁ。親が知ったら泣くぞ。ついでに校長も泣くぞ」

呑気に自分のタバコを持ち出す銀八にわたしは顔を俯ける。「なぁ、火」なんて短い言葉が聞こえてきたけど、返事も返せない。
わたしの頭の中には、どうやってこの状況を逃げるかだけが逡巡していた。

これは銀八ですらもお説教か。生徒指導室一直線コースか。

「なぁって。火。持ってんだろ」

思ったよりも近くで聞こえてきた声に俯けていた顔を上げる。
わたしの前にしゃがみ込んだ銀八が、煙草を咥えた状態で眉を寄せてわたしを見ていた。

「え、火……火?」
「ライター忘れた。火つけて」
「え、あの……」
「つけて」

有無を言わさぬ物言いに、持っていたタバコの灰を捨てて、口に咥える。
ライターをポーチから取り出そうとすれば、その手を止められて。

「違う」
「へ」

そのまま銀八の顔がわたしの顔に近づいた。
それから、わたしの咥えてるタバコの先と、自分が咥えてるタバコの先をくっつける。ジッと爆ぜる小さな音が、ひどく大きく聞こえるような。そんな錯覚。
短くなっていたわたしのタバコの火種が銀八のタバコに移っていくように、火を灯す。
想像以上に近い銀八の顔から目を逸らすことが出来ず凝視してしまった。
そんなわたしの視線が気になったのか、タバコの火種を見ていた銀八の目がわたしの目とバッチリと合ってしまう。
心臓が、うるさく鳴り響いて。銀八にも聞こえるんじゃないか、なんて思ってしまった。

「シガーキス。知ってる?お前」

まるで時間の感覚が遅く感じる。
暫くして銀八がスッと離れて、後ろに下がった。
火の着いたタバコを骨張った指で挟んで、煙を細長く吐き出した銀八が薄く笑いながら、唖然とするわたしを見て言い放つ。

「な、なに、して」
「タバコもほどほどにしとけよー。後吸うなら絶対見つかんな」
「え、いや、あの」
「それとも先生からの説教期待した?そういうの怠いから嫌なんだわ俺」

それでも教師かと言いたくなる言葉を放つけど、この男は間違いなく教師で。わたしの担任で。……そうだこの人、わたしの担任なんだ。

「優等生も悪いことの一つや二つ覚えておいて損はねーよ。いや、損はあるか?……まぁいいや」
「本当に何も言わないの」
「バレる様なことしたら俺も言うよ。そりゃ」

「でもまぁ、お前必死で隠してるっぽいし」呆気羅漢と宣う担任に、わたしは何も言い返さなかった。
多分、この人はわかってる。今までのわたしから香るタバコの匂いにも、察してたんだろう。
食えない人だ。

「銀八」
「あン?」
「今度、……わたしに火ちょうだいね」
「お前一回俺にバレたからって隠す気ないな?」
「一回バレたら隠すのバカでしょ。他の人にはバレないようにするよ、銀八だけ」

隣に座り込む銀八に倣ったように、吸い込んだ煙を細長く吐き出した。

「……まぁ、気が向いたらな」

なんて渋々呟く銀八の声、クスリと笑ってメンソールの味を楽しんだ。


20180716


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